首を伸ばして背もたれ越しに見ると、前のボックスで小学生が眠っていた。口が半開きである。窓ガラスに顔を押しつけいたまま下にずり落ちたらしく、「へ」の字というよりは「~」の字形に口がねじ曲がっている。寝違えてしまうのではないか、と思うほどに首が延びているのに、目を覚ましそうな気配はまるでない。
お連れさんは、と見ると興奮した面持ちで車内を駆け回っている。次に停まる駅が秘境駅なので、撮影する気まんまんなのだ。
JR飯田線の車内である。
二〇一八年夏の青春18きっぷを使ったJR旅行、第二弾は飯田線に決めていた。長野県岡谷駅と愛知県豊橋駅を結ぶ全長215キロの路線で、各駅停車で全線踏破しようとすると六時間半かかる。通しで運行している普通列車は一日に上下三本ずつしかなく、これに乗るためには東京都区内からほぼ始発で出なければ間に合わない。わざわざ乗りに行くには、これ以上ふさわしい路線は他にないだろう。行き方は二通りある。上りであれば、豊橋駅発十時四十二分に乗るためには、品川駅発五時二十九分の東海道線に乗ればよく、これはじゅうぶん間に合う。逆に下りであれば、五時四十一分新宿発高尾行きの中央線に乗り、六時三十分八王子駅発に乗り換えれば岡谷までは一本、これだと九時四十一分に岡谷駅に着き、四分後に出る飯田線上りをつかまえられる。乗り換え回数でいえば上り、飯田線始発駅での余裕を考えたらニ十分近くある下りだ。熟慮の結果、上りを取った。下りで豊橋に行こうとすると、乗り換え回数が多いため、一回でもしくじれば接続できなくなるだろうと思ったからである。早朝のことであり、寝ぼけて乗り過ごしでもしたらおおごとである。
その日は問題なく早起きして予定通りの時間に新宿駅に着くことができた。早起きというよりもほとんど眠っていないのだが。それはいいのだが、困ったことが一つ。途中でコンビニエンスストアに寄って食べ物を仕入れようという目論みが、時間がぎりぎりになって放棄せざるをえなくなったからだ。午前五時台にはさすがにホームの売店はやっていないし、駅そばに至ってはもっと望み薄だろう。下手をするとこれから飯田線が豊橋駅に着く十六時まで、十一時間以上何も食べられないかもしれない。いや、前日の夕食以来だから、二十時間だ。そう思った瞬間に腹がぐうと鳴る。望みがあるとすれば八王子駅の売店だろう。そこで何か買えなければ、いや店が開いてなかったらおしまいである。
しかしよくしたもので、そこまで運は悪くなかった。八王子駅のホームに電車が入っていくと、売店が空いていて、その前に買い物客の列ができているのが見えた。ドアが開くと同時に小走りで駆けつけ、お茶のペットボトルと梅のおむすび、パンを一つ買う。これでなんとか飢えることだけは避けられた。
岡谷行きの中央線は定刻通りに発着し、飯田線にも問題なく乗り継ぐことができた。車内は込み気味だったが、ボックスに相席で座ることができた。しかも先に座っていた男性は通路を挟んだ隣の二人組のお連れさんだったらしく、途中で呼ばれてそちらに移っていった。やった、ボックス独占である。お茶のボトルを窓ぎわに置き、耐久六時間乗車の始まりである。
この前飯田線に乗ったのはいつのことだろうか。覚えているのは伊那市駅で下りたときのことである。「レポ」でお世話になった北尾トロさんが、古本事業に力を入れていた時期があった。現在は伊那市の一部になっている旧高遠町を古本の街として有名にしようということになり、相乗りして古本店舗に棚を出さないか、という声をかけていただいたのだ。その店舗の様子を見がてら、高遠まで避暑に行ってみよう、という話を家族にして、車がないものだから電車でやってきたのだった。目的地は長野県、とだけしか言っていなかったので、家族は時間がかかることにびっくりしたらしい。それはそうだ。伊那市駅から高遠まで、さらにバスだもの。そのときたしか伊那市の駅前で地元の名産品ということで、初めてざざむしの佃煮を買って食べたのである。たしかその近くに寒天パパの店があって、寒天の大袋を買うかどうか迷って、と相変わらずどうでもいいことばかりよく覚えている。
気がつくと、すでに飯田線は走り始めてしばらく時間が経っているようだった。窓の外を眺めているうちに眠ってしまったのである。ここはどこだろうと思ったが、やがて見覚えのある駅に列車はすべりこんだ。伊那市駅である。ニ十分ぐらいは寝てしまっていらしい。いかんいかん。せっかくの飯田線乗車なのに、眠っている場合ではないのである。
見ると隣の三人組はしきりに鉄道談義に花を咲かせている。どうやら最も年長の一人は飯田線に何度も乗車経験があるらしく、連れの二人にしきりに蘊蓄を開陳している。なかなか参考になるので、聞いていないふりをしてところどころ耳をそばだてていた。
後ろのボックスは、姿は見えないがたぶん学生だろう。夏休みを利用してやってきたのだ。話の内容から大学生だろうと推測される。全員男。大学生らしくどうでもいいことをしゃべっている。
「このあいだ、おばさんに連れてってもらって初めて高い中華を食べたんだよ。北京ダックとかある高い中華」
「チンジャオロースとか」
「メニューは忘れた。でも高い中華って普通の中華とぜんぜん違うのな」
「どう違うの」
「どう違うかというと、これが高い中華か、という味」
まったく内容のない話である。だが、それでいい。彼らはしばらく乗った後で途中で降りていった。折り返しで岡谷に戻るのか、それとも各駅停車を乗り継いで一つでも多く秘境駅で下車しようとしているのか。
ご存じのとおり、飯田線は秘境駅の宝庫である。秘境駅は鉄道ファンの牛山隆信氏が提唱した概念で、その列車に乗る以外に到達する方法がないような地理的に孤絶した駅のことを言う。当然だが一日の乗降客は極端に少なく、存続を危ぶまれている駅ばかりである。飯田線にその秘境駅が多いということはつまり、廃駅の危機に瀕しているということだろう。それを逆手にとって廃駅ツアーなる企画を催したこともある。逞しいが、楽観視しているわけにもいくまい。年に一度はこうして乗りに来なければ、と改めて思った。
さて、その秘境駅について熱く語っているのは横の壮年男性三人組だけではない。私の前のボックス席にいる小学生二人組もそれに負けないほどに燃え上がっていた。さっきから列車が停まるたびにちょこちょこ走っていっては、スマートフォンで駅の写真を撮っている。特に熱心なほうをカメラくん、もう一人の眼鏡少年をメガネくんと呼ぶことにした。見たところ主導権を握っているのはカメラくんのほうで、メガネくんは彼にひっぱられてきたようである。二人旅のようである。保護者のいる様子はない。この日は日曜日だったのだが、夏休み最後の思い出ということで二人して飯田線に乗りにきたのだろうか。気が付いたときには彼らは車内にいて、このあと豊橋までずっと一緒だったのである。下り列車で折り返して帰ったのだろうか。それとももともと豊橋住まいで、これが帰り列車だったのだろうか。後で思い返してたいへん気になったが、このときは「すごいカメラ小僧がいる」ぐらいにしか思っていない。
「飯田線の本番はこっちからだと天竜峡を越えてからだからね」
と隣のボックス席で事情通が言う。
「天竜峡から〇〇(聞こえなかった。中部天竜と言ったのかも)までだね。それを過ぎちゃうとつまらなくなるから、本当は折り返して帰ってきたほうがいいのかもしれない」
なるほど、と連れの二人が感心する。ひそかに私も感心する。
そのあとも駅に停まるたびに蘊蓄氏はありがたい情報を開陳してくれた。やたらと詳しいのでもしかすると牛山隆信氏本人か、とも思ったが、氏はたしか、私とほぼ同年齢だったはずである。たぶん違う。いや、鉄道ファンを舐めてはいけない。このくらいのマニアは、おそらく掃いて捨てるほどにいるのである。日本一人口の多い趣味は鉄道だろうし、裾野の広いところには人材が集まる。
蘊蓄氏の言うとおり、天竜峡を過ぎるあたりから溪谷が眼下に迫り、見事な絶景が続いた。緑の水をたたえた河と切り立った岸辺とを遮るものなく窓から鑑賞することができる。岩と樹々の作り出す光景が楽しく、すっかり眠気も覚めて私はそれに見入っていた。
そしていよいよ秘境駅の登場である。牛山氏のサイト「秘境駅に行こう」に全国秘境駅ランキングが発表されているが、上から順番に小和田、田本、金野、中井侍、十代と三十位までの間に五駅が入っている。このすべてが天竜峡~中部天竜の間の駅である。
気がつくと、駅に着くたびにほとんどの乗客がホームを撮影しに立っている。みんな飯田線に乗るために来た鉄道ファンの人なのだ。カメラくんはもちろん真っ先に立って、ボタン式のドアを開けるために走っていた。しかし、一人である。こっそり覗いてみると、メガネくんはさっきまではしゃいでいたのが効いたのか、熟睡しているのであった。それをまったく顧みることなく、カメラくんは秘境駅の撮影に勤しんでいる。
いいのか、友達を起こさなくて。
きみたちはここを見るためにわざわざ飯田線に乗ってきたんじゃないのか。
そんなことだといつか友達に捨てられちゃうぞ。
と、そんなことを思ったが、だからといって小学生に私が声をかけるわけにはいかない。かけたらただの怪しいおやじである。メガネくんの安眠とカメラくんの奮闘を邪魔せぬよう、私も一人静かに窓外の観察に励んだのであった。
十六時十六分、定刻通りに飯田線は豊橋駅に到着した。名残り惜しいがこれにて一巻の終わりである。一瞬、このまま下り列車で引き返したらどうだろうか、という考えが頭をよぎったが、さらに六時間半乗ったら私はたぶん死ぬだろう。実は諏訪市で旅館を経営している友人がいて、以前よりそこで一泊してみたかったので、そんな考えが浮かんだのである。しかし、よく考えてみるとこの下りで終点まで行っても、諏訪に着くころにはすでに深夜で、旅館に泊まろうにも食事のあてすらない。やはり死ぬであろう。ようやく正気に戻り、その日は豊橋市内に宿泊することに決めた。いや、帰ろうと思えばまだ東京には戻れるのだが、青春18きっぷはもう一日分残っているし、明日ゆっくり帰ってもいいではないか。
徒歩五分のところに格安のホテルをとってまず向かったのが、豊橋駅からほど近い場所にある古本屋、東光堂である。やはり古本屋には行くのだ。いや、駅から歩いて行ける距離にあるから仕方ないのだ。不可抗力なのだ。
それほど大きくはないが、けっこうな奥行のある古本屋である。入口から見ると縦長の店舗で、その長辺を二分するあたりのところにレジがあって店主がノイズの多いラジオを聞きながらパソコンで何かを熱心に記録している。その奥右側が郷土史関係、左側が成人本の棚だ。手前は右側が文庫や古い漫画、ミステリーやSFである。左側のほうもよく見たかったのだが、さいぜんに降った雨のために店主が店頭の均一棚をしまっており、通路が潰れていて入ることができなかった。しかし見える範囲だけでも欲しい本が山とある。置いてきた本のことはいちいち書かないが、値付けも妥当であり、近所だったら間違いなく買うだろうものがごろごろしていた。
そのうちに棚のある箇所に目が留まる。自宅の書棚で見なれたこの本はボアロー&ナルスジャックの『わたしのすべては一人の男』(ハヤカワ・ノヴェルズ)ではないか。持っている本はひとさまから頂戴したものであり、店頭で見つけたのは初めてである。記念に買って帰ることにする。それ以外に郷土史棚で愛知県のご当地作家杉浦明平の随筆集『東海道五十三次抄』(オリジン出版センター)を発見、これは東海道踏破経験者としては買うのは義務である。もう一冊、文庫本棚でイアン・バンクスの傑作サスペンス『蜂工場』(集英社文庫)を見つけた。これも買う。持っているのだけど、明日の長旅で読むべき軽い本を準備してこなかった。退屈したときに読むつもりなのである。
さあ、これで、と引き上げる気になった瞬間、今日の本命というべき掘り出し物を発見してしまった。そっけない青色の背に「一九七三年版ユース・ホステル・ハンドブック」と書いてある。これだ、これをずっと探していたのだ。
前にも書いたが私は、十代のころユース・ホステル旅行にはまっていた時期があった。そのときに毎日のように眺めていたのがこの日本ユース・ホステル協会が発行している年次ハンドブックだったのである。これには北海道から沖縄県まで、全国すべてのユース・ホステルの所在地が網羅されている。住所、電話番号、最寄り駅、そして建物の外観と略地図も。今のようにスマートフォンを使ってその場で宿泊場所を探すなんてことはできなかった時代だ。しかし旅先にこれを持っていきさえすれば、目的地近くにユースホステルがないかどうかを調べることが可能だったのである(空いていれば。事前に往復はがきなどで予約をするのが本式だった)。これを持って何度寝台列車に乗ったことか。
さらに言えばここには、廃業してしまったユースホステルの在りし日の姿が残っている。過去に存在したユースホステルについては、ネット上にも情報が少なく、あのとき停まったあそこはなんという名前だったっけ、と思い出そうとしても見つからないことが多いのである。ハンドブックがあれば、過去の記憶を引っ張り出すことも容易になる。やった。
一点残念なのは、これが一九七三年版であったことだ。年次ハンドブックなので、本当に欲しいのは私がもっとも多くユースを利用した一九八〇年代のものなのである。しかし役には立つだろう。ためしに泊まった記憶のある名前を思い出しながら引いてみたら、滋賀県の大津ユースホステル・センターが出てきた。建物の形に見覚えがある。間違いない。
これで満足せず、さらに他の年次のハンドブックも探して歩こう。そう固く心に誓った豊橋の夕べであった。ちなみに豊橋駅からもっとも近い場所にあるユース・ホステルは、このハンドブックで見ると飯田線豊川駅を最寄りとするユース・ホステルべんてん旅館であった。その住所を今グーグルに入れて検索してみたが、すでにその場所に建物はなく、ストリートビューにも白砂利の敷かれた空き地が写っているだけだった。
(つづく)