小説の問題「口で言うほど易しくない」今野敏と笹生陽子

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今回の「小説の問題」は「問題小説」2005年8月号からの再録である。

前回までお目にかけていた原稿は3作紹介パターンの時代だったが、連載中期のこのころは新作1+文庫化作品1の計2冊を紹介する形だった。10年以上前なので、今から見ると下手すぎて正視できないような回もある。その中から、これならなんとか、というものを選んできた。今野敏はまだ『隠蔽捜査』を書く前なので、文中にはそのことを謳っていない。今なら絶対に書くだろう。その武道小説と笹生陽子の青春小説という組み合わせは、思いついたときに、これだ、と得意になった記憶がある。笹生陽子を最初に読んだのは北上次郎さんの書評がきっかけで、『ぼくは悪党になりたい』を手にとったのだった。二次元の嫁に本気で惚れてしまって三次元の彼女を振ってしまう男が出てきてびっくりした。そのころはまだ東方Projectをやっていなかったので、自分が二次元にずっぽりはまるとは思っていなかったのである。

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口で言うほど易しくない

%e7%be%a9%e7%8f%8d%e3%81%ae%e6%8b%b3 今年の夏も猛暑のようだ。暑い夏には手足を動かすのもだるくなるものだから、逆に身体を自在にコントロールする小説を紹介しましょう。今野敏『義珍の拳』は、琉球古伝の唐手(トゥーディー)を東京で広め、空手道確立の礎を作った富名腰義珍の一代記である。

義珍は、一八七〇(明治三)年、旧琉球王国の下級武士の家に生まれた。幼名は亀寿。体が弱かった義珍は、同年代の子供ともほとんど付き合わず、引きこもって過ごしていた。だがある日、安里長吉という少年と出会ったことで、義珍の運命は変わる。長吉の父は、安里安恒という唐手の達人だったのだ。

安恒は義珍に、まずナイファンチという基本の型を教える。ナイファンチは地味な動きのものであったが、それまで格闘技どころか、まともに体を動かした経験すらない義珍は、たちまち汗みずくになってしまう。義珍に申しつけられた修業は、来る日も来る日もナイファンチを繰り返すことだった。安恒曰く、「一つの型に習熟しなければ、いくつ型を学んだところで身には付かない」からなのだという。こうして、ナイファンチ尽くしの二年間が過ぎていった。

格闘技を扱った小説というと超人の域に達した格闘家がファンタジーのような活躍をする小説と、あくまで現実感のある体の動きとして技を描き、その原理を追究しようとする小説の二通りがある。言うまでもなく、この小説は後者だ。二年の間ナイファンチのみを学んだ義珍は、続いてムチミとチンクチを覚えることになる。「ムチミは鋭い速さを生み、チンクチは小さな動きでも強い力を生む」という。こうして、基本の型の上に少しずつ技能が積み重ねられていくのだ。

義珍が唐手の基本を習い覚えていく過程は、読者がそれを学んでいく過程でもある。それと同時に、作者は唐手の歴史に関する知識を少しずつ開陳していく。唐手にはいくつもの手(ティー)があること。それを学ぶのが琉球の武士(ブサー)のたしなみであったこと。安里安恒の師にあたる松村宗棍が幕末に薩摩藩に留学し、示現流を学んで鍛錬の方法を改善したこと、などなど。

後に富名腰義珍は東京に出て、松濤館道場を開く。カラテに「空手」の文字を与えることを発案したのも義珍だ。義珍は、明治国家の中で唐手=空手を振興し、その地位を向上させようとした道祖なのである。太平洋戦争後、義珍は日本空手協会の首席師範に就任するが、そこまでの道のりは平坦なものではなかった。琉球古来の唐手と、ヤマト化した空手の間で板挟みにされて悩むことも少なくなかったのである。後半では、空手道普及の途上で義珍が味わった苦悩が描かれている。前半部で開陳された薀蓄の数々は、そこに至る伏線にもなっているわけです。

前半は人間の体のメカニズムを追究する小説として、後半は理想を抱いた男の目から見た昭和を描く歴史小説として、空手に興味のない人でも楽しく読めるはずだ。もちろん空手に少しでも関心がある人なら、おもしろさは倍増間違いなし。作者の今野敏は、『ST 警視庁科学特捜班』(講談社文庫)シリーズのようなミステリーをはじめとし、大衆小説全般にわたって手広く執筆を行っている作家だが、これまで『惣角流浪』『山嵐』(ともに集英社文庫)といった、近代格闘技の黎明期に活躍した格闘家を主人公にした歴史ロマンを発表している。前者は大東流合気柔術の祖・武田惣角、後者は富田常雄『姿三四郎』のモデルになった講道館柔道の西郷四郎をそれぞれ主人公にした作品だ。実は今野自身、唐手の型の一つである首里手を研究し、その原型に学ぶことを旨とした空手道今野塾を主宰しているのである。その意味では、本書は今野の骨がらみのテーマについて綴った小説といえるだろう。当然ながら、筆致にも気迫がこもっているのです。

さて。世の中には、口で言うほどに易しくないことがいくらでもある。たとえば『義珍の拳』に登場する唐手の達人、安里安恒のように、身体の動きを完全に把握することは常人には極めて難しい。また芸術作品について、その感動の源がどこにあるか正確に指摘することも常人には困難だろう。達人や芸術家は特殊なことをしているわけではない。法則にしたがい、定められた所作を繰り返しているだけだ。なのに、その所作の結果である作品が、われわれにとって別世界のもののように見えるのはどうしたことか。

%e6%a5%bd%e5%9c%92%e3%81%ae%e3%81%a4%e3%81%8f%e3%82%8a%e6%96%b9常人離れした行為に限らない。何気ない日常の行いにも、口で言うほどには易しくないことはあるのだ。そのことについて書き続けているのが笹生陽子である。

笹生の出世作、二〇〇四年の『ぼくは悪党になりたい』(角川書店)は、母子家庭で、しかも母親が多忙で家に寄りつかないため、やんちゃな弟を抱えて父親役だけではなく母親役までこなさないといけない高校生、エイジのお話である。その後の『バラ色の怪物』(講談社)の主人公、トモユキは中学生で、やはり母子家庭。彼は不注意で眼鏡を壊してしまうのだが、苦しい家計のことを考えると新しい眼鏡を買ってほしいとは言い出せない。そこで、ちょっと中学生らしからぬ工夫を強いられるのだ。続いて出版された『サンネンイチゴ』(理論社)の主人公も中学生で、文芸部員のナオミ。彼女は、なぜか学校一のトラブルメーカーであるアサミに気に入られ、不思議な事件が起きている街中を一緒に出歩くことになる。

二〇〇四年に発表されたこの三作には、共通して感情表現が苦手な主人公が登場する。優しすぎるから、気が回りすぎるから、おとなしい性格だから、ついつい「いい子」の役回りに甘んじる。それでちょっと損をしてしまうのだ。『バラ色の怪物』などは、その「いい子」の感情の爆発が中心テーマになった作品である。

笹生の出発点は児童文学で、デビュー作『ぼくらのサイテーの夏』(講談社文庫)は第三十回日本児童部文学者協会新人賞及び第二十六回児童文芸新人賞を受賞した。この作品と、続く『きのう火星に行った。』(同)、『さよならワルガキング』(汐文社)の二作の主人公は、逆に「悪い子」である。「いい子」であることを求められて反発し、あえてクールにふるまおうとする少年たちを、笹生はこの三作で描いたのだ。

「いい子」であったり「悪い子」であったり。笹生の描く主人公たちは、いつも自分がどう見られるかを気にしている。それは、子供が素直に子供としてのふるまうことが難しい、現代ならではの小説なのだ。大人が思うほど子供の渡世は楽ではないのだろう。家庭問題が心に陰を落とすことがあるし(『バラ色の怪物』)、社会の醜い面に心ならずも触れてしまうことだってある(『サンネンイチゴ』)。心に鎧をまとう必要だってあるのだ。無意識のうちにまとってしまった鎧は、意識して脱ぐことが難しい。笹生はそれをするりと脱ぐ方法を、苦労して教えているのである。その苦労こそが、笹生の小説の要でしょう。

文庫の最新刊『楽園のつくりかた』は、「悪い子」三作と「いい子」三作の中間に書かれた作品(二〇〇二年)。都心で受験戦争のエリートとして頑張っている中学生の優は、突如ド田舎の中学校に転校することになる。優の父親は海外勤務で帰ってこない。その父方の祖父が山奥の村で一人暮らしをしているため、優の母親が同居生活を送ることを決めたのだ。

優を待ち受けていたのは絶望的なカルチャーギャップ。都会と田舎の学力差、どころの騒ぎではない。なにしろ同級生が三人しかいないというような、本当の過疎の村なのである。優は、必死で元の生活を取り戻そうとあがくのだが……。

本書は、笹生の美点が存分に発揮された魅力的な一冊である。破壊された日常を回復することが主人公の目的で、その動機に沿ってストーリーは流れていくのだが、結末に至り読者の予想を上回る周到さでプロットが作りこまれていることがわかる。それぞれの登場人物が抱える「渡世のしがらみ」もさりげなく書き込まれていて、人物造形のさりげなさに嘆息することは必至である。

巧みな小説だ。読後、上空から一条の光明が射すのを見出したような気分になるはずである。その光を描くのが、なかなか容易なことではないのである。

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