あれ、話のマクラでスモール・フェイセスに触れている。今回の「小説の問題は」「問題小説」2006年3月号からの再録なのだが、なんでそんな話を振ったのかまったく覚えていない。このころは何度目かの個人的なロックブームだったのかもしれない。旧い原稿を漁ると、こういうことがよくわる。10年前の自分が考えていたことなんて、よくわからないものだ。
このときの原稿は朝倉かすみのデビュー作と当時復権が進んでいたヒラリー・ウォーの両方を同時に応援したくて、無理矢理ひっつけたのだと思う。「問題小説」は偉い雑誌で、ときどき私がこうやって海外小説を取り上げても文句を言われなかった。本当にやりたいようにやらせてくれていたのだ。
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考えすぎてしまう人たち
大昔のブリティッシュ・ロックで、スモール・フェイセスの「オール・オア・ナッシング」という曲があるのだけど、男が女に「俺に全部をくれるか、まったくくれないか、どっちかに決めないとダメ!」と迫る歌詞だった。
思うに、そういう態度って恋愛においてはもっともよくないものである。実際のところは三対七でこちら不利なんだけど、素知らぬ顔で五対五みたいなふりをしておいて、相手の隙を見つけたら六対四とかにじわじわと逆転していく、というのが正しい駆け引きではないか。あの歌で「オール・オア・ナッシング、どっちよ?」と迫る男は、きっと彼女とうまくいかなかっただろうな、と私は思っている(ヴォーカルのスティーヴ・マリオットはそこのところを承知していて、淡々と訴える男の心情を実に滑稽に歌い上げているのである)。
たぶん、あれだね。「オール・オア・ナッシング」の人は、考えすぎてしまうのだ。頭の中がそのことで一杯。余裕がないからマレー戦線の山下奉文みたいに無理な迫り方をしてしまうわけである。そんなことを考えながら朝倉かすみのデビュー短篇集『肝、焼ける』を読んでいたら、「考えすぎてしまう女」がたくさん出てきてなかなかに興味深かった。
朝倉の実質的なデビュー作(第三十七回北海道新聞文学賞受賞)「コマドリさんのこと」がこの短篇集には収録されている。コマドリさん、というのは駒鳥という姓の女性だ。彼女は、高校生のころから性の問題を強く意識するようになった。そのため「男女がロマンティックな出会いを果たすこと」を神聖視してしまうのである。考えすぎ。ほとんど妄想の域に達しているコマドリさんの恋愛幻想を、朝倉はかなりいじわるな笑いを交えて描いていく。
ご存じの通り、同性に対しては誰でも手厳しくなるものなので、彼女の妹はコマドリさんを「おねえちゃん、ブライダル雑誌とマタニティー雑誌を毎月買っているでしょ。予定もないのに。(中略)ベッドの下にエロ本を隠すみたいにこっそり」と罵る。あ、痛たたたた。かさぶたを剥がすみたいな言いっ放しのことばが痛痒く、笑いを誘う。
表題作は、二〇〇四年に第七十二回小説現代新人賞を受賞した、朝倉のメジャーデビュー作である。主人公の堀内真穂子は三十一歳、東京で会社勤めをしている。ある土曜日、彼女は発作的に稚内の町までやって来てしまうのだ。二十四歳下の恋人「御堂くん」が転勤で稚内に引っ越したからである。
真穂子と御堂はきちんと男女の仲になっていたのだが、転勤に当たり、彼は真穂子に対してなんの行動も起こさなかった。それこそなんの示唆もなかったのである。しかも忙しいのか、滅多に電話もかけて寄越さない。最初の連絡が転居ハガキという他人行儀ぶり。それじゃあ、真穂子でなくても稚内ぐらいやって来てしまうだろう。
稚内の銭湯で出会った老婆は、真穂子から御堂の話を聞いて「ジリみてた男だな」と評する。ジリというのは「霧雨よりも細い雨」のことで、鬱陶しいのだそうだ。「やみそうでやまなくて、ぱぴっとしないんだ、これが」。なるほど。そういう「ジリみてた男」に出会ってしまった真穂子は「キモ、焼ける」ことになるのである(これが題名の由来)。こちらはなんとなく、判る。ああ、肝焼けるわ。
この稚内弁(?)が小説になんともいい味を醸しだしている。それでいて、真穂子の語り自体は、東京「風」のはきはきとしたことばなのである。「むかしの髪結いさんによくあるおかま」「これが今年の新人ときたら箸にも棒にもかからない手合いでね、てんてこまいなのよ」、などなどと。こうした歯切れのよいことば遣いは、他の収録作でもごく自然に披露されている。作者自身は北海道の出身だというので、この言語感覚が何に由来するものなのかはよく判らない。もしかすると、落語が好きで耳から入ってきたことばが血肉になっている人なのかもしれない、という気もした。「肝、焼ける」では真穂子が五代目古今亭志ん生の「替わり目」のひとくだりを呟く場面があった。
全五篇が収録された短篇集である。一部ご紹介したとおり、随所のことばを拾って読むだけでも充分に楽しめる。主人公はみな女性で、コマドリさんや真穂子のように、みな考えすぎている。「へそまがり」とか、「つむじまがり」とか、昔なら呼ばれたのではないかな。「一番下の妹」は、年上の女性二人と自分の三人だけで構成された管理部に務める女性のお話で、年上の二人のややこしい男女関係にうんざりしながら、自分は二年前に別れて以来男っ気がなく、中学生のころに初めてつき合った「佐藤哲郎」の名前をインターネットで検索してみたりしている、というのが可笑しい。年上二人と気まずいことになった際、向こうの方から事態を収めてくれようとしたのに「まるく収める「まる」のかたちがなんだかあんまりまんまるで、それがどうにも気に入らない」というのがへそまがりである。
「春季カタル」の主人公は、一年後に年上の男性と結婚することが決まっているのだが、これもある日突如としてへそまがりな行動に出る。要するに鬱屈した気持ちがあって、それを発散するすべがない人たちが主人公の短篇集なのである。最後の「一入」を読むと、その鬱屈の正体や打開策も見えてくるような気がするのだが、ここでそれを書くのは遠慮しておこうと思う。予断なく読んで、「肝、焼ける」感覚を味わってみていただきたい。どちらかというと女性向けの短篇集なのかもしれないが、もちろん男性が読むのに支障はない。私も楽しく読んだ。
『肝、焼ける』が「考えすぎる女」の短編集だとすれば、アメリカのミステリー作家ヒラリー・ウォーが一九五九年に発表した警察小説の古典『ながい眠り』は、「考えすぎにさせられる女」をテーマにした長篇ミステリーである。早川書房から翻訳が出たきりで長らく絶版になっていたが、この度創元推理文庫から新しい訳で文庫収録されることになった。
ウォーは、警察小説の草分けとでもいうべき作家で、一九四〇年代にデビューを果たしている。昨年、〈87分署シリーズ〉で知られるエド・マクベインことエヴァン・ハンターが亡くなったが、彼と並ぶ大家といえる(ウォーはまだ存命で、一九八九年にはアメリカ探偵作家クラブから巨匠賞を贈られた)。翻訳ミステリーは苦手、という人もこの機会に読んでみてもらいたい。
この小説の「考えすぎにさせられる女」とは、殺人事件の被害者のことである。コネティカット州(『あしながおじさん』の舞台になった、平和な土地だ)の小都市ストックフォードである日不動産会社に対する盗難事件が起きる。だが不思議なことに、盗まれたのは賃貸契約書が閉じこまれたファイルだけだった。警察当局は首をひねるが、そのうちにもっととんでもない事件が起きた。その不動産会社が管理する貸家の一つで、胴体だけの女性の死体が発見されたのである。家はジョン・キャンベルという名前で借りられていたが、被害者の身元確認につながる遺留品はあまりに少なく、トランクと衣類、そしてメモ帳に筆圧強く書かれた筆跡のみ。ストックフォード署長のフレッド・C・フェローズ以下、刑事たちは、必死の努力で女性の素性を割り出そうとする。しかし、たどる糸たどる糸、すべてが途切れてしまうのである。
捜査を進めようにも被害者の素性が判らないため、事件の全容は終始曖昧模糊としたままである。言い換えると、強烈な求心力を持った謎が中心にあるということだ。それが一気に解かれる終盤には凄みがある。最後の一ページに至ってはじめて物語の決着点が見えてくる仕掛けなのである。読み終えてから冒頭に戻ると、手がかりが最初からきちんと与えられていたことが判る。そこでもう一度びっくりするんじゃないかな。
ウォーの作品は創元推理文庫に七作収められているが、傑作揃いである。本書をおもしろく読めた人なら、次は『事件当夜は雨』を手にとってみることをお薦めします。こちらも「考えすぎにさせられる」事件の話だが、犯人が「考えすぎた」人間で、非常に不気味である。
(初出:「問題小説」2006年3月号)