前回も少し書いたように、実家は八王子市にある。といっても外れのほうで、隣の多摩市との境界線上といってもいいぐらいだ。最寄り駅は京王線と小田急線の多摩センター駅である。それまでは一つ手前の永山という駅にある団地に住んでいた。中学から高校に進むときに引っ越したのだが、卒業名簿には新しい住所がわからないので書かなかった。たしか私は同窓会の役員か何かにされていた記憶があるのだが、名簿に載っていないぐらいだから何もしなかった。卒業以来、中学の同級生とはほぼ連絡を取ったことがない。
そんなことはどうでもよくて、古本屋の話題である。八王子には前回行ったまつおか書房と佐藤書房というそれはそれは素敵な古本屋があるのだが、当時は多摩センター駅から八王子駅までは非常に遠く、運賃もかかるのでほとんど行ったことがなかった。高校生のころによく行っていたのは、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅にあった実験書房という古本屋である。当時は素養がなくて本の良し悪しなどほとんどわからなかったが、文学関係の黒っぽいものがよく置いてあったという記憶がある。ミステリマガジンもときどき出ていて、ここで初めてバックナンバーを買った。中学生のときだ。フレドリック・ブラウンの単行本未収録短篇が欲しかったのだと思う。
実験書房の店主はいつもベレー帽をかぶっていて、手塚治虫と古川ロッパと坊屋三郎を足して二で割ったような顔をしていた。喋り方が上品だったし、もしかすると何か文学活動を若いうちにやっていた人なのかもしれない。
多摩センターに引っ越してからしばらくして野猿街道(とんねるずの「野猿」の元ネタだ)沿いに古本屋があることに気づいた。父がどこかで聞いてきた話によれば、引っ越しのときに出る中古品の売買が本業で、そのうちに古本の在庫が増えてきたので店舗を作ったのだという。三多摩地方に支店を多く出している、ブックセンターいとうの本店がこれである。
いとうは最初、とても変わった造りをしていた。まず、靴を脱いで入るところから他の古本屋とは違う。針金とたわしの材料で作ったみたいな足ふきマットが入口に置いてあり、そこで靴を脱いで上がる。継ぎ足し継ぎ足し作ったような床で、リノリウムみたいなところや、合板のように見える材質の部分もあった。お寺の本堂とか、大きな家の離れのようなところにたくさん棚を運び込んで本を詰め込んだ、といった風情で、入り口付近が四六判の小説単行本、その裏何列かが文庫、奥がコミックといった具合に何本も棚が入っていた。イメージとしては仙台の萬葉堂書店鈎取店がいちばん近いが、あれの天井を低くして、もっと整理を悪くした感じである。
さらにいとうの特徴は、明らかな家族経営であることだった。社長はみのもんたをさらに濃くした感じの男性で、その妻と見られる体格のいい女性がいつもレジ周辺にいた。レジ周辺、という書き方をするのはレジの奥が広くて十畳くらいはあり、そこがダイニングキッチンになっていたからだ。たぶん元は一家の居間だったのではないか。社長が(たぶん)突如「古本屋をやる」と言い出してそれを潰して店舗にしてしまったのである。レジの奥、客が立ち入らないスペースにはご家族と思われる人がいて、代わりにレジに立つこともあった。私は日曜日のたびにいとうに行き、「サザエさん」のオープニングが鳴るまで店内をうろうろしながら本を物色して過ごしていたので、上記の記憶はわりと鮮明である。
そのいとうもすっかり変わってしまい、十年以上前に立ち寄ったら元の建物とは似ても似つかないビルになっていた。中もいわゆる新古書店の品ぞろえであり、ブックオフと何一つ変わらない感じだったので、それからは足が遠のいてしまっている。
多摩センター駅からいとうまではバスの停留所でいくつかあり、近いとは言えない距離だった。駅の周辺にも二軒古本屋があった。もう閉業してしまっており、跡地がどこかもよくわからないのと、そこで本を買った記憶があまりないので書けることはあまりない。
私は四歳ぐらいで永山に越し、それからずっとニュータウンと呼ばれる団地地帯で過ごしたので、街の古本屋は憧れの存在だった。前回書いた下高井戸の豊川堂のような佇まいの店舗を見ると懐かしくて仕方なくなるのは模造記憶のなせるわざで、実際にはそういう店舗が家の周辺になかったからこそ、古い店に行きたくて仕方なくなるのである。個人営業の古本屋は前述の実験書房か、自転車に乗ってずっと行ったところにある府中市の店ぐらいしか縁がなかった。個人営業の古本屋がひょこひょこあるような町だったら、成人した後もあのへんに住んでいたかもしれない。
というようなことを書いたのは、その実家の付近に新しく個人営業の古本屋ができたらしい、という噂を聞いたからである。いや、噂ではなくてサイトの記事で見た。今は小田急多摩線の終点は多摩センターではなくて、町田寄りの一個先に唐木田という駅が新設されている。その近くに、児童書を主に扱う店ができた、というのだ。所用があってひさしぶりに実家に泊まった。そのとき、まさかと思うがこのへんに古本屋があったら、と試しにスマートフォンで検索をかけてみたら「ジャルダンブック」という店名が出てきたのである。多摩市中沢という住所は、南部丘陵病院という総合病院がある近辺だ。亡父が入院していたところなのである。なんという燈台下暗し。
ただ、気になることはある。ニュータウンの地元サイトにジャルダンブックは紹介されているのだが、他にはほとんど出てこないのだ。そんなところに古本屋ができたら話題にならないはずはない。これは早々に閉店してしまったか、あるいはネット営業しかしていないのではないだろうか。
そんなことをくよくよ思っていてもしかたない。とりあえず実家から帰る途中で寄ってみることにした。私の実家は多摩センターからモノレールが延びている丘陵地帯の中にある。引っ越した当時、道路をキジが歩いているのを見てびっくりしたものだ。それをだらだら降っていく。東にまっすぐ行けば多摩センターの駅である。西南に曲がると唐木田駅だ。歩いてもたいした距離ではない。橋本に向かう京王線と小田急線の二つの高架をくぐるともう目的地は間近い。ほら、そこに。
店はなかった。
グーグルマップが指し示す位置のビルは一階に、公道カートを扱うショップが入っている。花が飾られているから、おそらくは開店してからそれほど経っていないのではないだろうか。
ジャルダンブックはない。
そのカートの店を眺めていて、あることに気づいた。ジャルダンブックを紹介した記事の写真と、その店の写真と、入口のガラス戸がまったく同じなのである(リンク先をご覧ください)。間違いない、ここだ。ジャルダンブックはここに入っていたのである。
はい。なくなっていました。
残念だ、という思いもあるが、このへんでやっていくのは難しかったろうな、と納得する気持ちのほうが大きい。何年に開業されていつごろまで続けておられたのかは知らないが、この場所で個人営業の古本屋をやろうと考えられた経営者の方の勇気を賞賛したい思いである。古本文化を持ってきてくださって、ありがとうございました。
唐木田駅までとぼとぼ歩き、小田急線に乗って帰った。実家から近いが、唐木田も初めて使う駅だ。駅の有人売店がちょうどその日で閉じたらしく、後片付けの真っ最中だった。