私が子供のころ、ユースホステルのブームがあった。文字通り若人の宿として貧乏旅行の拠点となっていた、というだけでは繁盛した理由の一部しか伝えられないと思う。たしかに一泊千五百円程度、素泊まりにすればもっと安いところもあったと記憶する。ユースホステルの営業形態はいろいろあり、山小屋や寺の宿坊と兼業のようなところもあったと記憶している。そうではない一般的なユースホステルの宿泊設備は二段ベッドで、受付で毛布とシーツを受け取って自分で敷き、自分で畳む。この作法が独特で、三角にYHのスタンプが押された寝具をきちんと畳むためにはちゃんとやり方を教えてもらう必要があった。そのために夜の七時くらいになると、初めて泊まる人を対象に講習会が開かれるのが常であった。これに出ないとたいへんである。朝になると寝具をきちんと畳めたかのチェックがあり、万が一おかしなやり方をしていると、食事中でもかまわず呼び出されるのだ。いい年をしたおじさんが呼び出され、赤っ恥をかいているのをよく目撃した。
ユースホステルには単なる簡易宿泊施設というよりもう少し歌声喫茶的というか、連帯感を求めるようなものがあった。当時の慣例で、一泊目から三泊目まではお客さん、それから後は無料になるが、スタッフとしてユース(という言い方をみんなしていた)を手伝う、というのがあった。各地のユースに泊まると長髪にひげのそういうスタッフをよく見かけた。そういう人に話しかけるとたいへんで、いかに自分がこのユースに連泊しているかを蕩々と自慢されたものである。あのころはいかに長くユースを泊まり歩いているか、というのが旅人のステータスになっていた。思えばあれが、一九八〇年代に日本にもやってきた海外バックパッカーブームの下地を作っていたのだろう。
今は知らないが、あのころのユースはだいたい禁酒であった。禁煙ではなかったという記憶がある。酒を飲んだのがバレて上に書いたようなスタッフに叱られている人も何度か見た。「出て行ってもらいますよ」とか怒られるわけである。修学旅行か。また、消灯時間もあった。結構早い。病院ほどではないが十時くらいにはみんな強制的にベッドに行かされる。
酒も飲めない、十時には寝なくちゃいけない、では何が楽しいのかという気もするが、それを埋めるのがミーティングの時間であった。たしか、ミーティングという名称だったように思うが、記憶が確かではない。ロビーに集まり、車座になって何かをするのである。スタッフやペアレント(ユースの経営者)の弾くギターに合わせてフォークソングを歌うのが定番、有名なユースホステルの歌「旅の終わり」もこういう場で生まれたと言われている。
他には「アブラハムには七人の子」などのレクチャーがあることもあった。後に私はボランティアで幾度かキャンプに行くことになるのだが、このころ覚えたレクが微妙に役立った。微妙というのは、どのレクも教本に教えてもらったものと少しずつやり方がずれていたからで、おそらくは各ユースでガラパゴス的な進化を遂げていたのだろうと思われる。
いずれにせよ「旅の仲間」同士が打ち解け、疑似家族のような雰囲気になる場を作るのがミーティングの目的だったのだろう。経営者をペアレントと呼ぶのもそういう理由だ。ユースの挨拶は「いらっしゃい」ではなくて「おかえりなさい」、「ありがとうございました」ではなくて「いってらっしゃい」なのである。メイド喫茶よりも四十年早いですわ、ご主人様。
私はまだ子供だったのでそういうのが楽しかった。今でもよく覚えているのは高千穂ユースホステルに泊まったときのことである。廃線になってしまったが当時の国鉄高千穂線には日本で最も高い鉄道橋梁であった高千穂橋梁があった。ユースホステルはそのすぐ近くにあったのである。ミーティングのあと、宿泊者全員で外に出て蒼穹を見上げようということになった。天孫降臨の地で、かつて神々も見上げたであろう星空を眺めているのは、他の何事にも代えられない楽しみであった。ユースホステルというと、真っ先に思い出すのはあの空のことだ。