1990年代、プロレス業界が何度目からの最盛期を迎えていたころ、「週刊プロレス」は公称40万という驚異の発行部数を記録した。「USAプロレスリング・コラム」は同誌の人気連載で、私は購入すると真っ先に読んだ。斎藤文彦『テイキング・バンプ』はその連載の初期原稿をまとめたコラム集である。今では珍しくなくなったが、1994年の刊行当時はプロレスラーの素顔を伝える本というのはまだ珍しかった。いわゆるhuman interest storyの形式である。ホーク・ウォリアー(故人)がモンデール駐日大使(当時)のお嬢さんとデートした、という話だとか、ジョニー・エースが勤め人を辞めたその晩にネクタイをハサミでちょん切った話だとか、自らを怪物視させようとするレスラーの虚像とは正反対の、親しみやすい話が満載されていた。個人的にはボブ・グリーン『チーズバーガーズ』を意識したスタイルだと睨んでいる。。
本の題名は「どうして“バンプをとった者にしかわからん”なのか?」という回から採られたものだと思う。連載の中で私がいちばん好きだった回だ。素のままのレスラーに肉薄しているく斎藤だが、ことプロレスそのものの話題に入ると、さっと一線を引かれてしまう。このゲームを知り尽くした、マサ斎藤やニック・ボックウィンクルから「プロレスはバンプ(受け身)をとった者にしかわからないよ」と突き放されて、斎藤は呟くのだ。「やっぱりだめですか? バンプをとらないとプロレスはわかりませんか?」と。
愛する対象の中と外にどうしても超えられない世界観の違いのようなものがある。プロレスに限らず、ファンという立場をとるしかないすべてのジャンルに共通する寂しさを書いたものだと思って私はこの回を読んだ。実はその裏に「プロレスについて書く」ということの問題が絡んでいると知ったのはずっと後になってからだ。バンプをとらない者までがプロレス・スラングを口にする前の、あの時代の空気をコラムは如実に伝える。
(800字書評)