「杉江松恋のチミの犠牲はムダにしない」
第5回「ショージ君の青春記」東海林さだお(文春文庫)
『ワルボロ』刊行以後、立川をはじめとする東京・三多摩地区に対する世間の注目度は高まる一方である(という気がする)。立川といえば少し前に『たのしい中央線』というムックが太田出版から出ていて、巻頭にゲッツ板谷・西原理恵子の立川対談が収められていた。あの本を読んで思ったのだけど、いくら同じ中央線沿線だからといって立川と吉祥寺を同じくくりに入れてまとめるのはちょっと無理なのではないか。同じ昆虫だからって、オオカバマダラとオオカマキリを一緒の籠に入れて飼っちゃうようなものだ。それだと食べられちゃうよ、オオカバマダラは!
さてと。今回は、『ワルボロ』を読了した人にぜひともお薦めしたい本がある。東海林さだおの『ショージ君の青春記』である。東海林さだおと聞いて「あ、あれでしょ、丸かじり。丸かじりのアグアグでアチアチのハヒーで、椎名誠と対談してビールウグウグしたりする人でしょう」と思ったあなた。あなたはまだ本当の東海林さだおを知らない。あるいは、「あ、知ってる知ってる。『サラリーマン専科』とか『タンマ君』とか『アサッテ君』とかの人だけど、そもそもは『ショージ君』の人でしょう」と思ったあなた。そうそう、それで少しは本質に近づいたことになる。でもあなた、実際に『ショージ君』を読んだことはありますか。
『ショージ君』には、作者自身の姓から取った名前の主人公が登場する。ショージ君は三流大学卒で三流企業に就職したぐうたらサラリーマンで、当然ながら貧乏だしモテないしスケベでキャバレーに行けば(当時の呼び名はアルサロ)欲望ギンギンで女の子に触りまくるし酔っ払えば騒ぐ邪険にすればすぐひがむ仲間の誰かがいい目を見れば必ずそねむ、つまり地位も財産も外見も性格もまったく見所のない人物なのである。このへん、ゲッツ本に登場する「バカ」とはまったく違う。ゲッツ本の「バカ」にはどこか許せる感じがするのだが、ショージ君にはまったくそれを感じないのだ。非常に陰湿でそばにはいてほしくない「バカ」なのである。
今手元に本が無くてうろ覚えなんだけど、いくつかエピソードを紹介しよう。
・ショージ君、会社の飲み会に参加する。上司は有望株の部下を誘って2次会に出かけるが、厚顔無恥なショージ君は呼ばれもしないのにのこのこ付いていき、寿司屋でトロとイクラとウニを頼みまくって顰蹙を買う。うんざりした上司はそこそこに2次会を切り上げ、ショージ君を先に帰して有望株との3次会に行こうとする。ところがそこにも図々しくショージ君は付いてくる。うんざりした上司、ついにショージ君を「シッシッ」と追い払う。それを恨んだショージ君、上司に投石。上司が応戦したため、深夜の街角で突然の投石合戦が始まる。もちろん悪いのはすべてショージ君。
・ショージ君、屋台のおでん屋に行く。イカ巻やウィンナ巻など、高価なタネはショージ君の経済力では無理。そこで一計を案じたショージ君、オヤジの注意をそらし、その間に頼んであった竹輪の穴にゲソを押し込み、即席イカ巻を作成。一呑みに食べてしまう。成功に味をしめ、再び二度目の奸計。今度は即席ウィンナ巻を作って口に押し込むが、あまりに熱くて口内大火傷。思わず吐き出してオヤジ激怒。もちろん悪いのはすべてショージ君。
・ショージ君、珍しく女の子をデートに誘うことに成功する。デート前、下宿で一張羅のズボンをはく前の準備として、インキンにタムシチンキを塗るショージ君。ついでにインスタントラーメンも製作。よせばいいのに、タムシチンキを乾かしがてら下半身丸出しでラーメンを食べようとするショージ君。そこにくだんの彼女が突然やって来て、ショージ君は動転。咄嗟にラーメン丼で下半身を隠そうとするが、当然のことながら大事な部分は大火傷。スープをぶちまけられてズボンは台無し。当然ラーメンも食べられない。丸出し下半身を見た彼女も大激怒。もちろん悪いのは、下半身をしまいもせずにラーメンなんか食べていたショージ君だ。
と、こんな感じに延々とショージ君の失態を描き続けたのが名作『ショージ君』である(もう一つの漫画代表作『新漫画文学全集』については、また別の機会に)。ここまで主人公を突き放し、共感を持てない書き方をするというのは、ちょっと異常なことなのではあるまいか。いや、当時『ショージ君』を読んで共感したよ俺は、君は当時の社会の貧しさレベルというものを知らんのだよ、と言い出す安保世代バリバリの人がいるかもしれないが、ちょっと待ってもらいたいのである。それ、共感じゃないでしょう。同情でしょう。ショージ君を見下して、バカにした上で、情けをかけていただけでしょう。
おそらく東海林さだおは、そうした読者の心根を熟知していたのだと思う。上にへつらい、下を見下す、そうした心が不変のものであると踏んで、あえて底辺を這いずるような主人公ショージ君を設定したのである。『ショージ君』を読んでいて思うことは、この漫画が徹底的な人間不信に貫かれているということだ。そして、ものすごく悲観的。たぶん東海林さんは、人生にこれっぽっちも幻想を抱いていない人である。
今はエッセイストとしての方が有名な東海林さんだが、もちろん出発点は文章よりも漫画の方が先だった。当時、文藝春秋社が刊行していた「漫画讀本」という雑誌が、漫画家に文章を書かせる企画をよくやっていたので、その一環でエッセイを書くようになったのである。東海林さんはそのエッセイの中で、ショージ君を名乗った。ここがよく考えるとすごいところで、最初から底辺のキャラクターに自分を設定しているのである。つまりまあ下半身丸出し大火傷でラーメン台無しのショージ君だ。すんごいキャラクター化。なぜそんなことをしたのか。大所高所から見下ろすような物言いは人の反発を受けやすいが、底辺からの発言は逆に受け入れられやすいからではないか、と私は思うのである。下からの目線でおずおずと言われると、読者はつい受容してしまうものなのだ。
だから東海林さんの発言は、ユーモアのオブラートにくるまれているものの、本質的に過激なことが多い。最近はそうでもなくなったが以前よく言及されていたのは、電車の中でべたべたしているアベック(カップルというよりこっちの方がしっくりくる)のことである。そういうアベックを見ると思わず水をぶっかけたくなる、と東海林さんは何度も何度も書いておられる。そのくだりを読むたび、私の脳裏には「社会正義」という文字が浮かぶが、同時に「怨念」という二文字もよぎっていくのである。「殺意」とか「報復」とかいう言葉も頭に浮かぶ。なぜか頭の中に故・古尾谷雅人が登場し、「今に見ておれでございますよ」と呟くのである。それは映画『丑三つの村』か(津山三十人殺しを題材にした、ものすごくどす黒い作品)。
前置きが長くなったが、『ショージ君の青春記』は、そのショージ君の唯一の長篇エッセイであり、東海林さだおが漫画家としてデビューするまでの半生を描いた作品である。ここまで書いてきたことから薄々察していただけるのではないかと思うが、内容に一切の美化はない。というより、何もそこまで、と思うほどに醜悪な現実が描かれているのである。リアル・ショージ君、降臨。
昭和12年生まれの東海林さんは、疎開を体験した戦中派の世代だ。彼が疎開中に漫画家志望の道に目覚め、でも高校は進学校だったものでろくすっぽ恋もできず、という十代前半のエピソードには特に問題はない。特に美しくもないが、醜くもない出来事が率直に綴られているだけである。ただ、早稲田大学文学部を受験する際に本来「美術史」志望だったのに「入学してから女のコとつき合うとき、美術史よりも露文のほうがモテるのではなかろうか」という思惑から突如志望変更してしまうあたりから、ややショージ君っぽいきな臭さが漂ってはいるのだが(そのために後で留年し、大学を中退してしまうことになる)。
雲行きが本格的に怪しくなるのは、結局大学を中退し、漫画研究部仲間との合作の話もうまくいかず、挫折感に打ちひしがれ、新規まき直しのために実家を出て大久保駅付近の下宿で一人暮らしを始めるあたりからである。ここからの主人公は、東海林さだおではなく、漫画のショージ君そのままだ。
なにしろ、ショージ君が選んだ下宿は、周囲を「湯治を目的としない客のための温泉旅館(今でいうラブホテル)」に囲まれ、わずかにある庭の前には当時で言うところのト○コ風呂があるという絶望的な環境である。手をつないで歩く恋人を見ただけで逆上する人が、こういう環境に住んでどうするのか。はたしてショージ君は、今まさに旅館の門をくぐろうとする二人を発見するや、ある嫌がらせを敢行するようになる。それは「アベックの横を素早く駆け抜けると、十メートル先へ行ってから振り返り、ごく低い声で「コノヤローッ」とうなる」「(旅館の)玄関の戸を激しくたたいて、一目散に逃げ戻ってくる」というものだったが、当のアベックたちは「鼻息荒く自分たちの横を駆け抜けた酔漢に悪い予感を抱き、とうの昔に旅館の中へ消えて」おり、かつ「玄関からいち早く部屋に向か」っていたために、まったく戦果は上がらなかったという。ああ、なんという徒労。
またショージ君は、下宿前のト○コ風呂に関心を抱いて「ハシゴを持ち出してト○コの窓際に立てかけ」内部をのぞくという暴挙に出て、のぞきの常習者となる(そんなことをバカ正直に告白する姿勢が素敵だ!)。だがある日、二階の窓から経営者の奥さんにバケツの水をぶっかけられ「髪の毛もドロドロ」「一張羅の大切なズボンもドロドロ」「激しい怒りがこみあげてきたが、だれに対しても怒りをぶちまけることはできない」という憤怒の地獄に追い込まれ「十数年たった今でも、そのことを思うとやり場のない怒りがこみあげてくる」というような底無しの怨念を抱えるようになるのである。大丈夫か、ショージ君。まるで漫画家の自伝というよりは、連続射殺魔の手記を読んでいる気分なのである。今に見ておれでございますよ、だ。
以下そんな怨嗟と貧困の描写が満載である。もちろん本書は漫画家東海林さだおが誕生するまでを描いた作品であるので、駆け出し漫画家の成功譚という性格もあるのだが、サクセス・ストーリーと呼ぶにはあまりにも暗く、やるせない。「のほほん」「ほのぼの」としたエッセイストのイメージとはかけ離れた作品なのだ。作家の深町秋生氏がブログの2005年9月21日の記述で東海林さだおを指して「まるでグランジの神、カート・コバーンの遺書みたいな感じで、死についてもかなり前向きに語っていたりもして、ゴスっ子たちにも教えてやりたいネガティブさを持った実にロック魂を備えた人」と評していたが、言いえて妙であると思う。東海林さだおの真の顔、リアル・ショージ君は、荒々しい暴力衝動に満ちた、現代の野蛮人なのだ。
最後に『ショージ君のコラムで一杯』で仕入れたいい話を一つ。東海林さんは若いころ文化人枠でテレビに出演していた。だがある日を境にそれを止めた。その日東海林さんは、生番組の本番中に突如として「○○○○!」(もちろん特A級のワイセツ語)と叫びたい衝動に駆られたそうなのである。良家の奥様がご覧になる番組で、突如「○○○○!」などという言葉が連呼されたら、いったいどうなっていたのだろうか。セックス、ドラッグ、ショージ君。
初出:「ゲッツ板谷マンション」2005年11月5日