2回連続で赤塚先生のことを書いている。
ゲッツさんのところに寄稿した中でいちばん好きな文章がこれだった。赤塚先生について書こうとすると、いつも背筋がピッと伸びるような気持ちになる。
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杉江松恋のチミの犠牲はムダにしない!
第15回「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」武居俊樹(文藝春秋)
一九九五年から八年間、私は東京都西新宿の十二社通りに面したところに住んでいた。新宿中央公園に面した十二社通りは、昔は青線と呼ばれた歓楽街があったところで、路地裏には廃業した娼館があちこちに残っていた。街並みにも昭和の匂いがした。
その十二社通りに面した旧いビルの一階に、シャトレという喫茶店が入っていた。深夜営業もしている店で、ビーフシチューとオムレツが美味しい。店の前には、ミュージシャンの大槻ケンヂが雑誌でこの店のオムレツを推奨した記事が飾られていた。私もよく、仕事終わりに寄ってビールを飲んだものである。ビルの二階は歯医者の診療所になっていて、三階と四階は空き室だった。とにかく旧いビルで、ドアノブは真鍮で出来ているのではないかというような雰囲気だったのである。私が引っ越す直前の二〇〇三年に、このビルは老朽化のために取り壊された。
昨年、理由があって赤塚不二夫関係の本を集めていた。フジオ・プロのブレインだった長谷邦夫の『赤塚不二夫天才ニャロメ伝』(マガジンハウス)はそのために読んだのである。そして驚いた。あのシャトレのあったビルの三階四階は、スタジオ・ゼロが入っていた場所だったのだ! そういえば窓にステンシル文字が残っていた。なんで気づかなかったんだろう、私は。
スタジオ・ゼロは、赤塚不二夫、石森章太郎(当時)、鈴木伸一、つのだじろう、藤子不二雄(当時)といったトキワ荘グループの漫画家たちが一九六三年に興したアニメ制作会社だ。TVアニメ『鉄腕アトム』の「ミドロヶ沼の巻」を制作したのを皮切りに、『レインボー戦隊ロビン』などの作品を手がけ、一九七一年まで存続した。アニメの企画部から雑誌部(漫画)が独立し、赤塚のフジオ・プロ、藤子プロ、つのだプロなど各作家の漫画プロダクションが三階部分を使うことになったのである(石森は練馬区に事務所を構えたため入居しなかった)。十二社はもともとつのだじろうの実家があった場所で、シャトレ前の床屋がその家だった。
やがてスタジオ・ゼロは分裂し、フジオ・プロは新宿区中落合に移転した。赤塚ファンにはおなじみの、ひとみマンションである。藤子プロはそのまま十二社通りに残ったが、通りを渡った西新宿四丁目のビルに移転した。つのだプロの場所は知らないが、西新宿につのだじろうも弟のつのだ☆ひろも住んでいた。つのだ☆ひろがバリトンの美声を張り上げながらコンビニで「ガムください~」と買い物をしている場面を私は目撃したことがある。何もガム一つ買うのにあんないい声で言わなくてもいいだろう、と思ったものだ。じろう邸は地元の子供たちの間で肝試しの心霊スポットに認定されていた。
話がいささかズレた。問題はスタジオ・ゼロの入っていた「市川ビル」である。私が何気なく通っていた一階のシャトレは、フジオ・プロのアイデア・ミーティングで使われた場所だったのだ。赤塚不二夫の最初のヒット作である『おそ松くん』には、このシャトレで生み出されたギャグがふんだんに盛り込まれている。ミーティングに参加したのは、赤塚とブレインの長谷邦夫、後に『ダメおやじ』で人気漫画家となる古谷三敏、そして歴代の週刊少年サンデー編集者。その六代目担当となったのが武居俊樹、『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』の著者である。
武居俊樹こと武居記者は、日本の漫画史に残る人物である。週刊少年サンデー編集者として、赤塚の代表作『おそ松くん』『もーれつア太郎』『天才バカボン』(週刊少年マガジン連載だったが、武居が赤塚に働きかけてサンデーに引き抜いた。当時のサンデーにはア太郎とバカボンが二本とも連載されていたのである)を担当。最後に担当した『レッツラゴン』では漫画内のキャラクターとして登場し、主役を食うほどの活躍ぶりを見せたのである。
もともとサンデーの赤塚連載では、前述したように編集者がアイデア出しに参加していた。武居記者は週六日フジオ・プロに入り浸り、アイデア作りに貢献した。なんとライバル誌の連載である『バカボン』(担当編集者はこれまた赤塚ファンにはおなじみの五十嵐隆夫)のアイデア出しにまで協力したこともあったというから驚きである(『レッツラゴン』の扉ページが意味もなく『天才バカボン』になっているというギャグもある)。武居は一担当編集者というよりも、赤塚のスケジュール自体を把握したフジコ・プロの牢名主的存在だったのだ。自社(小学館)の学年誌の編集者が赤塚の原稿を督促に来たのを、追い返したこともある。赤塚に「あの人、武居さんの会社の大先輩だよ」と言われ「知ってるよ。だけど、僕、学年誌なんて関係ないもん」と言い返したという。
赤塚が連載を持っている週刊三誌は、武居のサンデー、五十嵐のマガジン、小林鉦夫のキングの順で原稿をもらう決まりになっていた。だから、キングの原稿はいつもギリギリの週末になる。
――(前略)遊び人のあだち(注:勉。充の兄でフジオ・プロのチーフ・アシスタントだった。二〇〇四年没)が、フジオ・プロに麻雀卓を持ち込んだ。土曜の午後、赤塚は麻雀に加わっている。腕時計を見て、カネさん(注:小林)が、いつものような笑顔を浮かべて言う。
「先生、今、キング落ちました」
赤塚は、麻雀の手を休めずに、
「それなら、もっと早く言いなよ」
ひどいよ! フジオ・プロでは人格者ほど損をする構造だったのだ。カネさんこと小林記者は、酔っ払った赤塚と武居、五十嵐に殺されかけたことさえある。フジコ・プロのある中落合で宴会がお開きになったあとの深夜零時ごろ、なぜか悪い相談が始まったのだ。
――ちょうど妙正川の橋の上に差しかかった時、赤塚が言った。
「ここから、誰か川に落としたら面白いだろうな」(中略)
「カネさんだったら、死んじゃっても惜しくないもんな」
「そうだ、そうだ」と五十嵐が言いながら、カネさんを羽交い絞めにする(注:ちなみに五十嵐は最終的に講談社の取締役にまで出世した)。勿論、赤塚も僕も協力する。カネさんは、命がけで暴れる(注:あたりまえだ)。
結局小林記者は縛めを振りほどいて逃走に成功するのだが、捕まってしまい、今度は西武新宿線中井駅の線路で「こいつを轢死させよう」という相談がまとまる。嫌がる小林記者を必死で押さえつける三人。幸い小林記者が再脱出に成功したからいいものの、人命を屁とも思わない乱暴さだ。これがフジオ・プロの恐るべき実態だったのである。こんな素晴らしいところで作られる漫画が、おもしろくならないわけがないね。
結果として、赤塚の漫画には担当編集者がどんどん登場するようになった。同じような楽屋落ちをやった漫画家は赤塚以前にもいただろう。しかし、主役を食ってしまうほどの人気キャラクターに編集者がなった例は赤塚以前にはないはずだ。『バカボン』担当の五十嵐記者もデガラシ、バカラシなどの偽名でたびたび漫画に登場させられたが、なんといっても武居記者である。武居記者の似顔絵募集(赤塚が武居の顔の特徴を文章で説明し、想像画を募集するというもの)まであったというのだからすごい。一時期の『レッツラゴン』では、扉で赤塚と武居が罵り合いをするのが名物になっていた。
武居「バーロー!! 赤塚、きさまおれに痔をうつしたな!!」
赤塚「武居くん、痔は伝染病じゃないんだよ!!」
武居「うそつけ、バーロー!!」
赤塚「無知というのはこわいなあ…」
武居「バーロー!! おまえをなぐって、頭を痔にしてやる!! 痔頭市にしてやる!!」
赤塚「武居くん、ベトナムでも戦いは、終わったんだよ。このへんで我われも休戦しようよ」
武居「このタバコの『ピース』をくれたら、休戦してやる」
ふたり「ピース!! ピース!!」(「気楽な稼業もいじゃないか」より)
こんなやり取りが毎回繰り返されたら、そりゃ人気も出るというもの。では実際の武居記者はどうだったのかというと、もちろん漫画のような出鱈目な人物……だったのである! フジオ・プロの冷蔵庫にはいつもハイネケン・ビールが常備してあったが、「その冷蔵庫を武居さんが足でバーンと開けたりして」(あだち勉。『赤塚不二夫の爆笑狂時代 アカツカNO1』収録の座談会より)勝手にビールを飲んでいた、という武勇伝も残っている。早稲田大学の文学部から小学館に入った新人時代には、当時サンデーの二枚看板だった『おそ松』と『オバケのQ太郎』について、赤塚に面と向かって「『オバQ』は上品だから好き(つまり『おそ松』は下品だから嫌い)」と言い放った男が、こうまで変わるものか。フジコ・プロの恐るべき出鱈目ウイルスに、武居記者もずっぽり侵されてしまったのだろう。朱に染まれば赤くなるとはまさにこのことだ。
逆に言えば、それだけ赤塚にカリスマがあったということだ。『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』は、頭からお尻までくだらないことが書いてある素晴らしい本だが、バカげた挿話の間に、赤塚と周囲の人間たちの漫画に賭ける情熱が美しく紹介されている。
赤塚は自分の作品にほとんどペン入れをしなかった。アイデアをネームにし、原稿に当たり(だいたいの下絵)を描いて赤塚の作業は終わりだったのである(高井研一郎が当たりのラフな線に基づいて鉛筆でしっかりした線を入れ、アシスタントがペン入れした)。赤塚は一九七三年末に突如筆名を「山田一郎」に改めたが(七四年三月に戻した)、「赤塚不二夫」の仕事はフジオ・プロという集団の仕事であり、赤塚藤雄(本名)個人のものではないという割り切りがあったから簡単に踏み切れたのだろう。アシスタントが仕事の上で果たした比率は読者が考えるよりもはるかに大きい。『おそ松くん』でいえば、「赤塚の作ったキャラの絵は、六つ子と、その父母、トト子ちゃん(注:『ひみつのアッコちゃん』と同じ外見)くらい」(赤塚前夫人・登茂子氏)で、あのイヤミなども赤塚が口伝てに説明をするのを聞きながら、高井がデザインしたものなのだそうだ。赤塚はそのことを隠そうとしなかった。だからこそ、門下から続々と有望な才能が巣立っていったのだ。これまで名前を挙げた長谷、古谷、高井以外にも北見けんいちがいて、とりいかずよしがいて、土田よしこがいた。赤塚には、人の才能を開花させる不思議な力があったのだ。武居は言う。
――赤塚は、自分のアシスタントを次々に一本立ちさせる。それは、すなわち自分の作品を痩せさせることだ。右腕を、左腕を切り落としていくのと同じだ。アイデアが薄まり、絵が枯れていく。赤塚にも、それが判っている。判っていながら、それをやる。僕は、それを見ていて、本当に立派だと思う。人の道に外れていないと思う。
赤塚の全盛期は『おそ松くん』の連載が始まった一九六二年から『レッツラゴン』が終了した一九七四年までだろう。甘く見て週刊文春の連載『ギャグゲリラ』が続いていた一九八二年までだ。前回書いたように、赤塚が漫画以外のことに力を入れ始めたり、酒量が増えたりしたことも原因ではあるが、アシスタントの散逸を食い止めようとしなかったことが最大の原因だ。『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』で武居は、赤塚の遺した偉大な足跡を、至近距離の観察者ならではの詳しさで書き綴っている。
おしまいに、武居が担当を離れる際、赤塚が彼に贈った言葉を紹介しておこう。
「ずっと馬鹿でいなよ。利口になりそうになったらね、『お○○こ』って、大声で一〇八回叫ぶんだ。そうすると、また馬鹿に戻れるよ」
赤塚先生、私も一〇八回叫んでいいですか。
(本書のお買い得度)
赤塚不二夫二連発、いかがだったですか。次回はその赤塚とまんざら関係がなくもない某大家が登場。タイカだよ、オオヤじゃないよ。
週刊少年サンデー時代の武居記者の素晴らしい出鱈目ぶりを読みたければ、ごま書房から出ている復刻版の『レッツラゴン』を読もう。あいにく現在品切中のようなのだが、もちろんまだ新古書店などで手に入るはずである。もちろん、『赤塚不二夫大全集』を購入するのも可だ。前回紹介した『これでいいのだ。』同様、本書も赤塚不二夫入門書としては格好の本である。近頃なんだか自分が好きじゃなくなってしまった人、友達についつい賢しげなことを言って煙たがられているという実感のある人、恋人に薀蓄を語って嫌われてしまった人、キャバクラ行って憂さを晴らしたり(セット料金三千円から)、ケーキバイキングでヤケ食いしたり(一時間二千円から)するのもいいけど、この本を読んで馬鹿になろうぜ。定価はたったの一六〇〇円也だ。
初出:「ゲッツ板谷web」2007年4月11日