お招きをいただいて、立川志ら鈴さん・志ら門さんの二ツ目トライアル興行にうかがった。二人は後輩のうおるたーさんと共に電撃座で「立川さんちの喫茶★ゼンザ」という勉強会を毎月開いてくれている。応援のつもりで駆けつけたところ、広小路亭はすでにほぼ満席状態だった。
ご存知の方が多いと思うが、落語立川流の二ツ目昇進には噺を五十席、講釈の修羅場(ひらば)として「三方ヶ原軍記」を読めること、歌舞音曲といった課題をこなす義務が課せられている。毎月の勉強会ではそれを意識して、歌舞音曲や講釈の練習成果発表も行ってきた。努力は知っている。あとはその努力をどれだけ師匠に評価してもらえるか、である。
この日の番組は以下の通り。ここからは敬称略で書く。
長短 志ら鈴
蝦蟇の油 志ら門
三方ヶ原軍記 リレー交互で志ら鈴・志ら門
仲入り
歌舞音曲
あわて者 志ら門
替り目 志ら鈴
講評 志らく
勉強会で見ていて、志ら鈴が三方ヶ原軍記で手こずっているのは知っていた。何しろ固有名詞がずらずらと出てくる。固有名詞によって陣備えを想像させなければいけない本だからだ。記憶力を試される。それがつるつると出てくる。バトンを渡して志ら門が後を引き継ぐ。志ら門のほうがどちらかといえば芸人向きの人材で、他ジャンルからの移籍組の志ら鈴よりはこういうときに安心して聞いていられる。五色の備えを過ぎて軽快である。志ら鈴は、と見ると横で志ら門を聞きながら自分でも口を動かしている。リズムを取っている。危なげなくまたバトンを受け取り、さらにまた志ら門に返す。無事に本多平八郎忠勝まで行きついて読み終わりとなった。
仲入りである。いちばん心配だった講釈をしくじらなかったことで、もしかするといけるかもしれない、という希望が芽生えた。自分のフェイスブックにもそう書いておいた。
休憩が終わり、歌舞音曲のコーナーである。志ら門は「今まで誰もやらなかったことをやりたい」と言って三味線を習っていた。自分で弾いた三味線の音をその場で録音し、再生して「梅は咲いたか」を踊った。最初に録音したとき客席から拍手が起きたが、その音が踊りのときの拍手に重なる。趣向にお客さんが乗って楽しんでいる感じがしていた。
志ら鈴が代わり、歌い、踊る。続いて二人が高座に並んだ。背後のスクリーンに録画してあったものを映し、揃って踊る。「奴さん」である。スクリーンに流れるのは、志ら門が弾き、志ら鈴が唄っている映像である。これは前回の電撃座月例会が終わった後で録ったものだった。そういう趣向だったのか、と納得がいく。スクリーンと高座と、二人の志ら鈴に二人の志ら門、奴さんの振り付けは別々である。踊りの流派が違うからだ。しかし見ていておかしな感じはしない。両人とも踊りを楽しんでいるように見えるからだ。
すっかり客席は温まっている。志ら門は「あわて者」に入る前、今日のネタはすべて師匠から指定を受けたものだと明かした。なぜ「あわて者」なのかというと自分が慌て者だからなのかもしれない、とマクラを振って噺へ。
志ら門が「あわて者」なら志ら鈴は「替り目」が課題だ。なぜこの二つが振られたのか。噺を聴きながらぼんやり考えていた。
喫茶★ゼンザで聴いていると、志ら門はときどきどかんと受けるが滑ることもある。気分屋なのかもしれないと思っていた。低調なときは声も出ておらず、細部が甘くなる。受けると気分が高揚するのか、ツボにはまるようなギャグが飛び出てくる。アドリブも受けるときは受け、滑るときは滑る。「あわて者」は全篇がギャグで成り立っていて、一つひとつのくすぐりを積み重ねていかなければいけない。それでリズムがきちんと作れているのかを見るのかもしれないと思った。
「替り目」は夫婦の噺である。五代目古今亭志ん生の十八番だが、ここに出てくる夫婦はそのまま志ん生・りん夫人だ。最後に亭主が女房への思いをうっかり喋ってしまう箇所など、男女の情愛が表現できないと噺が成立しない。女性落語家として真打を目指す志ら鈴にはそこを課題としたのかもしれないと考えた。落語は男性の演者が男性の客のために作ったもので、女性の参加を最初から想定していない。そこで女性落語家としてどういう表現をできるのか、という問いなのではないか。
楽屋口の格子窓から志らくが立って二人の噺を聴いているのは見えていた。正確に言うと志らくの羽織が見えていた。その志らくが高座に上がり、左右に控える弟子を見ずにそのまま講評に入った。
最初に褒めるべきところを褒めた。広小路亭を満員にしたこと、趣向を凝らしてお客を満足させようとしたことは文句なしに褒められる点である。そして悪いところの指摘に入った。歌舞音曲のうち唄について駄目が出た。節回しがおかしいという。資質としては音痴だ。弟子に「津軽海峡冬景色」や「おふくろさん」など、誰でもわかる演歌を唄うように促し、「こういうことです」と客席を見た。しかし音痴であること自体を咎めるわけではない。資質だからである。志らくは三波春夫の浪曲歌謡「俵星玄蕃」を例に上げ、そこから学ぶように二人に告げた。課題のその一である。
続いて講釈について「早口言葉じゃないんだから」と言う。つまり講釈のリズムになっていない。都々逸も同様で芸能には芸能自体のリズムというものがある。都々逸も二人に唄わせ、再び客席に確認を取った。
最後に本業の落語について。「あわて者」について仕草が間違っていると言い、カミシモが違うと言い、会話について落語のかみさんはそういう口調ではないと言った。同様に「替り目」についてもかみさんの口調は違うと指摘する。「あわて者」「替り目」をそれぞれ出だしのところから演じて見せる。明らかに志らくのそれと弟子が演じた噺は違う。リズムが違うのである。
志らくは二人に、五十席の噺のうち何席を誰に教わったかを聞いた。教わるというのはつまり、昔で言うところの三遍稽古である。教わった人の前で話を演じてそれでいいという許可を貰う。つまり、あげてもらうところまでがセットになっている。そういう覚え方をしていないだろうと突っ込んだ。あげてもらっているならばそんな噺にはならない。あげてもらってそれなら、教わった師匠のところに文句を言いに行く。
要約すれば、努力をしていることは認めるが、その努力の仕方が間違っているということだ。落語家が本来すべき努力の仕方をしていない。もう一つ、芸能についての関心の持ち方も指摘があった。「三方ヶ原軍記」を覚えました。では「寛永三馬術」を聴きましたか。都々逸を覚えました。では(柳家)三亀松を聴きましたか。(柳家)小半治は。芸能の基本となるべきものを摂取しようという態度、基礎教養についての畏怖が欠けているということだろう。
志らくは「俺だって、『明日から二ツ目だよ、おめでとう』と言った方がどれだけ楽だか」とぼやきながら、二ツ目になるということは落語家として商品となるということだから、君たちにそのライセンスを与えたらどうなるか、二十人、三十人というお客の前で自己満足していられる今はいいが、将来的にそれでやっていけるのか、という意味のことを言った。だから師匠としては、今二ツ目にして大海に放り出すことはできない。
年季はすでに積んでおり、その点では申し分ない、と認めた。ただし、こなさなければならない課題がある。落語のリズムを備えなければいけない。それができるようになれば、年内にも再挑戦を認める。今度は師匠による審査など必要ない。ここにいらっしゃったお客さんの拍手で判断してよい。そう告げて講評はしめくくられた。
全般的にわかりやすく、非の打ちどころのない講評であった。私がぼんやりと思っていたよりもはるかに具体的な、演じる芸人の側からの批評が行われた。具体的に指針も与えられ、両者にとっては努力目標もできたのではないか。
はっきりとわかったのは、これまでと違う稽古の仕方を、特に本業である落語についてしなければいけないということだ。誰かのところで噺を習い、きちんとあげてもらう。そうして伝統を踏まえた上で演じるという努力を求められている。二人はこれに応える力を持っていると思う。この結果にめげず奮起ください。電撃座は応援しております。