「とんでもねえこと書きやがって、てめえなんざクビだ失せろとっとと出てけこの大バカヤロー」
突然の罵声である。その日、立川談四楼の自宅の電話に、こんな一方的な留守録が入った。たまたま別の階にいて受話器を取れなかった談四楼は慌てて折り返しの電話を入れる。怒声の主が、師である立川談志だったからだ。
おそるおそる話しかけてみると、たちまち相手の声は怒りの奔流に変わる。
「てめえ談春の本を褒めやがったろ。でたらめばかり書きやがってよくもオレの名誉を目茶苦茶にしてくれたな。おまえは要らねえ出てけクビだ破門だとっとと失せろ。侘びに来たって許さねえから早く出てけってんだ」
取りつくしまがない。動転した談四楼はその日主任を務めるはずだった昼席を休み、談志の元へと駆けつける。しかしMXテレビの楽屋で捕まえた談志は通話のままの怒りを持続させており談四楼の詫びに耳を貸そうともしなかった。クビ確定だ。談四楼は絶望に打ちひしがれながらその場をあとにする――。
立川談四楼の新作小説『談志が死んだ』(新潮社)の一幕である。立川談四楼は1951年生まれ。1970年に立川談志に入門し、寸志の名で前座になった。その後二つ目に昇進して現在の名前に改める。希望した名前「小談志」が兄弟子にとられていたため談志郎という名を考えたが、忠告してくれる人があって談四楼に改めた。独立した一つの名前であり、談志の名跡の起源でもある談州楼燕枝にもつながるからだ。
その後1983年に談四楼と兄弟子の小談志は心ならずもある騒動の火付け役になってしまう。落語協会が二つ目に課していた真打昇進試験に2人が臨み、共に不合格にされたからだ。この一件にはそもそも因縁があったのだが、長くなるのでここでは省略する。大事なのは2人が「談志の弟子だから」という理由で不合格にされた上、落語協会の幹部たちはその不公平さな理由に悪びれることなく開き直ったということだ(昇進試験は後にその不公平さが外部からの批判を呼び、廃止されることになる。また別の話である)。立川談志は激怒し、協会から飛び出ることを決意した。落語立川流誕生の瞬間である。談四楼と小談志は、落語立川流設立の直接の原因を作ったことになる。
そして談四楼自身はこの事件から1つの行動を起こす。自身が体験した真打昇進試験の顛末を「屈折十三年」という短編にし、作家としてデビューを果たしたのだ。落語として伝統芸能を担っているという事実は尊いが、それだけで喰わせてくれるほど世間は優しくない。芸人なのだから、売れなければいけないのだ。談四楼は談志の付き人としてさまざまな流行小説家に知己を得、そのことから小説の世界に耽溺するようになっていた。自身のその嗜好を活かそうと考えたのである。「落語もできる小説家」が、立川談四楼ならではのキャッチコピーとなった。初めての著書が出るまでは苦労したが、「屈折十三年」を含む自伝的小説『シャレのち曇り』を1990年に上梓した。以降も落語家の師弟関係を描いた『師匠!』、プロボクサーと二足のわらじで奮闘する落語家を描いた『ファイティング寿限無』などの作品を世に送り出している。
もう一度書くが『談志が死んだ』は立川談四楼の「新作小説」である。『シャレのち曇り』を既読の人なら、『談志が死んだ』にデビュー作と同じ構造が備わっていることに気がつくはずである。
自分自身を主人公とすることによって読者の注目度を上げる。しかし、同時にそのことで虚実の皮膜を曖昧にし、文中で書かれた出来事がすべて事実とは限らないという判断保留の道筋をあらかじめ設けておく。その曖昧さがなぜ必要なのかといえば、2つの作品がともに立川談四楼自身の負の感情をバネとして浮上するために書かれているからである。
『シャレのち曇り』でいえば、芸人として売れないことの鬱屈、立川流の落語協会脱退を招いてしまったという引け目、師・立川談志の期待に応えられないもどかしさ。そうしたものをまとめて地べたに叩きつけ、跳ね上がるために書かれた小説なのである。
では、『談志が死んだ』の「バネ」とは何か。
その答えが、冒頭に引用した電話の会話に隠されている。
談志が激怒した理由は談四楼が書いた立川談春『赤めだか』の書評だった。談春は談四楼の弟弟子である。『赤めだか』は自伝的作品で、のちに第24回講談社エッセイ賞も獲得した傑作だ。媒体に連載を持っていた談四楼は身贔屓と批判されることを覚悟で書評を発表した。当然である。『赤めだか』はどこをとっても非の打ち所のない、完璧なエンターテインメントなのだから。しかしそれに談志は激怒したのである。
怒りを買った理由は2説ある。
1つは、『赤めだか』の本文中で談春が「談志は弟子にレストランの爪楊枝を盗ませる」などのセコいエピソードを披露しており、そのことが「名誉を目茶苦茶にし」たと見なされたというもの。しかしこれはどうでもいいような話であり、談志のその手の話は枚挙に暇がない。それをいえば『談志が死んだ 立川流は誰が継ぐ』(2003年に刊行された談志の弟子たちによる対談本)で披露されている「談志が飛行機の非常用救命具を盗ませた(海でライフジャケットとして使うためである)」という話のほうがモノがモノだけにシャレにならないのではないか。しかし談志がこの本に対して激怒としたという話は聞いたことがない。
もう1つは、その書評の文中で談四楼がセコなシャレを書いたというものである。落語のフレーズにある、どうでもいいような言い回しを使って書評を書いたのだとか。私は実際にその書評を読めていないのでなんとも言えないが、これまたどうでもいいような話であろう。天下の立川談志がそんなことで弟子を破門にするほど怒るのか、本当か。
談四楼を破門するという話は、いつの間にか一門解散という大きなことになっていた。このままいけば、自分の不始末(自覚はないが)で一門解散である。立川流ができたのは自分が真打試験に落ちたのが直接の原因だが、今度は自分のせいでそれが無くなることになってしまう。自責の念に駆られ追いつめられた談四楼の口から出たのは意外な一言だった。
上等じゃねえか。
何だと、追って沙汰をするだと? ケッ、あんたは越前守(おおかさま)か。
開き直りの瞬間だ。理不尽な怒りを買ってしまったことによる戸惑い、恐怖、慙愧の念。それらをまとめて地べたに叩きつけた瞬間である。いい啖呵だ。これが江戸っ子の了見ってものだろう。談四楼は群馬の産だが、心は江戸っ子なのである。落語家だから。
困ったときにいつも相談に乗ってくれる人物である神山社長も談四楼の言い分の正しさを認め、逆に弟子を連れて一門を飛び出ろと焚きつけてきた。事態を一般企業に、談志を創業社長の現会長に喩えてこんな話をしたのである。
[……]朝礼の時にこの会長があんたを怒鳴り飛ばしたんだ。〔……〕ただ怒鳴っただけだからあんたも他の社員もわけがわからない。そう、この会長、説明責任をまったく果たしてねえんだ。こんな会社がフッ飛ぶのはあたりまえだろ。
もちろん芸人の世界は一般企業とは違うが、世間の常識は談四楼のほうを支持するはずだ。神山社長の言葉で吹っ切れ、肚を括る。しかし覚悟を決めた談四楼を迎えたのは、またもや談志の意外すぎる一言だった。
『シャレのち曇り』と『談志が死んだ』は前述したように対をなす、姉妹篇ともいえる作品である。さらに言えば『シャレのち曇り』は談志の壮年期、上り坂のころのものであるのに対し、『談志が死んだ』は晩年、はっきりと言えば衰退期を描いているという違いがある。師の老いと衰えを知った弟子の哀しみがはっきりと作品に現れている。談志という巨大な存在に関心を持つ人はこの小説の主題を「老境の談志」と受け止めるだろう。談四楼という主人公の物語として読むならば、彼の鬱屈と情念の爆発を描いた小説である。それが表裏一体となるように作者は企図している。どちらも切り離すことのできない作品の重要な構成要素だ。
小説後半で談四楼が気づく「談志の衰え」の正体については、実際に読む人の楽しみを奪わないようにここでは書かないでおく。これは小説であってノンフィクションではないからその真偽を問うことも止めておこう。立川談四楼は小説家なのだから、虚実の皮膜をそのままにすることは許されて然るべきである。ただ、談志のファンにとってはショックなことも書かれているとだけは明かしておく。本を購う人のためのエチケットである。
書かなければならないことは、『赤めだか』(とその書評)に対してなぜ談志が怒ったのか、ということの私なりの推理だろうと思う。私はそれを談志の嫉妬だと考えている。本書の記述によれば、談志は『赤めだか』が出た当初から本に対しては否定的で、不機嫌だったという。談四楼はその気分の捌け口にされた面があると思われる。
談志は自著で『赤めだか』をまったく褒めていない。文体は師である自分の借り物であり、二番煎じだとけなしている(師匠の価値観に同化している志らくも、著書で同じことを書いている。読めばわかる、あれは真似だと。文字通り「どうか」している。志らくのそういうところを私は嫌いだ)。
目が曇っているか、節穴であるかのどちらかだろう。談春の『赤めだか』はすばらしく、物語の書き手として一本立ちするだけの個性を備えた文体が確立されている。読者を物語の奥へと運んでいくだけの膂力があり、心地よくもてなす余裕もある。なるほどフリガナの使い方など談志の文章に似ている部分もあるが、すべて枝葉末節のことばかりである。物語にもっとも必要な幹の部分。すなわち文章を読むことでしか味わえない個性は完全に談春のものである。エッセイ賞を受賞してはいるが、その文体は「小説」のものということもできる。小説というのは、そのくらい幅広いものだからだ。書評そのものを読んだわけではないが、談四楼は『赤めだか』がそういう作品であり、談春に豊かな資質が備わっているということを察知したのだろう。だからこそ身内褒めとそしられる危険を侵して書評を発表したのだ。本当は言いたかったのではないかと思われる。「談春には、自分と同じ『落語もできる小説家』の素質がある」と。
談志はそれを妬んだのである。談志には『談志受け咄』という著書がある。本の帯には「落語の天才立川談志が小説界に初挑戦!!」とある。私は小説という文芸を広く考えたいと思っているので「これは小説ではない」というような評価をしたくはない。だが、小説として見た場合、これはそれほど巧くはない作品である。三一書房がつけた帯のコピーは贔屓の引き倒しもいいところで、おとなしく「芸界交流記」とでも言っておけばよかったように思う。談志に小説の才能はなかったのだ。
『談志が死んだ』の作中にこんなくだりがある。談四楼が小説家デビューをしてしばらく経ったころ、「談志が談四楼に刺激を受けて小説を書いている」という話が伝わってくる。やがて、楽屋で会った談志は談四楼に自分の小説の出だし部分を語り、こう言うのである。
次が書けねえんだ。(出だしで)いきなり結論を書いちまったってことだろうな、続かねえんだ。こうこうこうだからこう。それが小説ってもんだろ。オレの場合、キレ過ぎていきなり本質に行っちゃっうんだな。つまり向いてないというこった。小説はおまえに任せる[……]。
自分で自分のことを「キレ過ぎる」というのがいかにも談志らしいが、つまり小説の速度でものを考えることができなかったということなのだろう。談志は高座仕様の思考の持ち主だ。それは高座に上がって下りてくるまでのわずかな時間に世界を作って壊してしまえるという稀有な才能である。しかし小説を書くための能力ではない。小説を完成させるためにはもっと長い時間かけて机にしがみつく、長距離走者のような資質が必要になるのだ。
若いころの談志にはそれが自分になくて弟子に備わっていることを認めるだけの余裕があったのだろう。しかし、老境にはそれが失われていた。若き麒麟児が万人に認められるだけの傑作をものにした。そのことを笑って認められるほどには衰えておらず、談志は表現者のままであった。だからこそ『赤めだか』に噛み付き、それを賞賛する者を憎んだのではないか。談四楼を怒りの捌け口に選んだのは、その嫉妬の感情を談春に直接ぶつけることができなかったからである。廉恥の感情が働いたのだ。それゆえ、ねじ曲った形で怒りが噴出した。とんだ側杖を食った談四楼は、自分でも知らない間に、弟弟子を守っていたのである。
本の後半では立川流の現在について「協会脱退前の入門者」からの発言もある。知らなかったが、談志の死後、「ら族」という言葉ができたのだそうだ。追悼報道で「志の輔、談春、志らく(入れば談笑)らの弟子を育て」としばしば紹介された。その3人(4人)以外は「ら」なのだ。屈辱をまたバネにし、いやシャレにして笑いに活かす。そういうしたたかな姿勢が「ら族」という一語にこめられている。ああ、みんな「ら族」だもんな。「ら」で括られたことのない人間はほとんどいないだろう。そういう意味では広い層から共感を集める本だとも言える。
「書評に横槍を入れられる」という事態を描いた本でもあり、個人的には他人事ではないと共感しながら読んだ。書評というジャンルは日本ではまだ脆弱で、書き手が矜持を忘れれば簡単に立場を失ってしまう。それは出版界の人間の多くが、書評を「広告」だと考えているからであり、「あんなものは誰でも書ける」と思っているからだ。本題から逸れるのでここでは詳述を避けるが、同じことを考えている人間は言論界の内部にもいるはずである。まあ、勝手に考えてくれていればいいのだが。
弱々しいものだから、簡単に買収される。いや、金品を供与される必要すらない。長いものに巻かれ続けているだけでいいのである。魂なんてあっという間に売ることができる。書評家がその精神が試されるのは、難事にぶつかったときだろう。自分の書いた文章が誰かから攻撃されたとき、どこまで自身の正しさを主張して戦えるか。
実は本書のいちばんの不満はそこにある。談四楼が師からの難詰を受けたとき、書評子としてはどう闘ったのか。どのような覚悟をもって書評を手がけているのか。そこを実は知りたかったんだよな。いや、それはない物ねだりというものである。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。