宮内悠介の連作短篇集『彼女がエスパーだったころ』には三つの特徴がある。
一つは異端とされているものにあえて光を当てる行為だ。たとえば表題作は、ドキュメンタリー作家・森達也がスプーン曲げで一世を風靡した清田益章を取材した『職業欄はエスパー』(角川書店)から想が採られている。〈超能力者〉として世間の好奇心を刺激しまくる存在となった及川千晴という女性が登場する。メディアに発見されることによって彼女の人生はスキャンダルに塗れることになったのだが、「その後」の人生を静かに送っている千晴を〈わたし〉が訪ねることから物語が始まる。ノンフィクションライターである〈わたし〉は、及川千晴の本質を覆い隠している装飾を剥ぎ取ろうとするのだが、取材を進めていくにつれて虚構と現実を隔てる境界の所在が却って曖昧になっていく。事象の中央には必ず真実がある、というような楽天家をうろたえさせるような展開なのだ。
及川千晴にまつわる事実を洗っていくうちに彼女の巻き込まれた事件の真相が明らかになるというように、歩き詰めた通路の突き当りに突如出現するものを描く小説集でもある。一話目の「百匹目の火神」が〈百匹目の猿〉現象を題材にしつつ、最終的にはある殺害犯の動機を明らかにして終わるように、いわゆる〈ホワイダニット〉の作品集と見ることもできる。ただし毎話の真相は、理詰めで推測すれば辿り着けるわけではなく、前述したように通廊を歩き終えた後に行き当たるようなものである。疑似科学の空疎さを暴くかに見えた〈わたし〉の行為がそれを貫徹できず終わるのと、この動機暴きの唐突さは呼応している。
第三の特徴は、観察者の頽落を描く小説であるということだ。〈わたし〉は次第に第三者の立場から滑り落ち、虚実の曖昧な被膜の中に吸い込まれていく。そうさせることで作者は、本作が特権的に事態を見守ることが誰にも許されていない世界のものであると示したのだ。
(800字書評)