杉江松恋不善閑居 門田泰明ゴシックが気になる

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以前から書いているように、年間アンソロジー編纂のため小説誌掲載の読み切り短篇はすべて目を通している。ただし現代小説のみである。

なので決して時代小説には詳しくないのだが、たまたま昨日目を通した雑誌で気になったことがあった。

門田泰明の時代短篇に関して、である。

目が留まったのは「小説NON」4月号であった。門田は同誌に「浮世絵宗次日月抄 血闘」を連載している。その36ページにこんな文章がある。

宗次はここで吾子を見て、その手からさ蕨が消えていることに気付いた。

「あれ、吾子や、さ蕨はどしたい?」

さ蕨を太字ゴシックにしたのは引用者ではない。原文通りである。この小説の中では、重要な単語を太字ゴシックで表記するという規則があるらしいのだ。このあとにも二か所、さ蕨という単語が出てくるが、両方とも太字ゴシックである。

しかし、太字ゴシック表記がすべて重要というわけでもないらしい。

41ページの引用である。

団子・汁粉の店は通りに床几を出していなかった。二人は団子・汁粉と染め抜かれただけの暖簾を潜った。だから、店の名は判らなかった。

二つの団子・汁粉のうち後者だけが太字ゴシックなのは原文通りである。その前にも団子・汁粉は二回、「汁粉と団子」が後に一回出てくるが、こちらは太字ゴシックになっていない。こうなると、一ヶ所だけが太字ゴシックである理由がわからなくなる。憶測ではあるが、のれんに染め抜かれた文字として出てくるので、その箇所の団子・汁粉のみは固有名詞扱いなのではないだろうか。だが、この一ヶ所しか出てこない団子・汁粉の店をそうやって強調する理由がよくわからない。

本編には幕切れ近くにもう一ヶ所、太字ゴシックが出てくる。格闘剣という言葉だ。

さ蕨、団子・汁粉、格闘剣。

書き抜いてみても共通点が見つからない。

こういうの、すごく気になるのである。もしかすると連載の第一回から通読していって太字ゴシックだけをならべると別の意味が浮かび上がってくる、暗号文にでもなっているのだろうか。

門田が太字ゴシックを用いているのはこの連載だけではない。手元にある雑誌の中では「読楽」にも書いていて、その「夜蜥蜴 拵屋銀次郎半畳記」では前出の連載以上に太字ゴシックが駆使されていた。数はこっちのほうが多い。別ルールが適用されていると思しき箇所も発見した。

「床滑七四郎が極めているお手打ち琉つまり斬命流剣法は、儂が立ち合うても勝てるかどうか判らぬほど凄まじいものだと思うておる」

いま銀二郎は、恩師の言葉伯父和泉長門守との言葉が、ぴったりと一致したように思った。

このゴシック部分は「A=B」であることを示す箇所で使われている。特に後者の「恩師の言葉」は一般的な表現なのでこれ単体だと強調される意味がわからないのだが、伯父和泉長門守(との言葉)とそれが一致するという事実を作者は重視したわけである。

本篇の中で強調されているのは歴史的な用語や固有名詞が多いのだが、中には商家のように、なぜ作者がこだわるのかよくわからないものもある。圧巻は166ページの武鑑が強調されている個所で、1ページ下段に「剣術家武鑑」「武鑑」「大名家の武鑑」「旗本家の武鑑」「剣術家の武鑑」「大名武士鑑」と矢継ぎ早に武鑑に関する強調語が出てきて贅沢極まりない。この連載回を読んだ者の心に、間違いなく武鑑の二文字は刻み込まれたことであろう。

それにしてもこの太字ゴシック、作者はいかなる基準で使っているのであろうか。私は文章に装飾があるのが苦手で、すぅっと引っかかりなく最後まで読めるものが好みである。できれば自身の文章では「!」も「?」も、できればそのかぎかっこ自体も使わずに書ければこんな幸せはない、と考えているぐらいなのだが、この太字ゴシックのように、とにかく目に留まるように書くという筆法もあるのだと思い知らされた。好みはともかくとして、気になる門田泰明メソッドである。

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