2017年10月4日午後6時の私はJR東海道線の富士駅前にいた。
前回の続きで東海道を歩くためだ。二度目の東海道行で、初めての泊まりがけである。東海道を何回かに分割して歩こうとすると、調整に苦労する場所がいくつかある。前回の小田原~三島間がその一つで、箱根で宿泊したくなければ無理をして一日で山を越える必要がある。箱根を西側に下りたあともちょっとした問題があった。三島の次の出発点をどこにするか、である。三島~原間がだいたい12km、次の吉原宿までがさらに11km。合計23㎞で、ここまでは一日で間違いなく歩けるのだが、その次の蒲原まで行こうとすると、さらに11㎞が加算されて34kmになる。前回の箱根越えでも30㎞は歩けたので理論上は無理な数字ではないが、辛い距離ではある。
それよりは吉原宿を過ぎてからできるだけ歩いてしまい、交通の便がいい富士駅で一旦上がりにしてしまう。次回の出発は富士駅にすれば、蒲原まで6km、その後の由比、興津までが13㎞強なので、20㎞歩けばいい。もし余裕があればさらに次の江尻(JR清水駅近辺)まで行って、という計画だ。江尻~府中(JR静岡駅)は距離があって11km程度。さすがに欲張るのは無理なので、無理をせず次回興津~府中という行程でもいい。
そんなわけで、富士駅出の今回は、最低目標が興津、努力目標が江尻、という計画であった。東京から始発で行くと出発が遅くなってしまうので、前泊することにしたわけだ。富士駅を夜明け前に出れば、ちょうど日が昇るころに徒歩で富士川を渡ることになる。そこからの霊峰の眺めが絶景なのである。その神々しい景色が今回は第一の目的でもある。
富士駅まで来たところで一つ問題に気が付いた。夜明け前の出発は、真っ暗な中を歩くことを意味する。そのために絶対必要な、懐中電灯を忘れてきてしまったのだ。できればヘッドライトが望ましいが、そんなものが売っているわけはない。まあ、コンビニエンスストアでもあれば懐中電灯は買えるだろう、とたかを括ったのがまずかった。
どういうわけだか、富士駅前にはコンビニエンスストアが存在しないのである。寂れた田舎の駅というわけではない。結構な繁華街になっていて、前を通っただけでもキャバクラが3軒はあったと思うのだが、コンビニエンスストアはない。
いや、これはどういうことかね。高校生がアルバイトを始めるときの定番はコンビニエンスストアだと思うが(まさかキャバクラではあるまい)、そういう働き口の需要はないのだろうか。いや、別に私がアルバイトの心配をする必要はないのだが。
結局、ホテルからガードをくぐって駅の反対側に行ったところにデイリーヤマザキがあることが判明し、無事に懐中電灯は入手できた。ついでにいくつかおにぎりを買う。早朝出発のときには食糧確保が絶対に必要である。とりあえずこれで翌朝の準備はできたので、一杯やって寝ちゃおう。
そう思って、富士駅前に出ていったのが午後8時。食事を済ませて帰ってきてから、翌朝出発するまで8時間は眠れる計算である。そう、富士川で夜明けを迎えるために、午前5時にホテルを出る予定なのだ。富士の名物は何かしらん、とのこのこ街に繰り出したのが大間違いであった。
その夜は、ほぼ一睡もできなかったのである。びろうな話になるので中間の経緯は省略するが、翌日街道を歩こうとしている者は生牡蠣を食ってはいけない、とだけは書いておきたい。牡蠣を食いたかったらフライにするか、歩き終わった後にしろ。
まったく眠れずに悶々としているうちに、目覚ましが鳴ってしまった。午前4時30分。出発の時間である。この日歩くのを諦めて真っ直ぐ帰京しようか。その考えも頭をよぎった。しかし、交通費と宿泊費を使ってわざわざ富士までやってきて、ここで帰ったのでは何をしに来たのかわからない。とりあえず行けるところまでは行こう。そう思った。
昨日買った懐中電灯で足元を照らしながら歩いていく。富士の駅前を離れると、JR身延線の柚木駅あたりで線路をくぐることになる。そこからはゆるやかな上りである。
夜が明けたあたりで、狙い通り富士川の上にいた。いろいろな富士山の眺望はあるが、ここからの眺めも抜群だ。川面越しに拝むため、堂々たる山容が期待できるからである。この日も、山麓を身近に感じながら江風吹く富士川を渡った。
対岸からはちょっとした峠越えになる。峠の手前は中之郷という集落になっていて、その中を突っ切っていくと、やがて道が急になり、歩いているこちらの息が切れ始める。体の異変に気付いたのはこのへんであった。まだいくらも歩いていないのに、もう足を引きずりつつある。明らかに睡眠不足が祟っているのである。
そのまま三十分ほど歩いてみたが、敗北を認めざるをえなかった。これは無理だろう。興津どころか、次の由比までも行きつけるか怪しい。素直に蒲原から引き返すべきだと悟った。バイパスの上を陸橋で渡ると富士市から静岡市に入る。元の蒲原町、現・静岡市清水区である。峠を一気に下ったあたりが蒲原宿だ。東海道の中でも、古い建築物が多く残っていて過去の風情を最もよく伝える宿場町の一つである。悔しいのだが、安藤広重描く雪の蒲原宿を模した記念碑の前で写真を撮り、この日のゴールとする。時刻はまだ8時11分。
急いで帰って自宅で布団にもぐり込んだら、まだ昼前だった。東海道再攻略、大失敗の巻。