私が好きな喜劇人の評伝にポール・ジンマーマン『マルクス兄弟のおかしな世界』(中原弓彦・永井淳訳/晶文社)という本がある。
マルクス兄弟は1930年代から40年代にかけて活動した喜劇映画俳優で、長男チコは無学なイタリア人、次男ハーポは一切言葉を発しない不思議な男、三男グルーチョはでたらめな言動で相手を煙に巻くイカサマ師という役割を演じ、好評を博した。
彼らはもともと舞台(バーレスクショー)に出ていたが、そのころは四男のガモもメンバーだった。ガモが兵役で外れたため、五男のゼッポが加盟し、兄弟は映画に出演することになる。だから初期の五本の作品でマルクスは四人兄弟である。
このゼッポは、強烈な個性を持つ上三人と比べれば特徴の乏しい役者だった。自身の限界を悟ったのか、五番目の「我輩はカモである」の撮影後に自ら俳優業の幕引きを決意する。そのときグルーチョに出したという手紙の文面がまことに切実で、いいのである。
「ぼくはもう引き立て役にうんざりした。ぼくがやっている程度のことならだれだってうまくやることを兄貴も知っているだろう……」
それに対してグルーチョは、こういう返事を出した。
「これから先われわれ三人のあいだではいろいろ面倒なことが持ちあがるだろう。とくに寝台車で寝るときが厄介だ。いままでは二人に一段ずつ、仲よくベッドを分けることができた。これからは三人だから、どう割りふっても恨みっこなしというわけにはいかない」
ジンマーマンはゼッポの手紙を指して「率直な自己評価のまれにみる記録」と評している。同感だ。時として才能は残酷である。特にそれが芸人のように人前で自分をさらけ出して見せる稼業の場合、才能の質の違いは「人気」という計量可能な単位で如実に現れてしまう。コンビもしくはトリオの「おもしろいほう」「おもしろくないほう」という認識は観客の間に厳然として存在するのだ。日本の芸能史には詳しくないが、エンタツ・アチャコのように頂点を極めた漫才コンビが解散し、それぞれが別の相方と組んで再出発するような場合は、だいたいがこの「人気」の差が原因のはずである。
そこでビートきよし『相方 ビートたけしとの幸福』(東邦出版)だ。30代以上の読者にはもはや必要の説明さえない漫才コンビ・ツービートの「おもしろくないほう」(失礼!)として一般に認識されているであろう著者による半自伝である。
副題から判るように、文中には相方たけしに対する記述が満載されている。というより、1980年代の自身の成功を語る上で、ビートたけしの存在を落とすわけにはいかないのだ。となれば読者の関心は一点に絞られる。「おもしろくないほう」は「おもしろいほう」をどう語るか。
妬むか?
媚びるか?
それとも歴史を上書きしようとするか。
結論から言えば著者は、そのどの道もとらなかった。ゼッポ・マルクスのように、自身でおのれのありのままの姿をとらえ、それを素直に表明することを選んだのである。彼我の立場についての判断は的確であり、また自己評価にはまったく粉飾がなくて好ましい。
[……]だけど別にツービートでなくても出世していただろう人だからね、相方は。
もちろん僕は感謝している。やはり相方と組んだおかげで世に出られたわけだから。僕がこの世界に相方を引っ張り込んだって言いかたをされることもあるけれど、普通の連中とは違うものを感じていたからこそ、僕のほうが相方に惹かれたというのもあるしね。
ツービートという漫才コンビの歴史については、これまで曖昧な形で語られることが多かったように思う。浅草芸人・深見千三郎が二人にとっての師匠であることは有名だが、松鶴家千代若・千代菊の弟子だった時期があると書かれたものも読んだことがあるし、コロムビア・ライトも師匠筋にあたる、という話を以前に聞いた。そのへんの事情が今回の本ですべて解明された形である。ストリップ劇場から寄席出演を果たし、そこで見込まれた者がテレビに出て花形スターになるという出世コースが存在していたころの芸人の生き方の見本が本書には紹介されているのである。
時代の空気感を落とさずにこうした芸人事情を書くのは実に難しい。色川武大『寄席放浪記』(河出文庫)、澤田隆治『決定版 日本コメディアン史』(ちくま文庫)のような本が、MANZAIブーム前夜の芸人についても書かれるべきだと思うが、将来そうした本が企画されるとしたら、本書はかっこうの資料になるだろう。
また、漫才コンビのボケとツッコミという役割分担についても、当事者ならではの的を射た分析が行われている。「僕は、ツッコミの役割を、ボケを動かして手綱を締めたり緩めたりして伸ばしていくことだと考えて、その役割に徹した」「相方は弾丸な高速の喋くりをやっていたから、そこに言葉を重ならせずに端的にツッコミを入れるとなると、「よしなさい」「やめなさい」「いい加減にしなさい」しかなかった」というような芸談が実に楽しい。
コンビ結成後のエピソードとしては、売れることに意欲を燃やしていたのがきよしの方で、たけしは荒れて出番をすっぽかすなどの乱暴な行為を続けていた、という事実が明らかにされているのがおもしろい。そんな相方にきよしは理解を示し、尻ぬぐいをし続けていたのである。そのころのことを振り返った記述が、また的確である。これは至近距離で北野武という人のみに書くことが許される文章だ。
そんなふうに、仕事先でトラブルを起こしてばかりいた相方。当時は、仕事、人生や生きかた、そして世間――きっとそんなものたちが嫌で嫌でしかたがなかったんだと思う。[……]きっと自分が落ちこぼれていて、こんなくだらない人生を歩んでいていいのかな、お笑いなんて辞めてなにか違うことをやらなければいけないんじゃないかなっていう思いを、胸の中でくすぶらせていたんだろう。[……]
こうした鬱屈についての理解があるからこそ、後の光輝く「世界のキタノ」への冷静な評価が成立するのだ。相方についての記述には一切ブレが存在せず、「ビートきよしがビートたけしを語る」という姿勢が貫かれている。その統一性が本書を読んでここちよく感じる最大の理由だ。相手がどんな存在になろうと接し方は変えず、同じようにつきあい続ける。そうした大人の友人関係の素晴らしさを本書から読み取る人もいるだろう。
これもよく知られているように、漫才コンビとしてのツービートは現在でも解散していない。あくまで二人はツービートというコンビなのであり、外部からは見えない紐帯がそこには存在する。ここまで書かずにきたが、本書のもう一つの美点は、叙述のあちこちに兼子きよしと北野武の生の関係性が仄見える瞬間があることで、二人がツービートとして臨んだ最後の営業旅行のエピソードなどは、しみじみとした感動を誘う。どの読者も冒頭に掲載されているビートたけしの「発刊に寄せて」に最初は目を通すだろう。ぜひ、本文を通読した後で最初に戻り、もう一度同じ文章を読んでみてほしい。読了前とは違った感慨がこみあげてくるはずだ。
そしてその後、帯の推薦文にも目を通すべきなのである。そこにはこう書かれている。
「また金に困りやがったな。こんな本出しやがって。あることないこと、好き勝手に書いてんじゃねえ」(笑)――ビートたけし
ああ、芸人だ。
このパッケージデザインを含めて、『相方』は読むべき味のある良書なのである。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。