「あたしゃねえ、はなしを卸す問屋だよ。三銭でおろしてあげるから、お前さんたちは、そいつを五銭で売るように勉強するんだよ。モトは取れるから……」(古今亭志ん生『びんぼう自慢』)
初代柳家小せんは1883(明治16)年生まれ。父もやはり落語家で、四代目七昇亭花山文から二代目三遊亭萬橘を襲名した。小せんは二ツ目時代に第一次落語研究会に登用されるなど早くから才能を嘱望されたが、二十代後半で梅毒を発病し、失明してしまう。そのため高座も限られ、晩年は師匠・三代目柳家小さんの勧めにより、稽古料を取って若手を教えていた。五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生などの昭和の大看板たちもその門下生である。
岡本和明『小せんとおとき』は、その小せんと恋女房・おときの生涯を描いた評伝小説だ。元は吉原で千とせ花魁としてお職を張っていたおときを小せんが見染め、咄家としては大金の三円という金を貯めて見世に通っていくところから物語は始まっている。その千とせに廓噺を語って聞かせたことが、小せんの落語開眼に結びつくのである。なにしろ本職を前に吉原の噺を喋るのだから、これ以上の先生はいない。
小せんの人生を軸に話は進んでいくが、途中で出てくるさまざまな話題も見逃せない。同じく梅毒で夭折した弥太っぺの蝶花楼馬楽(三代目)、後に四代目の古今亭志ん生を継ぐ六代目金原亭馬生らは、小せんと共に大正年間における落語界の期待の星だった人々だが、その交流も描かれる。また、発足した落語研究会において東京落語のネタだけだと滑稽噺が足りなかったため、上方噺を移籍したことについての言及もある。今も演じられる「時そば」「らくだ」など多くの滑稽噺は明治末から大正にかけて上方から持ち込まれたのである。
そして何よりも、病のために危うくなった小せんの人生を、おときたち周囲の人間が盛り立てて生かそうとする人情の物語である。読む者の心を温かくさせてくれる佳品だ。
(800字書評)