中禅寺湖にやってきた目的は、小学校PTA会長同期の親睦会である。そういう集まりがあるのだ。『ある日うっかりPTA』にも書いたが、私は子供が小学校に上がったとき、保護者という立場を真剣に務めることで地元に根を生やそうと考えていた。その結果として学童保育クラブの保護者のつきあいや、この会長同期の親睦会などができたわけである。大学時代の、いや新社会人になったころの自分が今の私を見たら、我が目を疑うのではないだろうか。
先日の金原瑞人さんインタビューのときにも少し話したが、私は小学生のころから本ばかり読んでいた。本の中にいるのが好きで、同世代の子と交流することが嫌でたまらなかった時期もあった。そのためにずっと学校になじめなかったのである。中学生のころはちょうどツッパリと呼ばれるような不良が幅を利かす時期だったこともあり、明日にでも学校が燃えてしまえばいいと思っていた。ひどい言い草かもしれないが、引っ越しを機に中学以前の知り合いと縁が切れたことが嬉しくてしかたなかったほどである。高校、大学と進むうちに自分の志向や考えを押し出して生きることが楽になり、それと共に周囲の人間ともうまく付き合えるようになった。
大学を卒業して社会人になったとき、また中学までの自分が頭をもたげてきた。大学は自我を押し通しても許される場所であるが、会社という場所はそうではない。中学校が地縁でつながった、ばらばらの人間の集まりであった。会社というところは企業の論理で集められた、やはりばらばらの集まりである。その中で生きていくためには自分を抑え、周囲に合わせなければならなかった。私はその中で、明るく、協調的で、主張しすぎない人間、という第二の人格をこしらえることに成功した。その人格を仮面として使って会社生活を乗り切ったのだ。10年間はそれを続けられた。よくやったと思うが10年が限界で、以降はまた勝手気儘にやれる自由業という道を選ぶことになった。
これまでの生き方は間違っていなかったと思うし、必然の選択であった。だが、ひそかにそればかりでいいのかと思う気持ちもある。文芸という専門領域で活動するライターという仕事は言うまでもなくごく限られた世界でしか生きていない。その中では精一杯に生きているつもりだが、知らないうちに世間を狭くしているのではないだろうか、という危惧はずっと持っていた。いや、今でも持っている。文芸は世界の一部でしかなく、フィクションがすべてに優先するというのは勘違いである。世界との間につながりを持たなければ、自分はいつか誤るかもしれない。
子供を通じてできた縁が、そうした迷いに答えを出してくれるとはまったく予想していなかった。家族には感謝するしかない。
朝起きると、中禅寺湖には霧がかかっていた。散歩に出かけた人に聞くと、途中から雨になったそうだ。朝食をとり、車に乗せてもらって出かける。日光周辺でぶらぶらと遊び、帰途今市宿に立ち寄った。今市は二宮尊徳が没した土地であり、二宮尊徳社がある。ひさしぶりにそこを訪れると、前回来たときは無かったトーテムポールのようなものが立っていた。見れば2017年の建造だという。茅の輪くぐりの要領で8の字を描き、投げ上げた賽銭が像の頭上にある穴に入ると願いが叶うのだそうだ。尊徳社に行かれる方はお試しを。
ついでに近所の片山酒造で試飲をさせてもらった。壁を見ると、大口で新酒を予約したお客の名前が木札で掲げられている。その中に15年熟成という予約札があった。今から15年後に低温貯蔵で熟成された酒を飲むのを楽しみにしている人がいるのだ。同行のひとびとで、予約しようか、という話になった。
しかし、15年も経つとこの中の誰かは死んでいるのではないか。
全員が死んでいたら酒はどうなるのだろうか。
そんなことが話の種になった。
「冷静に考えると、15年後だとみんな60代ぐらいでしょう。なんだかんだ言ってそんなひどいことにはなっていないと思うけど」
第〇十〇回の旅行とか言って、また日光に来ているかもね、と言って一同大いに笑う。
帰宅が思いのほか早かったので、下北沢で開かれている定例の立川談四楼さん独演会にうかがう。前座には間に合わなかったが(二ツ目昇進を決めた立川志ら門さんが出ていたので聴きたかったのだ)、仲入り前の談四楼さんから間に合った。談志に二番目の噺ということで「浮世根問」、真打昇進試験をこれで受けて落ち、談志に落語協会からの独立の口実を与えた「岸流島」と師匠ゆかりの噺が続く。トリネタは「人情八百屋」であった。
この日のゲストは立川流から独立して久しい桂文字助さんで、前回この会に上がられたときは半分漫談だったのだが、きっちりと十八番の「阿武松」を語られた。驚いたのは打ち上げで、実は今歯が一本もなくて入歯待ちだ、と明かされたことで、そんなことを微塵も感じさせない見事な口舌であった。
文字助さん目当ての客も多く打ち上げも盛り上がり、いらしていた三木のり一さんとも話をすることができた。長い長い一日、これでおしまい。