芸人本書く列伝classic vol.8 ビートたけし『間抜けの構造』

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間抜けの構造 (新潮新書)

先代・桂文楽には「あばらかべっそん」「べけんや」といった不思議なフレーズがあった。

「あばらかべっそん」とは「あばらかべっそん」である。たとえば文楽の芸の本質とは何か、と聞けば「あばらかべっそんなものだ」と答えられたことだろう。では「あばらかべっそんとは」と食い下がれば「どうにも、べけんやなことで」とくる。

つまりは言葉で表すのが難しいもの、形がなかったり、人それぞれであったり、そもそも定義をしようとしたとたんにその影響で姿を変えてしまうような不確定なものであったりするものを無理矢理表現するための方便で造られた言葉なのだろう。

芸人本を読んでいて驚くのは、ごく稀にその「あばらかべっそん」を自分の言葉で説明してしまえる人がいることだ。それも難しすぎない、ごく平易な語彙だけを使って。

「業の肯定」「イリュージョン」「江戸の風」などの落語論を展開した故・立川談志はその1人だった。いや、イリュージョンはちょっと難しかったかな。だからこそ談志の一部の著書は、異常なアジテーション力を発揮できたのである。『現代落語論』なんて、それを読んだ若者が興奮して、みんな落語家になっちゃったぐらいだ。

ビートたけし『間抜けの構造』(新潮新書)も、そのたぐいの本である。

これは世の中の技芸全般を「間」というものに着目して解説した本だ。間は「空間」であり「間合い」であり人によっては「魔」と感じられるものであり、どうにも捕まえにくい概念だ。ごく普通の言葉を使えば、何かと何かの関係についての言葉ということになるだろうか。場や空気のことを指すこともあるから、人がそこに足を踏み入れたときに必ず影響を受けるものであると言ってもいいだろう。『間抜けの構造』にはこんな風に書かれている。

バカにはつける薬がない――。

よく言われるけど、その通り。間抜けは「“間”が抜けている」ということだけれど、バカには“間”がどうだかは関係ない。バカはどんなタイミングであろうと、どのようなシチュエーションであろうとも関係ない。バカはバカ。もう潔いぐらい。

つまりバカは本質だが、間抜けは関係性だということだ。

第1章では失言政治家をはじめとするさまざまな「間抜け」をとりあげ、間が悪いとはどういうことなのかが具体的に示されている。ただそれはあくまで導入部で、本題が始まるのは次の章からだ。第2章では漫才、第3章では落語といった具合に、それぞれの場における間の性質が語られ、そこでどうすれば間が支配できるのかが例示されていく。たとえば落語の場合、出囃子が鳴って演者が高座に登場したときからすでに事は始まっているのだという。

お辞儀して、頭を下げたときに「ダンダンッ」と出囃子が終わって、そこから頭を上げて、「えー」と始まる。

あれで客を自分の間合いにはめこんじゃう。落語が上手いと言われている人ほど、この一連の動作が決まっているよね。お辞儀がきれいな人に落語が下手な人はいないと思う。

このあとに「間合いをつかんでいる」例として、六代目三遊亭円生のことが書いてある。円生は噺の途中でお茶を飲んだのである。お茶を飲んで、何事もなかったかのようにまた噺を再開した。というよりお茶を「ズズズ」と飲んでいる時間もまた、円生の落語の一部だった。高座から客席に至るまでの空間をすべて自分のものにしていたからできたことだろう。先ほど名前を出した談志も、噺の途中でふとキャラクターではない立川談志その人に戻り、自分の落語についての批評をすることがあった。これなんかも円生のお茶と同じで、間合いをつかんでいる演者だけに許される技芸である。

ビートたけしの本業である漫才の分野ではどうか。

ここでは「会話の運動神経」という重要な考えが出てくる。第2章でおもしろいのは、著者が『漫才』(新潮文庫)を例に引きながらツービート時代の芸を分析し、なぜ相方(ビートきよし)にほとんど喋らせないで自分がボケとツッコミという両方の役をこなすことになっていったかを説明する個所だ。ツッコミは「漫才における司令塔」だから「客の反応を見ながら」喋りのテンポを調節していく役目を担っている。ツービートではきよしがツッコミなのだからその仕事をするべきなのだが、感覚が鋭敏なたけしはボケをこなしながらその役目をも自分でこなすようになっていったのである。もう一つこの章で興味深いのは、たけしが現在の漫才が高速化した理由をツッコミの役割が変化したことに求めて説明している個所だろう。ここは一般の読者よりもむしろ演者である芸人が関心を持つところで、さらりと「速さとおもしろさは正比例しているわけじゃない。速いだけでリズムが単調、なんてこともよくあるから」「テンポが全部同じに聞こえちゃう時がある」なんて書いてある。リズムとは何か、テンポとはなんなのか、という問いがここから生まれてくるはずだ。

しかし、本の読者の中で芸人はごくごく一部だろうから、ここでは一般向けにわかりやすく書かれた部分をもう少し紹介したい。先ほどの「会話の運動神経」について、ではどうすれば会話を調節していけるか、というお話だ。

「何とかが何とかでしょ」「いいかげんにしろ、このやろう!」なんて、テンポの早い漫才をやっている途中で、「あ、これは客の“間”と合っていないな」と感じたら、「おい。ちょっと待て。おまえはさあ、もうちょっと言いようがあるだろう。どうにかなんないのかよ」なんてテンポを落とす。

「そうだろう、おまえ、おかしいじゃない」というのが通常のテンポだしたときに、「だってさあ、おまえみたいな言い方をするのは、どう見たっておかしいじゃない」とやったりね。もちろんその逆もある。

これなどは誰でも実感できる例なのではないか。

私の専門でいえば小説の文章にもこういう技巧は適用できる。たとえばミステリーで謎解きの伏線から読者の眼をそらしたいとき、書き手はどうしたらいいか。

それが伏線であることがわからなくなるよう曖昧な表現で書く、というのは禁じ手だ。それは単に理解しがたい文章を読者の目に触れさせるだけだからである。答えは、伏線であることがわかるように、はっきりと書く。ただしその伏線の周辺では文章のテンポを速めるのである。漢字の量を多くしたり、歯切れのいい文章を意図的に使ったりして、ぽんぽんと読み流すように書いていく。

逆に、アクションの山場で最大に話が盛り上がるときに、登場人物の心情をクローズアップさせるにはどうしたらいいか。流れを一回止めて、登場人物の心に分け入っていく、というのはこれまた下の下策。正解は、心情描写は流れを邪魔しない程度の長さにまとめて、自然な形で埋め込む。ただし、簡単には読み飛ばされないような文章、指示代名詞で固有名詞を言い換えてなかったり、助詞がきちんと使われていて語句の意味が際立っていたりするものを入れていくのである。そうすることによって、読者がページを繰るスピードを変えずに、思い通りの文章を印象づけることができる。これが文章を書くときの「運動神経」である。

特に「漫才」と「落語」の2例に集中して内容を紹介したが、それ以外の部分も非常に示唆的なのでじっくりと読んでみてもらいたい。特に私が感銘を受けたのは「映画」の章だ。今の表現は全般的に「空間恐怖症」のようになっていて、どこかに隙間があるとすぐに埋めてしまう傾向がある。そうした事態に著者が意を唱えている個所は必読である。

この本の特徴として、あちこちに「引き算」の効用が語られているということがある。ずっと足し算で進めていっても、絶対に行き詰る。それまでの正攻法、必勝法が通じなくなったとき、その上にさらにもっとすごいものを重ねて、と無理をするとすさまじいインフレーションを引き起こしてしまう。自分の持っている手駒の価値が相対的に落ちてしまうのだ。そういうときに有効なのが「押してダメなら引いてみな」というアレである。間を支配する、という考え方の中には、そういう「力押しでは不可能な場」に有効なものが多く含まれているように思うのだ。

1984年にビートたけしが出した『たけし吼える!』(飛鳥新社)という本がある。

これは「ビートたけしが有象無象にケンカを売る本」だ。各界を代表する文化人から匿名の芸能記事まで、有名無名のさまざまな人間が自分に対して発言したことをとりあげ、それに反撃を行っている。また、文化人と言われる人たちは何様なのというような上から目線(という言葉は当時なかったと思うが)で物を言うので、いくらでもつっこめるのである。嘘臭い人間や、人をバカにしているくせに自分は隙だらけの態度でいる間抜けをどうやってコケにするか。その方法が懇切丁寧に書かれている本だと言ってもいい。

で、この本の中に「世界まるごとハウマッチ」の話題が出てくる。大橋巨泉が司会で、ビートたけし、石坂浩二がレギュラー出演していたあの番組だ。あるとき、番組に尾上辰之助(先代)がゲスト出演し、ギャグを連発して場を持っていった。そのときたけしは辰之助に付き合わず、あえて存在を殺すことで対抗したのである。「引きの演技」とでも言うべきだが、収録終了後にその判断を巨泉からは絶賛されたという。それが、レギュラー番組での正しい芸の出し方だからだ。ゲストに対抗してわっと騒げばその場は受けるが、必ずしもいいこととは言えない。視聴者に刺激のインフレーションが生じるからだ。

ここ一番、ウケなきゃってときはやるけどね。あとは退いてる。毎週やってりゃいやんなるよ、誰だって。

『間抜けの構造』を読んでこの個所のことを思い出し、ひさしぶりに書棚の奥から引っ張り出して読んだ。そして、著者がそんなころからすでに「間の支配」を意図的に行っていたということに気づき、感銘を受けたのである。

そういう技芸の中核に当たることが、さりげなく明かされた名著である。「間抜け」になりたくなかったら、ちょっと読んだほうがいいですよ。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

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