スイスの作家ペーター・シュタムの短篇集『誰もいないホテルで』(松永美穂訳/新潮クレストブックス)には10篇が収められている。表題作は、仕事のためにホテルに籠ろうとした〈ぼく〉の奇妙な体験を描くものだ。さんざん山道を彷徨ったあげくにたどり着いたホテルで彼を出迎えたのは、客を待たせたまま食べかけのラビオリをむしゃむしゃと平らげる女性・アナだった。部屋のシャワーからは水が出ず、パソコンを起動しようにも電気が通じていない。最適な行動はすぐに下山することだったが、〈ぼく〉はホテルに居残ってしまいアナとの二人きりの日々が始まるのである。
わかり合えるってそんなに当たり前のことですか。そう訊ねるかのように本書に収録された10篇においては人々がすれ違い続ける。恋人との同棲を開始したばかりだというのに、購入したバスタオルのほうが「自分たちの関係よりも長く持つかもしれない」と主人公が思ってしまう「スウィート・ドリームズ」、作物が絶対に成ってくれないとわかっているのに畑に種を播き続けているような気持ちになる「眠り聖人の祝日」などを読みながら、二つの気持ちが芽生えていくのを感じた。一つは、自分ももしかすると誰とも真の意味ではわかりあえないのかもしれないという不安、もう一つは、最も傷つきやすい部分を他人に踏み荒らされるぐらいならば、扉のない部屋の中で静かに暮らしていたいという願望だった。
そうした意味で最も心に残ったのは、高校時代の3年間を誰にも知られずに森の中で過ごした女性・アーニャを主人公とする「森にて」だった。スクールカウンセラーの言葉を「あんたなんか森では一週間も生きのびられないわよ」と無視する彼女にとって、森の中とは行為の理由など不要な、心地よい場所なのだった。他人を必要とせず孤独で綴じていたいという後ろ向きな感情をもシュタムは無碍に否定せず、小説として汲み取っていくのである。
(800字書評)