文章を書く仕事をしていると、ときおり何も書けない日がやってくる。
原因は一つではなく、複数の何かが積み重なってそうなるのだ。
2018年5月15日がそうだった。いや、前日からそうだったのかもしれない。
その証拠に普段はそんなに眠れない人間が十時間近く熟睡してから起きた。おそらく体が机に向かうことを拒否していたのだと思う。
睡眠をとったので調子はいい。昨日あることで通院したが、仕事ができなくなるほど大変な症状ではないので、とりあえず問題はない。頭がきちんと働くように食事をし、お茶を淹れる。
机に向かう。
一字も書けない。
ワープロソフトを起動し、文書名をつけてファイルを作る。依頼メールを見て、何字×何行なのかを確認し、書式を合わせる。三冊を紹介する書評だ。棚から当該書を出してきて机の脇に置く。
それ以外の関係ない本が積み上がっている。
急に片付けたい衝動に駆られるが逃避行動だと判っているので理性で押し止める。
とりあえず関係ない本は視界に入らないよう床に置き直す。
書評対象の本を見返す。必要な個所に付箋が貼ってある。そこを抽出して書きたい内容を選び、後は三冊の順番を決めて話題を配置していくだけだ。書ける行数は決まっているので、一冊あたり何行かもわかっている。後は配置するだけである。
一行も書けない。
手が動かないので、画面は真っ白なままだ。
ワープロソフトから画面を頻繁に切り替えながら、溜まったメールに返信を出す。
やたらとメールの処理がはかどる。
でも、一行も書けない。
文章が書けない理由はさまざまだ。
落ち着け、落ち着け。
白い画面を見るのを止め、書評対象の本を机の上に並べてみた。
本の背を眺めながら、自分の中を覗いてみる。
しばらく自問自答した後、最初から判っていた答えを声に出す。
書けないのではない。
書くのが怖いのだ。
依頼をもらったのは専門誌である。当然だが関心のある読者が手に取る。それだけではなく、業界の関係者も読む機会が多いだろう。
その人たちの前に中途半端なものを出し、恥をかくのが怖いのだ。
かっこをつけたいのである。
少し書いてみる。
頭の中に書くべき情報はあるので、それを一行ずつ文章にする。
思ったような文章にならない。書いている内容は正しいのだが、思っていたのはもっとかっこいい文章なのだ。
自分の能力以上のことをしようとしている。
仕方がないので、自分に言い聞かせることにした。
いいか。
恥をかいてもいいから書け。
これを書くともしかすると稚拙な表現になるかもしれない。
知識不足を露呈して恥をかくかもしれない。
でも、原稿が間に合わなくて迷惑をかけるよりはましだ。
この原稿で恥をかいてしまうのは、現時点で勉強不足の自分が悪い。
しかし、そのせいで編集者に迷惑をかけてしまったらもっと悪い。
毎回毎回かっこつけようとするな。
自分の実力以上のものを見せようとするな。
恥をかいたらそれを受け入れて、次にまたがんばれ。
稚拙な原稿を出して仕事を切られてしまったら、その次は同じことを繰り返さないようにしろ。
そんなことを言い聞かせながら、ちょっとずつ文章を置いていく。文字通り置いていく。白い画面に一行ずつ増えていく文章が、まるで煉瓦積みのように見える。
そのくらいゆっくりとしか書けない。
ちょっとでも気を抜くと書くのが辛くなってキーボードから手を離してしまうので、なるべく息をしないように、引用箇所を確認するとき以外はよそ見をしないようにして指を動かすことに集中していく。
奥歯を噛みしめているらしいことがわかる。
下顎が痛い。
辛いが、文章量の三分の二ぐらいが画面に並んだあたりから少しずつ肩の力が抜けてくる。ここまで来たらもう後戻りできないから、吹っ切れてきたのだ。
最後の数行は、眼をつぶってキーボードを叩くつもりで書く。
できた。
ざっと推敲する。遅々とした歩みだったのに、やはり誤字やおかしな表現がある。
それを直し、すぐにメールに添付して送信する。
編集者からの返信はすぐに来ない。
あれでよかったのだろうか、という恐れがこみあげてくるが、もう遅い。
立ち上がってお茶を淹れに行く。
今日は最低でも、もう一本は原稿を書かないといけない。
頭を切り替えるのは苦手だ。全身に疲労感を感じる。あれほど長く寝ていたにもかかわわらず急速に眠くなってくる。
諦めて椅子に深く腰かけ、眼を閉じた。
【原稿が書けない日にしなければいけないこと・その1】
完全無欠なものを書こうという欲を捨てる。この原稿で足りないことは、次の仕事で必ず埋め合わせすると言い聞かせ、固執する自分を説得する。
【原稿が書けない日にしなければいけないこと・その2】
恥をかくのが怖いという気持ちを捨てる。原稿で笑われたらどうしようという考えを捨てる。自分はそんなにたいしたものではないのだから。
【原稿が書けない日にしなければいけないこと・その3】
必要な分量になるまでよそ見をせずに文字を置いていく。煉瓦を積むつもりで文字を並べる。もうこれで形になったと実感できるまで、決して手を止めない。