街てくてく~古本屋と銭湯、ときどきビール 2018年11月・福岡別府「徘徊堂」

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謎の本

古書徘徊堂には二つの店舗がある。それぞれ最寄り駅が、地下鉄七隈線の六本松と別府(べふ、と読む)である。M君によれば六本松店は巨大で、それこそハヤカワのポケミスなどが足の踏み場もないほどに置いてあって、しかも安いのだという。夢のような話だが、その日は休みであった。別府店は開いているという。M君曰く、六本松店よりはかなり小さくて、どちらかといえば一般文学のほうが強い店だそうだ。

でもまあ、もう十分収獲はあったから。

ブックスビバークのあと、いったん薬院駅に寄り、買った本を荷物に仕舞ってきた。というのも、このままいくと飛行機に持ち込める手荷物の重量制限を超えてしまいそうな気がしてきたからである。空港で超過料金を払うよりは、スーツケースごと宅急便で送ってしまうことにする。コンビニエンスストアで量ってもらったら、すでに10キログラムを超えていた。危ないところである。

一回着替えをするだけの服と読む本があればそれでいいので、ほとんどの荷物をスーツケースに入れてしまい、小さいショルダーバッグだけで別府まで来ている。

いくらなんでも、このバッグに入る以上の本は買わないよ、もう。

そう思いながら、別府の駅から歩いている。

駅からの来かたは単純である。樋井川に向けて歩いていくと、やがて道がX型に交差する箇所がある。そこで右の道を選び、最初の角で右に曲がる。もう日が暮れているので、かなり暗い道である。古本屋回りを始めたころは、よくこういう暗い道を歩いたものだった、などと思いながらM君と連れ立っていく。ほどなく道の右側に店舗が見えてきた。福岡で最後の訪問となる、徘徊堂別府店だ。

店の前には均一棚が三つ置かれている。文庫の棚だけでもけっこう大きい。

店舗に入るとそこは、ジェンガ大会のように倒してはいけない塔が林立した、無秩序な場所であった。無秩序は失礼か。向かって右が児童文学が多い地帯。無数の絵本があり、あまり見たことがない児童書の揃いが置いてある。おおざっぱに分類すると正面奥に人文科学書、左側に文学書ということになるのだが、壁ぎわ棚があるのではななく、その合間にも胸ぐらいの高さの棚が置かれており、その角や前に本が積まれている。また、レジ前の空間にはテーブルがあり、その上にも山ができている。山と山の間は狭く、普通に通っても何かが落ちていくのである。つまりはジェンガ地獄。

しまった、早まったかもしれない、と一通り店の中を見て思った。明らかに何かを発見してしまいそうだ。現に今、床に積まれているポケミス山を見て、希少な本を一冊発見し、M君に渡したところである(イエジイ・エディゲイ『ペンション殺人事件』だった)。ショルダーバックにはもうほとんど余裕がなく、入れてあとハードカバー二冊というところである。このところ古本屋回りをしてもあまり冊数を買わない習慣がついていたため、今日もそんなものだろうと思っていたのだ。

とんでもない。買おうと思えば立ちどころに十冊ぐらい棚から抜いてこられる。

辛い決断ではあるが、ここでは二冊しか買わない、と心に決めた。では、何を買うか。

一冊はすぐに決まった。壇一雄『わが百味真髄』(講談社)の元版があったのである。もしかすると家にあるかもしれないし、文庫で出ているような気もするが、これは今すぐ読みたい。それに壇一雄は柳川の人だから、これはご当地本でもある。一冊ぐらいはご当地本を買わなければ。

もう一冊で判断に迷った。買おうと思えばなんでもいける。せっかくだから、ここを出たら二度と巡り合わないような本。

そう思って文学棚を見ていると、見たことのない本に目がとまった。

くすんだ草色とでもいうべきか、落ち着いた感じの装幀に『短篇小説集 魔術の花1』とある。出版社は話の特集である。あの同名のミニコミ誌を出していた会社だ。そして帯には気になる文字が並んでいる。

「この中には、なにかを求めている一編があります。サトウサンペイ/色川大吉/永六輔/谷内六郎/草柳大蔵/安野光雅」(表1)

「眠れない夜に……/旅のカバンへ……」(表4)

なにこれ、すごくおもしろそう。

アンソロジーなのだろうか。存在も知らない短篇集に、胸躍らせながらページを開いてみた。

我が目を疑う。

帯に並んでいた名前が一つもなく、それどころか並んでいる作者にまったく見覚えがなかったからだ。

書き写してみよう。

空飛ぶ異人 浮田潮

死人に口なし/復讐 一柳龍士

生か死か 水江紅二

考古学/言語学 由木匡

釘さし/キエム爺さん 瑳我野秋洞(我は王へん。環境依存文字)

おそるべき結末/豚 野々村奇風

白い杖 鷹巣怜之介

ソクラテスのスキャンダル 草刈権兵衛

逮捕 文挾清一

童話水男の物語/雨/絵物語ソフィア(絵ピエール・クードロワ) 泉元典

誰一人知らない。

私は日本文学の専門家ではないし、もちろん読んだことのない作家だって無数にいる。だが、中央でプロとして活動したことのある作家ならば、少なくともその名前に心当たりぐらいはあるはずである。

まったくない。

別次元の生物のようにかすりもしない。

あれ、これって同人誌なのだろうか。

気になって奥付を見てみた。1979年9月10日第1刷発行、定価1200円とあり、発売元として話の特集と書いてある。だがその上に「発行所・発行者」として「鼎書店 広瀬隆」とあったのだ。

広瀬隆って、あの「東京に原発を」の人か。

広瀬の言論活動については、これまであまり関わらないようにして生きてきた。イデオロギー第一の人に見えたし、そのエキセントリックな振る舞いに合わないものを感じたからである。

しかしこれは反原発とか反ロスチャイルドの本ではなく、短篇小説集だ。

広瀬隆の活動にはあまり詳しくないが、同姓同名の別人なのではないだろうか。

M君がレジで勘定をしている間に、十六篇のうち一つを急いで読んでみた。巻頭の浮田潮「空飛ぶ異人」という作品である。

――これから、人類初めての奇蹟を、物語ってみよう。

そういう書き出しで始まる。何かと思ったら、鳥人幸吉の話であった。浮田幸吉が鳩の体を調べて人力で空を飛ぶ仕掛けを作ったが、天狗と騒がれて囚われるというところで終わる。最後に作者のあとがきのようなものがついているが、まあ、それで終わりだ。

凡庸である。あえて読みたいとは思わないが、まあ、こういう小説もありではあるだろう。

M君が手間取っている間にもう一つ読んでみた。一柳龍士「死人に口なし」である。

三人の男が館にいる。当主はインドニシキヘビを飼っていて、他の二人にペット自慢をする、というところから話が始まるのだが、そこからややあって一人が死ぬ。事件が起き、他の二人も生きのびるための算段を考えなければならなくなるのだが。

凡庸である。ミステリーの形になってはいるが、登場人物の動機に首をひねりたいところがいくつもあるし、語られないことがあまりに多くて、行動に整合性も感じられない。もしかすると何かの寓話になっているのかもしれないが、だとしたらどう考えても「人間は愚かである」以外の意味は引き出せそうにない。どこをどう切り取っても凡庸な小説だ。

M君の会計が終わった。

凡庸な短篇が二つ入っていることが明らかになったアンソロジーを手にしばらく悩む。

たぶん、これはおもしろくない本である。

しかし、この本を今置いていくと、二度と会うことはないかもしれない。

おもしろくない本なら会わなくてもいいではないか。

だが、この謎の多さはどうだ。未知の作者、本の成り立ち、どこを切り取ってみても不可解なことばかりではないか。

『魔術の花1』とあるが、まさか『2』とか『3』もあるのか。

それを知りたくないか。

気が付いたときには本をレジに差し出していた。400円である。この値段も絶妙であった。500円ならたぶん止めていただろう。400円、諦められる値段である。

M君に『魔術の花1』という本の収録作がいかにつまらないかを愚痴りながら駅まで戻る。

「読んだ限りではね、この二篇にはアイデアのおもしろさがなくて文体の魅力がなくて、笑える箇所が一つもなくて、プロットの創意工夫がなくて、オリジナルの表現がないんだ。つまり僕が短篇に求めるものが何ひとつないんだよ。逆に、憤慨したくなる要素ならいっぱいあるのに。これ、本当に同人誌じゃないんだろうか」

「自費出版、なんでしょうか」

「自費出版の帯に永六輔や谷内六郎や安野光雅の名前を出したら詐欺もいいところじゃないか」

そのことを忘れていた。たぶん帯に名前の挙がっている人たちは、話の特集と縁があるのだろう。それで頼まれたのだ。しかし名前を使わせてくれと言われたとき、中を読んでみなかったのだろうか。こんなつまらないものに僕の名前を使ってもらっちゃ困るよキミとかなんとか。

「たぶん読まずに承諾したんだろうけど。そのせいで買っちゃう人間がいたらどうしようとか、思わなったのかサトウサンペイ。恨むよ」

別府駅から終点に着くまでの間に、あと一篇読んでみた。野々村奇風「おそるべき結末」という話だ。

「どうですか」とM君。

「うん。アイデアのおもしろさがなくて文体の魅力がなくて、笑える箇所が一つもなくて、プロットの創意工夫がなくて、オリジナルの表現がないね」

「さっきと同じですね」

「まったく同じだ」

気が付いたのだが、さっき読んだ二篇も「おそるべき結末」も、途中まではある程度勢いよく話が続くのだが、三分の二を過ぎるあたりでガス欠気味になり、最後はまるで投げ出すように終わる。ここまで書いておけばあとはどうにかなるでしょ、とでもいわんばかりに。

作者が違うのに構成力欠如の仕方がまったく同じというのは、偶然とは思えない。それにアンソロジーだとしたら、少しは作品配置というものを考えるはずである。読者にちょっとでも配慮したら。

いや。

配慮なんかしていないのだろう。

「M君。どう考えてもこの短篇を書いた十人の作者は同一人物だよ。でなければ、ものすごく下手な小説講座に通っていて、致命的な癖を講師に刷り込まれてしまったか、どっちかだ。まったく違う書き手がここまで同じように下手になることはありえない」

「同一人物なんでしょうねえ」

なんでそんなものを買うんですか、という顔でM君はつぶやいた。

同一人物でした。

やはり鼎書店の広瀬隆というのはあの広瀬隆のことで、本書は彼が一人で書いたものらしい。らしい、というのは広瀬隆のウィキペディアを参照して今書いたからで、『魔術の花1』の短篇群は集英社文庫『不完全犯罪』に再録されているとの記述もあった。

つまり『不完全犯罪』を入手すれば確かめることは可能なのだが、どうにも気が向かないのである。だって気が向かないでしょう。住んでいる自治体の図書館に収蔵がないことは確認済である。Amazonのマーケットプレイスなら安価に入手することが可能なのだが、どうにも食指が動かない。

つまらないだろうから、というのも一因なのだが、作者に対する憤りの気持ちもある。アンソロジーと思わせておいて一人の作品集だというのはちょっとどうなのか。なによりも、本とは無関係な人の名前を帯に書いてしまう遣り口はいくらなんでも不誠実だろうと思うのである。いや、それでも手に取った本がおもしろかったら何も言わないのだけど。

そんなわけで『魔術の花1』は机の横にある。今、この原稿を書くために書棚から持ってきたのだ。また戻しに行かなければいけないのだが、はっきり言って億劫である。この本が書棚に入っているという事実が私を憂鬱にさせるからだ。

魔術のように消え失せてもらえないものだろうか。

帯の表4。いや、眠れない夜に読んだら怒りで目が冴えるし、旅のカバンになんて絶対に入れるものか。

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