京極夏彦は近世と近現代がいかに連続していて、いかに断絶しているかを明らかにしようとしている作家だ。近世文学の再現や柳田國男『遠野物語』の整理と再構成などの仕事に作家としての意図は明らかであるが、水木しげる研究こそはその根幹をなすものである。水木という欠片を嵌め込むことで、いかに近世と現代とが接続しうるかを京極は示した。
10月22日から3週間連続で序・破・急3部作が刊行される『虚実妖怪百物語』はその水木研究の最も端的な小説化といえる作品だ。プロットは、映画『妖怪大戦争』製作時に京極が準備したものだという。2005年の映画公開時にコミカライズ作品を水木が、小説版を荒俣宏が発表しているが、本作は2011年から妖怪雑誌「怪」に連載された。登場人物のほとんどが「怪」、もしくは京極の身辺にいる実在の人間になっているのが大きな特色だ。本人を知っているので、そうそうこのころ集英社の岩田氏は転んで骨折ばかりしていたっけ、とか現・KADOKAWA勤務の似田貝氏はこういう喋り方だわ、とかいちいち納得する(彼らは私人だが小説の登場人物なので実名で書いてしまう)。読者のほとんどは登場人物たちに面識がないと思うが、デフォルメなくほぼ書かれた通りだと思って読むが吉である。彼らのうち編集者は結構えらい目に遭わされたりしている。文章でなんでもできることをいいことになんでもしてしまう作家を担当すると大変である。赤塚不二夫におけるタケイ記者のようなものか。
第一巻である『序』では日本中で妖怪が顕現するという現象の発生が描かれる。物語としてはここからが展開部だ。大先生も登場し「妖怪ちゅうのはあんた、目に見えないもんデスからね。こんな、映像に映るなんてことはあってはならナイんですよ! おッかしいですよ」と水木妖怪学的非常宣言も飛び出した。さらなる事件が起きて気になるところで、今回は読み終わりである。さあ、どうなることか。
(800字書評)