杉江の読書 第157回芥川賞について 20170719

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今回の芥川賞・直木賞には、軸がはっきりと見える候補作が揃った。

芥川賞のそれは、社会の多様性を小説はいかに描きうるかということに尽きる。今さら言葉を重ねるまでもないが、現代を支配するのは不寛容を基調とする空気だ。たとえば倫理観においては、これほどまでに清潔さが重視され、自分勝手であることが忌まわしいものと批判される時代はかつてなかったように思う。同じ鋳型にすべての人をはめ込んで、少しでも規格から外れたものをはじこうとしているようにさえ見える。それは必ずしも自覚された排他主義なのではなく、同じであることを幸せと感じるゆえの行いなのである。本来は存在しなかった場所に中心地を見つけ、自発的に集約していこうとする。そして集まろうとしない異分子を不謹慎として咎めだてる。そうした形で自ら貧困へ向かおう社会の動きに対し、どこまで文学は抗いうるのだろうか。今回の候補となった四作はその試金石となると思う。

古川真人「四時過ぎの船」は、認知症になって生まれ故郷である島を離れざるをえなくなった祖母と、彼女の孫であり、盲目の兄を介護する以外に労働をせず、世間には無職と見なされる青年の過去と現在の時間が重ね合わされるような形で進んでいく小説だ。祖母の住んでいた島を、兄弟とその母が遺品整理で訊ねることからそうした契機が生まれるのである。北九州の方言を駆使した会話と、島の情景を描いたスケッチが楽しいが、主眼は社会に居場所のない者と自己を認識する弟の鬱屈が描かれる点にある。

温又柔「真ん中の子どもたち」は、台湾生まれの母と日本生まれの父を持つ女性が、中国語(普通語)学習のために上海に留学することから始まる小説で、言語の問題を通じて、国籍という属性を強制される現在への疑義申し立てがなされる。主人公が巻き込まれる恋愛問題などは雑味としか思えず、小説の構成には不満を感じた。しかし中華民国と中華人民共和国という対立項から日本という国の自明性が揺らいでいくような問いが発せられる個所があり、諸処に知的興奮を覚えるような一文がある。

沼田真佑「影裏」ははっきりとテーマが明示されず、読者が小説の中に入って読み取ることが要求される作品だ。表面だけを流して読んでいると単なる情景スケッチをしているようにしか見えないのだが(しかし川釣りの場面は非常に楽しい)、さりげなく書かれた言葉を拾っていくと、社会の中で孤立してしまう者の心情が浮かび上がってくる仕掛けで、たいへんに技巧的で好みの作品であった。一人称ハードボイルド小説のファンであれば、ここで書かれなかったことに関心を持ち、紙背を読みたくなるに違いない。

今回の最上位としたいのは今村夏子「星の子」で、少しだけ明かしてしまえば両親が新興宗教にはまったために運命が変わった少女が主人公である。この小説がすごいのは全力で「かわいそう」を拒絶していることで、どんな境遇であってもその人なりの日常があり、その人なりの幸せがあるのだということが微笑ましい筆致で書かれている。親子三人が誰からも孤絶して星を眺める結末の場面はどうしようもない孤独と同時に、これこそが心の平和ではないかというものを読者に見せつける。心から素晴らしく、現在最も読まれるべき小説であると断言したい。

(つづく)

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