コンビは別れないものだ。
それは立川談志の持論だった。十代のころから多くの芸人を見てきた談志の経験が言わせたものだろう。田中とは別れるな。まだ駆け出しのころの太田光も、会って間もないころの談志にそう言われたという。
コンビは別れないものだ。
そのことについてあれこれ申し述べられるほど、私は芸人について詳しくない。しかし、そこには友情とか信頼関係とかいった大袈裟なこと以前に、自己評価に関するごく当たり前の真実が含まれているように思う。
今のお前がお前の力だけで売れたお前だとは思うな。
そういうことなのではないか。人は売れれば天狗になり、自分の力を高く見積もるようになる。独力でその地位にいけたのだと思い込み、自分の中にある他人の力を無視するようになる。しかし、それを排除すれば残るのは自分ではなく、その抜け殻になる。
そういえば談志はピンの芸人で誰ともコンビは組まなかったが、私生活では一人の女性と添い遂げた。弟子たちは結婚をするとき、やはり「夫婦は添い遂げるものだ」と教えられたという(にも関わらず一門には離婚経験者が異常に多いのだが)。
たぶん、そういうことだ。
一度別れてしまったコンビの芸人がもう一度組む姿を見ることは珍しいように思う。特に天下を取った後ではそうだ。島田洋七は洋八と再びコンビを組んだそうだが、残念ながらその舞台は見ていない。
松本ハウスは、2009年に復活を果たした。
だからこれは、非常に珍しいことなのである。その背景には、コンビ活動の休止が本人たちの意に反したものだった、という事情がある。すでにあちこちに書かれていることだが、コンビの1人・ハウス加賀谷はもともと心の病を持っており、17歳で芸人の世界に飛び込んだときも服薬治療は継続していた。松本ハウスが全国区の人気を得るのは、テレビ番組「ボキャブラ天国」出演以降のことだが、多忙な生活の中で加賀谷は再び精神の均衡を崩し、ついに1999年には一時廃業に追い込まれてしまう。その間松本キックはピン芸人として、特に名前を変えることもなく活動を続けていた。
加賀谷には10年の空白期間がある。
その間、どこで、何をしていたのか。
そして松本に対しても疑問がある。
空白の10年間をどのような思いで過ごしてきたのか。加賀谷以外の相棒を持つという選択肢は本当になかったのか。
『統合失調症がやってきた』(イースト・プレス→現・幻冬舎こころの文庫)は、その疑問に答える本である。著者は加賀谷と松本の二人で、主になっているのは加賀谷が過去を語る部分だ。そこに松本が加賀谷と過ごした時間の記憶や、自身の芸人になるまでの半生を回想した断章が挿入される形になっている。「あとがき」によれば、加賀谷の談話を松本がまとめた形だそうである。
序章「あの時のこと」に書かれているのは、1999年12月末、事務所を辞める決意を固めた加賀谷と松本の会話だ。
「一年かかっても二年かかってもええ、五年かかっても十年かかってもええ。その時にやりたいと思ったら言うてこいよ。そしたら、また二人で一緒にやったらええやないか」
わずかに加賀谷の口元が動く。
「はい……」
そう答えるのが精一杯だったのかもしれない。自分に向かって発せられた音に対し、反応しただけなのかもしれない。
そして、加賀谷は松本の前から消えていく。
さきほどの疑問に対する答えを書くならば、こうだ。
加賀谷ハウスは、芸人活動の停止中は、療養生活を送っていたのである。第三章で触れられているが、その間約七ヶ月は入院生活を送っていた。閉鎖病棟にいたこともある。
松本ハウスは、芸人生活を送りながら、加賀谷にかけた言葉の通り、相棒の復帰を待っていた。ただし、ほかの選択肢はなかったのか、という問いへの決定的な答えは書かれていない。そこは読者のひとりひとりが汲み取るべき個所なのである。
書名を見れば加賀谷の病名は明らかであり、第一章にも発症からグループホーム入所に至るまでの経緯は記されているので、ここでは細かく触れない(加賀谷ハウスという芸名が、入所していた○○ハウスから取られていることはわりと有名だ)。
松本ハウス自身が、統合失調症への理解を広めるための講演会を定期的に開いており、興味のある方は本書を読み、講演会に足を運ぶのがいちばんであると思う。おそらく加賀谷は現在、寛解に至った状態だろう。寛解とはいわゆる全快・治癒ではなく、心の状態を自身でコントロールできるようになったことを言う。
加賀谷本人が1999年当時の自身の失敗を「勝手に薬の量を調整してしまったこと」だと言い、それはきつい言葉を使うと「薬物濫用だ」と自己批判している。現在の加賀谷は、定期的に通院をしながら、医師の指定する通りに服薬を行っている状態なのだろう。それでも社会復帰は可能だし、芸人のように精神的にきつい職業だってこなすことは可能なのである。それは加賀谷が本書を通じ、もっとも伝えたかったことであるはずだ。
むしろここで触れておきたいのは、松本キックが加賀谷の「病気」をどう考えていたのか、ということである。彼は相棒をこう見ていた。
今もそうだが、俺は加賀谷に気を遣わない。芸事で間違っていればダメ出しをするし、悪いことには怒りもする。病気を持っていようがいまいが、俺の相方は加賀谷という、一人のパーソナリティにすぎないのだから。
五年かかっても十年かかっても、戻ってきたくなったそのとき考えればいいではないか。
芸事で間違っていればダメ出しもをするし、悪いことには怒りもする。
その態度は常に一貫している。なぜならば、自分の目の前に立っているのはいつも同じ、加賀屋という一人の人間だからである。自分が変わらないのと同じで相手も変わらない。
そう考えるとき、また同じ言葉が意識の中で浮上してくる。
コンビは別れないものだ。
そういうものだ、ということはどんな、なぜ、という疑問にも勝る強さを持っている。
私が松本ハウスの名前を知ったのは、ご多分に漏れず大川豊の「ぴあ」連載、「金なら返せん!」だった。これは大川豊が自身の借金を返済するために奮戦する姿を自身による実況形式で伝えていくもので、三菱銀行(当時)から受けた融資1200万円を減らしていくという趣旨のものだった。あ、説明する必要はないと思うが、大川豊は芸能事務所・大川興業株式会社の代表取締役であり(当初は有限会社)、この1200万円もその会社のために借りたものだった。
連載第1回では借金総額不明、第3回「ついに“差押処分”奨学金の追っ手は兄貴のもとにも現れた!」でようやく9,097,220円と判明するという見切り発車ぶりで、現実と同時進行ですべてを見せていく方式に人気が集まった。連載開始は1992年10月20日号で、この年の7月には世界に先駆けてリアリティ・ショーを地上波で実現した「進め!電波少年」の放送が始まっている。もっとも「電波少年」が「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」の企画を始めてリアリティ・ショーの側に舵を切るのは4年後の1996年4月のことなので、大川豊の連載が先を行っていたことになる。
それはさておき、『金なら返せん!』の中に松本キック・ハウス加賀谷の名前を探してみると、1992年11月24日号の「営業料金は2万円から10万円まで! これが大川興業構成員の全貌だ」の回で早くも登場する。その個所を引用してみよう。私もそうだが、ほとんどの人はここで最初に芸人コンビ・松本ハウスの名を目にしたはずだ。
『松本ハウス』 精神クリニック出身のハウス加賀谷と、初代タイガーマスク佐山サトルの主催するシューティング出身の松本キックのコンビ。松本キックは大川興業が武闘派と聞いて入ったが、暗黒舞踏の舞踏派と聞いてショックを受けている。松本キックの関西弁の鋭いツッコミと、どうしてツッコまれるのかわからない加賀谷のおかしさが売り。
営業料金3万円。延長料金30分1万円。自宅とか一人で寂しいとき、ホテトル方式で呼べます。まだ素人ですので過激な行為はできませんが、確実に笑わせます。料金はステージ終了後、シャワーを浴びた後にお支払いください。
単行本になった『金なら返せん! 天の巻』(ぴあ)の付記を見ると、実際に加藤さんという方の自宅に営業で呼ばれ、終わった後にシャワーを浴びさせてもらって帰ったらしい。
これで見て判るとおり、最初から大川豊は構成員である加賀谷ハウスの「病気」を承知していた。二人は現在大川興業には所属しておらず(著書の中にも「前の事務所」としかかかれていない)、大川本人との関係がどうなっているかもわからない。しかし新人の時代にこうした形で変に糊塗せずに病気について明らかにしたことは、松本ハウスという芸人についてはプラスに働いたように思う。
これ以外にも『金なら返せん!』の中にはたびたび松本ハウスのことが、特に加賀谷のことが出てくる。『金なら返せん! 人の巻』(ぴあ)には、「大注目! 加賀谷伝説」としてまるまる一章が割かれているほどだ。その中に一つ、加賀谷が大川興業のオーディションを受けに来た際の話がある。披露したネタはまったく受けなかった(折りたたみ傘を伸ばして「ボッキ」と叫ぶ一発芸)。すると突然加賀谷はどこからか刃渡り20cmのアーミーナイフを取り出した。静まりかえったオーディション会場。加賀谷はますます挙動不審になる。
「いや実を言いますと、これは、あの、本当は奇跡を呼ぶナイフと言いまして…」
少年をここで適当に突き返してはいけない。かといって大川興業は福祉法人でもない。ただ、今まで奇人変人を入れてきたこともあったが、奇人ほど失礼な奴が多かった。人に迷惑をかけても平気な顔をしている。だけど奇人だけに人にバカにされることが多く、結構プライドが高い。少年の顔をよく見た。ここで突き放してしまったら、一生あっちの世界へ行ってしまいそうだった。よく目を見ると、人の良さそうな目だった。構成員に聞いた。
「一回ぐらい刺されてもいいか」
「ボコボコにしてやります」
全員が笑いながら答えた。
『統合失調症がやってきた』には大川興業時代のいい話がまったく書かれていないので、ここに披露した次第。もしかすると上の人間にとってはいい話でも、本人たちはそうではなかったのかもしれないし、大川興業時代のことは思い出したくない記憶なのかもしれない。そこは他人の踏み込むべき話題ではないだろう。できれば、大川豊についてどう考えているのかは、本には書いてほしかったと個人的には思うが。
もう一つだけ『金なら返せん!』からエピソードを引用する。今度は、松本キックに関するものだ。
例えば加賀谷がなぜか世界都市博が中止になるかどうか心配していたとする。するとそれを敏感に察知したキックが、中止になると都市博グッズが手に入らないと見て、中止寸前に帽子、Tシャツ、テレフォンカードなどを買う。中止と同時になぜかガッカリしていた加賀谷に都市博グッズを見せる。大喜びする加賀谷。
ああ、コンビだったのだな、と思った。
もう一度だけ書くが、コンビとは別れないものだ。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。