――それはウンコをするというよりも、腐敗した内臓を排泄しているのだった。
「大場電気鍍金工業所」の元工場長・金子さんは、メッキの毒に侵されて悲惨な最期を遂げる。つげ義春の作品には1960年代の「おばけ煙突」のように、社会的矛盾によって人間性を剥奪される状況がたびたび描かれてきたが、1973年発表のこの作品によってそうした主題が再び浮上することになった。貸本漫画時代の貧困を扱った諸作と異なるのは、主人公・義男が容易に作者自身を想起させるキャラクターとして描かれていることだろう。『つげ義春全集7』(現・『つげ義春コレクション 大場電気鍍金工業所/やもり』ちくま文庫)には、同作を含む1970~80年代に描かれた自伝的作品群が収録されている。もっとも古いものは1973年の「下宿の頃」で、掲載誌の性格を反映してかやや明るい内容だが、それ以外の作品においては厚く沈殿した堆積物が光の通過を阻む。
メッキ工場勤務時代(「少年」)、義父によって虐待を受け、密航などによって生家からの離脱を考えたころ(「海へ」)、貸本漫画家としてデビューしたものの経済的にはいっかな好転せず、業界の大人たちに振り回された時期(「義男の青春」)といったように、1960年代までの人生がほぼ時間軸を追うような形で配置されている。「義男の青春」には恋愛など明るい面もあるものの、実家を出て下宿し、家賃を滞納した果てに便所を改造した部屋で8年間の悶々の日々を送ることになるという結末に救いはない。この最後のページの、和式便器を取り外した後の床に敷物をかぶせて義男がしゃがんでいるコマは、悪夢に出てきそうな残酷さだ。
もちろん「池袋名店会」や「隣りの女」のように虚構を織り込んでペーソス溢れる人間劇としたものもあり、陰々滅々とした印象だけではない。だが、「隣りの女」のあっけらかんとした性の描き方と、「別離」の自分から離れていく女への執着との間にはかなりの距離がある。そこまで救いがない世界を描いて落着を見たのか、「別離」以降つげの漫画作品はない。
(800字書評)