――しかし自分のすべてを捨てて蒸発するってのはなんだろう。
――自分を「あってない」と観想するための具体的方法でしょう。(「蒸発」)
竹中直人が映画化した「無能の人」は、描かなくなったマンガ家・助川助三を主人公とする連作を元にしている。その第一作「石を売る」は「COMICばく5」1985年6月号に発表された。それに先行するのが1979年に描かれた「魚石」で、同作ですでに水石取引という題材が扱われている。助川助三は、自意識としては描けなくなったのではなく、描かないために生活のたつきを支える手段を探しているのである。それが水石屋や中古カメラ販売といった方策となるのであるが、彼の妻の眼にそれは「自分で自分をダメなほうへ追い込んでいく」ものとしか映らない。もちろん助川にとっても妻の正論は痛いほど解っていることなのだ。しかし、マンガ家の道に戻ることは自身の存在が許さない。そうした不自由な自我を持て余す人間として助川は描かれる。
『つげ義春全集8』(現・『つげ義春コレクション 近所の景色/無能の人』ちくま文庫)にはこの連作の他に前述の「魚石」や、助川助三の屈託を先取りするかのような先行作品「ある無名作家」(「COMICばく2」1984年9月号)などの作品が収録されている。「ある無名作家」の奥田は文学性に固執するあまりに描けなくなり、妻に逃げられて血のつながらない子供と二人暮らしになる。彼はほぼ後の助川助三なのだが、助川の救いは世捨て人に近いながらも妻と子三人の暮らしが成り立っている点にある。しかしそれも「なんだか世の中から孤立してこの広い宇宙に三人だけみたい」(「探石行」)という妻の不安を「いいじゃねえかおれたち三人だけで…」と正面から受け止めない、後ろ向きな態度によって危なく支えられているだけなのだ。連作は俳人・柳の家井月の生涯を描いた「蒸発」で唐突に終了する。本来この作品には続篇があったはずなのだが、「その先」を考えることを拒んだ助川の態度を反映するかのように、未完のままである。
(800字書評)