松井今朝子『料理通異聞』を読んだからだ。ふうん、料理の時代小説ね、と軽い気持ちで手に取ったら止まらなくなって一気に読了してしまったのである。
物語は天明2(1872)年に始まる。主人公の善四郎は浅草新鳥越町に暖簾を出している、福田屋という料理屋の長男だ。福田屋の前身は八百屋で、今でも精進料理を得意としている。接待に使われるほどの有名店ではないが、界隈で仏事があったときには仕出し料理で欠かせないのである。しかし善四郎の姿は生家にはない。親父に言われ、橋場の水野平八の下に奉公に出ているからである。水野の家業は御金御用商、つまり大名相手の金貸しだ。善四郎はこの家で初恋を体験する。旗本・内藤家の令嬢、千満があるときそっと流した涙に胸を射抜かれたのだ。それは彼が心から人のために料理を作りたいと思った初めでもあった。千満の病身の父に食べさせたいと、善四郎は汁椀をこしらえる。
善四郎の前半生は天変地異や大飢饉、それに伴う政変などがあり、浮沈の大きかった時代だ。それを乗り越えて江戸を代表する料理屋の主となるまでの苦楽の日々が小説では描かれる。善四郎には幸運にも人の縁があった。大田南畝や酒井抱一といった錚々たる人々が、後に善四郎の著書「料理通」に寄稿している。料理は無形の文化だが、彼ら文人たちには作品として残るものがあったということが、芸術家としての善四郎を刺激したのである。これは小説ならではの大胆な解釈だろうが、若き日の数々の縁が後に大きな実を結ぶまで、ものをつくるということ、人を楽しませるということについての耳を傾けたくなるような文言が連ねられていく。豊かな文章は時に艶めく。善四郎の恋を描くくだりの流麗な文体は浄瑠璃文学に造形の深い作者ならではのもので、体のあちこちが上気する思いがした。
すべて食べてもまだ足らぬ。もっと、もっと、と体が言っている。
(800字書評)