街てくてく~古本屋と銭湯、ときどきビール 2016 年7月東海道再訪その2・保土ヶ谷宿~藤沢宿

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遊行寺にて。一遍上人様と。

大学で美術史専攻だった友人がアンコールワットに短期間の発掘調査に行くことになった。もう二十年ぐらい昔の話である。

聞けば、直接カンボジアに入るのではなく、いったんタイのバンコクで準備を整えてからカンボジアに出発するのだという。

その報告を聞きがてら会って、飲んだ。

「探検隊、パッポンで全滅」

「それは何かね」

「手向けの句である」

「自由律にしろそれはもう俳句ですらないと思うが、それにしても何かね。どういう意味かね」

「発掘調査の高い理想に燃えてバンコクに入った探検隊であるが、英気を養わんとて向かったパッポンでゴーゴーバーにはまり、カンボジアに出立することなくそこで全滅してしまうのである」

「失礼な。そもそも我々は調査隊であって探検隊ではない」

「探検隊のほうが語呂はいいから喃」

などという会話があったことを唐突に思い出したので書いておくのである。書いたあとでなんだが、本当にどうでもいい酒の上での会話だ。

アンコールワットとはまったく関係ない話である。東海道歩きだ。

たびたび書いているように、発心して二〇一一年の十月から二〇一三年の三月までの一年半、十七回に分けて同業の藤田香織さんと一緒に東海道を踏破した。その記録は『東海道でしょう!』(幻冬舎文庫)という本にまとまっている。

それまで無精の極みであった私に歩くことの楽しさを思い出させてくれた、ありがたい旅である。その後も東海道への思いはやみがたく、再度全行程を歩き直すことを決意して、二〇一六年六月二十日に日本橋~保土ヶ谷宿の32.3㎞を歩いたのであった。

今回の東海道歩きでは前回できなかったことに挑戦する意図があった。その一つが、「距離を歩く」ことである。『東海道でしょう!』を見ていただければわかるとおり、われわれはまったく歩けていない。十七回にも分割して東海道を歩いてしまったのは、単純に足がついていかないからなのだった。しかし全行程を歩き、さらに徒歩での伊勢参り、日光街道、日光御成街道、川越街道などを制覇した今の私であれば、前回よりも短い日程で全路を歩くことができるのではないか。自分の力量を試す意味もあって、再度の東海道行きを決めたのである。その結果、一日30㎞以上という、二〇一一年当時では考えられない記録を達成することができた。

というわけでそれから二週間後、二〇一六年七月三日に、保土ヶ谷宿を出発して第二回の東海道歩きに出た。今回の目標は一日で保土ヶ谷~大磯33.1㎞を歩くことである。前回の記録を見れば、これが決して無理な数字ではないのはご理解いただけるであろう。

保土ヶ谷駅のあたりではJRの線路と並行して走っている東海道は、駅の西側で直角に近い曲がり方をする。道を北上してしばらく行ったところでさらに西に逸れるのだが、そこからはがらりと景色が変わる。日本橋から保土ヶ谷まではほぼ平坦な道であったのに、ここで初めて長い急坂が出現するのだ。権太坂と呼ばれるこの坂で、口だけは達者で尻っ腰のない江戸っ子はおそらく最初にあごを出したことだろう。これを過ぎても坂の上り下りは続き、何度目かの坂を下りきり、しばらく歩いたところが戸塚宿である。

権太坂を上り切ったところにある品濃一里塚。保存状態がよく、昔のままに残されている。

宿場の入口を見附というが、その東側、江戸見附にはファミリーレストランの敷地をちょっと削ったような形で石碑が建てられている。ここからJR戸塚駅の反対側まで宿場は伸びていたわけで、規模が結構大きかったことがわかる。本陣も内田本陣と澤辺本陣の二つがあった。

JRの駅までやってきて五年前と何かが違うのに気づいた。踏切がなくなって跨線橋が設置されていたのである。それはそうだ。五年もあれば町の景観も変わる。

戸塚大踏切があった場所には、こんな壁画が描かれている。

戸塚駅を過ぎると東海道は、上り坂一途に転じる。上り切ったところから尾根を這うようにして高台の道が続くのである。日光を遮るものがないので非常に暑い。そしてどの駅からも遠いので、音を上げても途中で逃げ帰るわけにはいかないのである。途中で上品そうなご婦人に道を尋ねられたが、彼女はどこから来たのだろうか。たまたま目的地である病院の前を通ったばかりだったので教えられた。無事にたどりつけたであろうか。

前回も歩いているので、この尾根道が終わるところがどこだかは知っている。道が一号線の藤沢バイパスから分かれて道場坂と呼ばれるようになる。時宗の総本山である遊行寺へ向かう道だからこの名前なのだろう。切り通しの下り坂を一気にくだっていくと右側が遊行寺、ちょっと入って参詣したら、たまたまフリーマーケットの日に当たっていた。もしかすると古本でも出している人はいないか、と思って探したが、見当たらず。

坂の下はもう宿域である。往時の姿を偲ばせる建物などは意外と少ないのだが、記念碑や説明版などがあちこちに設けられている。

さて、ここから次の平塚駅までは13.7km、気合を入れ直して歩くか、と思い時間を確かめると午後三時近い。昼食も摂っていないので、やや疲れた気がする。

そのとき、たいへんなことを思い出してしまったのである。

そうだ、藤沢にはラーメン二郎がある。

そして、ラーメン二郎からそれほど離れていないところに古本屋、光書房がある。

うん。

街道歩きのときにやってはいけないことがいくつかある。そのうちの一つが、「スタミナをつけたいと思っても、絶対昼飯をがっちり食べてはいけない」だ。歩くのは純粋な肉体労働だからもちろん疲れる。だから栄養補給をしたくなるのは理の当然だが、歩きながら食べられる携行食にするか、せいぜい蕎麦程度の軽食にすべきなのである。

理由は単純、おなかがいっぱいになると、歩くのが嫌になっちゃうからだ。だって辛いことをわざわざやっているんだもの。人間は空腹が満たされると我に返る。そして眠くなることもあって、安息を求めたくなるのである。

また、ラーメン二郎は行列が当たり前の人気店である。待っていると次第に疲れがぶり返してくる。何もせずにぼうっとしている間に、このまま歩くのを止めちゃったほうがいい理由が百は思いつくのである。だって暑かったし。

ラーメン二郎を出た私は鉄の意志で再び歩き始めた。しかし方向は街道と逆である。光書房があるからね、そっちに。光書房には大学時代からお世話になった。無視して通り過ぎることなど私にはできないのである。この日もめでたく五代目柳家小さんの『五代目小さんの昔ばなし 抱腹絶倒』(冬青社)を見つけて購入した。抱腹絶倒などと書いてあるけれど、主になっているのは小さんの従軍記で、けっこう貴重な記録なのである。たいへんな体験をしているはずなのに、小さんの語り口調は呑気で、笑える。

 もちろん、その後には街道歩きを続行するつもり満々であった。だって、まだ日も十分に高いし。

しかし、古本屋を出た私は見つけてしまったのである。道の向こう側に富士見湯という様子のいい銭湯があり、まさに今開業しようとしているのを。汗みずくになって歩いてきた身にとって、それはあまりにも危険な誘惑であった。

探検隊、藤沢で全滅。

ラーメン二郎~光書房~冨士見湯という連続攻撃はあまりに強力であった。

なお、歩き残した藤沢~平塚間には、この数日後に戻って歩き直してきた。やるときはやるのである。

平塚宿手前に大山道の追分がある。落語「大山詣り」の一行もたぶんここを通っているはず。

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