すごいぞ、立川志らくの狂気がどんどん進行しているぞ!
会ったこともない人をつかまえて失礼千万なことを言っているわけだが、でもすごいのである、志らく。ちょっと目が離せないことになっている。
立川志らくが落語立川流家元・立川談志に入門したのは1985年のことである。当時は日本大学芸術学部に在籍し、落語研究会で活動していた。部の先輩である高田文夫に才能を見出され「お前落語家になっちゃえ!」「ええ、そのつもりです」というやりとりがあったとかで、高田自身立川藤志楼(有名人専用のBコース)として弟子になっていた談志門下に入った。談志には卒業を勧められたが、大学は中退。敬愛する先代・金原亭馬生の名を、指導教授が「きんばらていまう」と呼んだことに腹を立てたのが直接の原因であるという。「まう」はないわな、「まう」は。
そのころ談志はすでに落語協会を脱退し、独自に落語立川流を設立していた。協会を出田からには寄席には出られない。ホール落語などが主たる活動の場所である。
問題は弟子の処遇で、寄席に出ているときならばそこで修業をさせておけばいいが、それができない。やむなく自宅で身の回りの世話をさせていたが、あまりに人数が多く、気の利かない若い者が周囲でうろうろすることに談志の堪忍袋の緒が切れた。全員島送り、ではなくて魚河岸に送られて働かされることになる。一門の一番弟子・桂文字助を可愛がってくださる旦那が築地にいたので、その縁である。先輩格の立川文都(故人)や立川談春などは河岸修業の経験者だが、志らくはそれを免れた。もちろん「行け」とはいわれたのだが「嫌です」と言い返したのである。「じゃあクビだ」と談志に言われ「それも嫌です」とさらに言い返した。「嫌なのか……じゃあ、ここにいろ」と談志がバカ負けして免除になったというわけだ。このへんのくだりは志らくの自伝的エッセイ『雨ン中の、らくだ』(太田出版)などに詳しく書いてあるから読んでね。「なんだよ、嫌って言やあよかったのかよ」と後で兄弟子の談春がぼやいた……という話は談春の『赤めだか』(新潮社)に書いてあります。
志らくは1988年に前座を卒業し、二つ目に昇進を果たした。そのころ深夜番組の「平成名TV ヨタロー」に兄弟子の談春、朝寝坊のらく(廃業)と組んで出演し、「立川ボーイズ」として売れに売れた。ちなみにこの番組、他には春風亭昇太、橘家文左衛門(現・橘家文蔵)、五明楼玉の輔などの現在の人気落語家が出演していたほか、コントの審査員に元じゃがたらのOTO、SM小説家の団鬼六、なぎら健壱他の豪華メンバーが揃えられていた。DVD化したらいいのに。団鬼六が昇太を見て「君は戦前に活躍した杉狂児という俳優に似ているね」と言った場面を私は覚えている(たしかに似ている)。それはともかく「立川ボーイズ」時代の志らくは10代の女性ファンにキャーキャー言われ、まるでアイドルのような人気があった。騒ぐばかりでまるで落語を聞こうとしない女性ファンに嫌気がさし、志らくは「立川ボーイズ」の活動から足を洗ってしまう。談志がメインの「落語のピン」に出演して落語家としての腕前も評価されるきっかけを作り、1995年に兄弟子の談春をさしおいて真打に昇進。先を越された談春はシャレで昇進パーティーの司会を自らつとめることになって……というあたりのくだりも『雨ン中の、らくだ』『赤めだか』に、ってもういいかそれは。
志らくが立川流で特異だったのは、師・談志の価値観を絶対と考え、そこに沿うことがイコール修業であると定義した点である。談志は演歌ブーム以前の昭和歌謡が好きで、それを好むことを弟子にも奨励した。もちろん歌の好みは人それぞれだから、師匠がそうだからといって弟子がみんな懐メロファンになるはずがない。志らくは父がクラシックギター奏者、母が長唄の師匠という音楽家の家系に生まれ、弟子入りまで懐メロを聞いたことがなかった。だが師が好むものには何かがあるはずだと考え、むしろ前向きに懐メロファンになろうとするのである。弟子・立川志ら乃との対談で、こう言っている。
志ら乃 そこで、なぜあえて懐メロということになるんでしょうか?
志らく それはわかりやすいからだよ。言葉が入ってきやすいんですよ。本当は、音楽だったらなんでもいい。[……]だけど、英語になると、ちょっと言葉が入ってこない。サザンオールスターズだってメロディはいいんだけど、ちょっと歌詞が聞き取れない。あの人たちは、英語っぽく日本語を発音するでしょ。「ワタスィワ~」って。{……}とにかく昭和歌謡にはいろいろなリズムやメロディがある。そこに試行錯誤して三味線調の音楽を入れて、さらに言葉が乗ってくる。音に言葉を乗せるという部分で、落語とリンクしてくるんです。だから立川談志は、ただ自分の趣味だけで「懐メロを聴かなきゃダメだ」と言っていたわけではない。ちゃんと落語に返ってくるものなんです。(『談志亡き後の真打ち』)
ここで大事なのは「談志がそう言った」ではなくて「談志はそう言うはずだ」という形で師の考えを志らくが理解しようとしていることである。聞いて答えてもらうのではなく、自らが談志そのものになることによって、師の芸の系統、そして人間性を自分の中に取り入れようとする。そういう手法が、志らくの芸修業なのだった。
志らくは談志に「おまえは俺に似ているからいつか狂うだろう」という意味のことを言われたことがあるという。
立川談志は自身に才能が備わっていることを知っていた。それは次第に成長し、ついには自分自身の手にさえおえないほどに巨大化してしまう。談志は自分の身体を破壊せんばかりに大きくなった才能の塊を、なんとか文明人の理解できる範疇に落とし込もうとして悪戦苦闘していたのである。言葉にしなければ他人には伝わらない。しかし言葉にした途端にそれは原型を失ってしまう。そのもどかしさがしばしば他人には理解しがたいような言動の形をとった。
円熟期以降の談志は「イリュージョン落語」を唱え、言葉にしきれない「ナンダカワカラナイ」ものを落語で表現することに挑戦していた。それはかなり無理のある芸当のように、私には見える。だって落語は大衆芸能なのだもの。最大公約数で誰でも理解できるものが大衆芸能では喜ばれる。そういう場に出ていって、自分の中にある言語化が困難なものを観客にぶつけていく。そこで何人の人間が談志の中にあるマグマのようなものを理解できるのか、という話だ。
本来とても性格が優しく、人に親切にすることを好んだ談志は、口では客の理解の悪さを揶揄しながらも、実際に演じる芸では「わからせる」ことを意識して高座を務めていたように思う。理想と現実の差に対する苛立ちがいつもその中にはあったはずだ。だからこそ、いつか芸に殺される、芸に狂わされると思っていたのではないか。自分に才能があることは幸運であったが、不幸なことでもあると考えていたのではないか。
おそらく同じ姿を談志は志らくの中にも見たのだ。だから「おまえはいつか狂う」となる。
さて、その談志が死んでしまった。残された志らくは談志が見ていた理想を実現しようと考えているはずである。その理想とはつまり、談志が最後まで「文明化」すべくもがいていたものを、自分の手で引き継いでいくことである。それは原初の形の芸術衝動なのだと私は思う。ゼロでもあり無限でもある芸術衝動に形を与えようとすれば、それは永久に達成不可能である(だって無限なんだもの)。その限界を乗り越えるためにはつまり「狂う」しかない。狂って、奇跡の瞬間を呼び寄せるしかないだろう。
志らくはおそらく上記のようなことを考えたのである。そして(ここからが異常で、同時になんとも微笑ましいことなのだが)師匠・談志を我が身に宿らせて、落語をやり続けるのだと決めてしまった。
『談志のことば』(2012年3月。徳間書店)は、談志に自分が言われた、もしくは言っているのを聞いたことばを集めて師匠をしのぶという主旨の本である。
多くの弟子たちが最後に師匠からかけられた言葉は「オマンコ」だったという。すでにそのときは喉を切開して言葉がでなくなっていたので、筆談である。弟子たちの集まる席に出て行き、その言葉を書き残して去っていったのだ。
志らくは仕事のため、その場にいなかった。よって後日病室に見舞いに出かけ、自分だけの最後の面会を果たした。そのとき部屋を退出しようとして、談志が何かを言いたがっていると感じた。その表情を見て志らくが「ああ、電気消せ、ですか」と聞くと、談志は頷いたのだという。無言の言で伝えた「電気消せ」が談志から志らくへの最後の言葉になった。志らくはこう書いている。
入門した当初は師匠がなにを自分に求めているかわからなかった。[……]「色紙に絵を描くから赤の色鉛筆を持って来い」と言われ、世間でいうところの色鉛筆を持っていったら「ちがうよ。色鉛筆というのは油性の細いマジックペンのことだ。お前の持ってきたこれは、クレヨンと言うんだ」。わけがわからない。でもそんな出来の悪かった弟子が、最後の最後に師匠が言おうとしたことがわかった。
このように多くの「談志のことば」が綴られた本なのだが、その中に談志を自らの身体に宿らせることについての一文がある。
師匠、どうぞ私の身体に降りて落語をやってください。やり残した落語をやってください。私に降りてくれたらイリュージョン落語をまだまだ追求できますよ。のべつ懐メロも聴けるし歌えるし。映画も見られますよ。[……]そんな話を高座でしていたら、あるインタビュアーが、「現在、談志師匠はこの世の中を見てなんとおっしゃってますか?」だった。私はイタコじゃないよ! 身体に入ったと勝手に決めただけ。
『談志のことば』に続き、志らくは2012年6月に『談志・志らくの架空対談 談志降臨!?』(講談社)という本を出した。いっとき談志を甦ってもらい、弟子としてさまざまな芸談、趣味の話を聞こうという趣向の一冊である。これはアマゾンのカスタマーレビューで批判されていて「死人に口無しだからって、何をしても良いのかしら」「ビジネスなので談志死去という特需に乗っかろうとする出版社のやり方をすべて否定するつもりはありません。ですが、この本はいくらなんでもひどすぎます」などとさんざんなのだが、まあ、野暮なことを言うなよ。志らくの中には談志がいるんだからしかたないんです。こんなやりとりで二人の対談は始まる。
志らく 「師匠、お久しぶりです。どうですか極楽の住み心地は」
談志 「極楽じゃないよ、地獄だよ」
志らく 「地獄に落ちたんですか」
談志 「芸人だとか芸術家はほとんど地獄だね。手塚(治虫)先生もいたぞ。もちろん色川(武大)先生もな。ジミー時田が針の山の前でカントリーを歌ってやがった。鬼どもも聞き惚れていたぞ。アスティアが血の池地獄の前でタップを踏んでいた。池に浸けられていたジーン・ケリーがたまらなくなって、池から飛び出してきて二人で踊りだしたんだ」
なにその「お血脈」。楽しそうだから高座で話してもらいたいね。
死人で稼ぐ商売などと悪口を言わずに読むと、志らくが談志に教えてもらったエッセンスを読者にも分けてくれる本という内容なのですこぶる興味深い。おそらくあれだよ、「師のたまわく」なんて調子で話すのが、志らくは恥ずかしかったんじゃないのかな。
さすがにこれでおしまいかと思っていたら、さらにもう追悼本が出た。『DNA対談談志の基準』(2012年9月。亜紀書房)である。談志の芸の遺伝子を継承したと自認する志らくと、談志の娘であり文字通り本名松岡克由の遺伝子を受け継いでいる松岡弓子の対談本である。松岡は父の看病記『ザッツ・ア・プレンティー』(亜紀書房)も2011年12月に刊行した。
娘が父の「芝浜」を「あまり好きじゃない」と否定したり、落語立川流の現状を志らくが「カッコ悪い」と批判したり、読みどころの多い本なのだが、この中にも志らくが談志の「進化」について語った個所がある。
志らく 「(六十代以降の談志を批判する人がいるという話で)三十代から四十代前半の談志のほうが迫力があってよかったのに、なんでこんなになっちゃったの」と言う。弟子が「師匠の『芝浜』は情景描写ができていない」と言うのを聞いたこともあります。「昔の師匠が『芝浜』をやると、魚屋の家の中にどういうお膳があって、どんな襖があって……と情景が見えたのに、最近の師匠にはそれが見えないね」と。私は直接に文句は言わなかったけど、内心で「それはまったく違う」と。ほかの芸能や芸術を考えてみればわかるはずです。天才には進化がある。ピカソは、若いころはきれいな絵を描いていたのに、それがぐちゃぐちゃになっていく。でもそれを世界中がその天才の「進化」として、よしとするわけです[……]それについていけないのは、映画とか演劇とか音楽とか絵画とか、世の中のことに何も興味がなくて、落語だけやって生きてきた落語家。それと、昔からの落語だけを聞いている客だということです。[……]」
この本とほぼ同時に、弟子の立川志ら乃が『談志亡き後の真打ち』(2012年9月。宝島社)を出した。そこにも志らくは師弟対談の形で参加している。
前述の対談の中で60代以降の立川談志落語を否定している弟子の話が出ているが、立川流を除名になった快楽亭ブラック、兄弟子の立川談之助はそれぞれ著書『立川談志の正体』(2012年1月。彩流社)、『立川流騒動記』(2012年6月。メディア・パル)の中で、立川流創設以降の談志は退化したという主旨の発言をし、また上納金をとるなどの姿勢を批判している。それに対して志らくは、わかっていないと反論しているのである。この対談にもそういう言及がある。
志らく [……]だって家元が「志らくはわかっている。志らくは俺と同じ」「俺と近い価値観を持っている」と書き残していますから、もちろん自慢話ではないよ。だから、私のことを勘違いというのなら、それは談志を否定することにつながる。頭の悪い人は、そこに気づかないんですよね。ただ、側にいても立川談志を理解できない人、本質を見抜けない人もいる。快楽亭ブラックさんなんかは、常に(家元が)恐怖の対象だったんでしょうね。家元のことを「金に汚い、怖い人」みたいに書いてますが、本当にあんなに可愛らしくて優しいおじさんはいませんよ[……]。
おそらく志らくは今後、自身に立川談志の魂を宿らせて、わが道こそは師の歩んできた道という信念を貫いていくだろう。その過程では、自身を否定する立川流の兄弟子と衝突することもあるのではないか。中心軸を失い合議制で進められる立川流の姿が、私には力道山の早世によってトロイカ体制での運営を余儀なくされた旧日本プロレスに重なって見える。志らくがそこから飛び出して「新落語立川流」を作らなければならないような事態が起きなければいいのだが。そうなったらきっと志の輔が「全落語立川流」を作るだろうな。談春はどっちにつくんだ。大木金太郎になる途をとるのかそれとも坂口征二か。談笑が藤波辰巳なのか、下手したら藤波本人より談笑のほうが背は高いんじゃないか……などと考え出すときりがないのでこのへんで終わります。志らくの狂気が少し伝染ったみたいだ。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。