街てくてく~古本屋と銭湯、ときどきビール 2017年5月東海道再訪その4の上・箱根

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

畑宿の一里塚。一対の塚が見事に残っている。

さて、いよいよ箱根越えである。

前回、箱根湯本まで歩を進め、後は山に登って降るだけ、という状況にしてから半年が過ぎた。決行したのは年が明けた二〇一七年五月十六日のことである。箱根は冬に登れるほどに緩やかな山ではない。いや、駅伝の人はどうだ、とは言わない約束である。駅伝の人になれるくらいなら、もう東海道を三往復ぐらいはしているであろう。また、春先に登ると花粉症のせいでたいへんなことになるというのは、前回の『東海道でしょう!』挑戦時につくづく思い知らされている。ただでさえ息が苦しいのに、呼吸困難になってしまうのだ。

そんなこんなもあっての五月である。人はこの用意周到さを見習うべきであろう。

箱根湯本到着は午前七時。そこから前回の終着点であった三枚橋まで下り、旧街道に入る。

道は最初から上り坂である。思い出す。そうだった。前回はそれでいきなり心を折られたのであった。なにしろ『東海道でしょう!』のときは、歩いて越えられる自信がなく、石部まで行って終わりが見えてから改めて箱根まで戻って行程の穴を埋めたのであった。そのくらいの難敵なのだ。

後北条家代々の菩提寺である早雲寺などのそばを通り過ぎて登っていくと、やがて道は市街地を離れていく。前回はここまで歩いて宿泊し、翌朝の山越えに備えたのである。ホテルが密集している地帯を過ぎると山道そのものになり、雑木林の梢が頭上にそびえるようになっていく。早川の支流である須雲川の沢が横を流れる。この道沿いには恐ろしい名前がついている坂がいくつかあるが、「女轉坂」もその一つだ。おんなころびざか、ではなくて、おんなころばしざか、と読む。この場所で女性が落馬して死んだことが名前の由来だという。なんちゅう地名なのだ。

本格的な山登りが始まるのは、間の宿である畑宿の集落を抜けてからだ。ここは寄木細工の里として知られる場所である。心の準備をするためにトイレに入り、自動販売機でお茶を買う。ここからしばらくは飲み物を仕入れることもできなかったはずだ。気持ちを引き締めて、登山の開始である。畑宿を過ぎるとすぐに一里塚がある。保土ヶ谷の品濃一里塚と同じで、一対の塚が保存されている貴重な場所だ。

自動車道である箱根新道も、このへんでは七曲りになって山肌を上っていく。人間の行く道はまっすぐなので、何度かその新道にぶつかる。自動車道が迂回する斜面が人間の登坂なのである。もっとも旧道はすでに崩れてしまっており、今はかつての泥道、あるいは石畳であったところを階段で上っていくことになる。

眺めは本当に素晴らしい、眺めは。

坂には名前がつけられており、そのいくつかは非常に恐ろし気である。橿木坂は「東海道名所日記」に「橿の木の坂をこゆればくるしくてどんぐりほどの涙こぼる」との記述があるとのこと。大のおとなが苦しくてどんぐりほどの涙をこぼしてしまう坂なのである。猿滑坂は「新編相模国風土記稿」に「殊に危険、猿猴といえどもたやすく登り得ず、よりと名とす」とあるのが由来である。

いい加減うんざりして心が折れてしまったころにようやくなだらかな坂道が出てくる。その上が笈の平で、甘酒茶屋がある。その名のとおり甘酒などを振る舞う休み処があり、一節には赤穂浪士の神崎与五郎が馬喰に言いがかりをつけられ、じっと頭を下げた「神崎詫び証文」の舞台となった場所と伝えられる。この先にもいくつか坂はあるが、七曲りの辛さからすれば耐えられないほどではない。

甘酒茶屋にて。歩いてきた後なので、このちょっとだけある漬物の塩分がまた嬉しい。

このへんで最初の石畳が出てくる。もともと箱根山には泥道しかなく、旅人は脛まで土に埋まりながら峠を越えたという。幕末になって将軍家茂に皇家から和宮降嫁の話が出た際、皇女に泥道を歩ませるわけにはいかないということになって石畳の舗装が行われたのだ。もっとも和宮一行は中山道を使うことになったので、結局箱根には来なかったのだけど。

やがて待ちに待った下り坂が現れる。箱根開発に功績のあった外国人、ケンペルとバーニーの碑を越えると芦ノ湖畔である。

いい加減坂ばかりでうんざり、と顔に書いてある。でも、石畳が出てきた。ここは甘酒茶屋を過ぎた後の白水坂付近。

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存