三遊亭円丈という落語家は素晴らしき負けず嫌いである。別に本人と私的に話したことはないが、たぶん推測は間違っていない。それは円丈が2009年に出した落語論『ろんだいえん』(彩流社)で故・立川談志について触れた個所を読めばはっきりとわかる。
同書で円丈は談志の才能を褒めたたえながら、だが談志の限界は古典落語にこだわり新作に行かなかったことだ、ときっぱり断じているのである。というのも円丈にははっきりとした価値観があり、落語家には三種類があると考えているからだ。
一般の落語家は「アクター」で「ただ演じるだけの落語家」である。その上位に「アレンジャー」がくる。これは「新作も古典もアレンジする能力がある落語家」だ。最上位は「クリエイター」である。「クリエイティブな噺が作れるか、演じられる落語家」、つまり無から落語を作れる落語家と私は理解している。円丈基準では談志はあくまでも「アレンジャー止まりなのである。自分でそうは書いていないが、もちろん円丈自身は「クリエイター」である。それを認めない落語ファンは、まずいないだろう。1980年代に円丈が精力的に活動を行ったことが、新作落語の隆盛を呼び込んだという歴史的事実があるからだ。直弟子の三遊亭白鳥はもちろん、春風亭昇太や柳家喬太郎といった当代の人気落語家も円丈チルドレンである。
しかし、だからといって古典に殉じた立川談志の業績を見下す必要はないのではないか。それはそれ、これはこれで、新作と古典とでは違った評価軸があってもいいだろう。そう思う人も多いとは思うが、いいのである。円丈の著書の中での記述だからだ。プロレスの神様と言われたカール・ゴッチは「鉄人」ルー・テーズや「人間風車」ビル・ロビンソンのことを自分と同格とは認めず、ことに蛇の穴ことビリー・ライレー・ジムの先輩であるロビンソンについては「あいつはシューターではない」とまで言い張っていたという。なんだかそれと同じ匂いがするような気がするのだが、まあ、そういうことです。
その三遊亭円丈が『落語家の通信簿』(祥伝社)という本を出した。題名そのままの内容である。物故者も含め53人の落語家をまないたに載せ、聴くべき価値があるか否かを判断、もし良いものと見なせばお薦めの噺を挙げよう、という趣旨のものだ。前口上は、このように始まっている。
最近は、落語ブームのせいか、落語の出版物も多くなった。落語評論家が書いた本も売れているらしい。しかし、落語家から見て、落語評論家という存在はどうもウサン臭くて信用できない。
というのも、野球評論家は元野球選手だが、落語評論家は元素人なんだ。これが今ひとつ、プロの落語家から見ると説得力がない。芸について言われても、「じゃあ、アンタは人情噺『芝浜』ができるの? 与太郎小噺『から抜け』ができるの?」と言いたくなる。
それなのに、「彼こそ、日本一の落語家」と褒めている評論家もいる。前座噺もできないのに、ふざけんな! 落語評論家ヅラするなと言いたい。
ある程度ステロタイプな評論家批判なので、この部分については特に触れない。そういう視点で書かれた本だ、ということである。53人の落語家についての記述を見ると、著者が「俺にはこうはできない」と感じたために高評価を与えたのだな、とわかる個所が多くある。観客から見て、ではないのですね。
たとえば、先日小佐田定雄『枝雀らくごの舞台裏』(ちくま新書)を紹介した二代目桂枝雀(故人)についてはこう書いている。
それにしても、枝雀師は、とんでもなくIQが高そうだ。かなりの数の古典落語を枝雀流にアレンジしているが、すべてすんなりとセリフが出てくる。抜群の記憶力だ。「地獄八景亡者戯」なんて、ほとんど創作と思えるほど、かなり固有名詞が入っているが、まったくセリフに詰まらない。
円丈は、今でも新作落語をネタ下ろしする際、固有名詞は三〇〇回ほど復唱しないと覚えられない。あの枝雀アクションだって、もし円丈が演ったら、「あれ、この次のアクションはなんだっけ?」と途中でつかえてしまうだろう。
このくだりを読んで、あれ? と思わなかっただろうか。私は思った。そう「セリフに詰まらない」ことは観客からすれば当たり前のことで、上手い下手の評価とはまったく関係ないからである。円丈の視点にはそれが入っており、「枝雀師を東京落語界でたとえると、「大圓朝」とまで言われた、初代三遊亭圓朝じゃないのか?」とまで書いてしまうわけである。
また、落語協会前会長の三代目三遊亭圓歌(故人)についてはこのとおり。
圓歌師の何がすごいのか?
ひとつは、静かにしゃべっても、キチンとウケること。円丈も、普通の落語家よりはウケる自信はある。しかし、大きな声を張り上げてウケてる。圓歌師は、普通に静かにしゃべって、しかもドカウケする。いったいどうすれば、あんなに静かにしゃべってウケることができるのか? 円丈には、わからない。
ここで「静かにしゃべってもウケるのは~だからだ」と書くのが分析であり、評論だろう。本書にはその部分は存在しない。だから、残念ながら芸論としてはかなりの部分が欠落している。それを期待して読むとがっかりするだろう。
しかし、それを補って余りある要素が含まれている。三遊亭円丈、1944年生まれ。今年で満69歳はまだバリバリの現役である。しかし伸び盛りとは言いがたく、綺麗な言い方をすれば円熟期にある。その落語家が、他の52人(1人は自分自身なので53人ではない)に対してライバル心をむき出しにし、ある者に対してはしぶしぶ負けを認め、ある者に対しては相手の存在を否定して俺のほうが凄い! と見下している。それがおもしろくないはずがないではないか。芸人のプライドの塊を読まされているようなものなのだから。
よく考えれば、たしかにこれは本業の落語家にしか書けない「通信簿」なのである。同じことをしろうとがやったらぶっ殺されるだろう。同業者をあえて実名で斬っているというところにこの本の価値がある。したがって本書で最もおもしろいのは、他の落語家を批判している部分である。しかも党派意識もかなり見受けられる。新作派にやさしく古典派に厳しい、というのは芸風が合うからだろう。そして三遊派>柳派で、三遊派至上主義。昭和の名人と讃えられた六代目三遊亭圓生の直弟子なのだからそれも理解できるが、自ら柳家音痴と称し、柳派の芸風はまったく理解できないと断っているから潔い。
五代目柳家小さん(先代。故人)について触れた個所ではこう書いている。
たぬきはたぬきの心持ちで演り、疝気の虫は、その虫の心持ちで演る。柳家の芸は、禅問答のように難解だ。三遊派の芸はすべてにサンプルがある。わかりやすいのだ。柳家の芸は、内面を大事にして、奥が深いように見えて、結局、主観的に演じてるだけじゃないか?(後略)
以前に紹介した『落語名人芸「ネタ」の裏側』(講談社)などを読むと、この「心持ち」問題の演出法に対しては立川志らくが明確な分析を行っているのだが、ここでは措いておく。
また、円丈は明らかに落語協会>芸術協会>落語立川流>五代目圓楽一門会の立場である。前二者よりも後二者が下なのは寄席に出ていないから。そして立川流よりも円楽党を評価しないのは、一つにはシステム上の問題があるから、である。圓楽一門会は入門から九年で真打ちに昇進という規則があるのだが、それについては「九年間籍を置いてりゃ、ハイ真打! ビニールハウスで“九年モノ真打”の促成栽培をしているようなもんだ」と批判し、規則を定めた圓楽のことも「圓楽師は、兄弟弟子には冷たいが、自分の弟子はかわいがる癖があるんだ。子どもと弟子は甘やかすと、ロクなものにならないねぇ」とぶった斬る。凄いな! 気持ちいいぐらいだね。
昭和落語史をご存じの方には改めて説明するまでもないだろうが、五代目圓楽一門会が独立したのは、かつて圓楽の師匠である圓生が落語協会会長の小さんと対立し、一門を率いて脱退したからである。円丈の著書『御乱心』(主婦の友社)によれば、師を唆したのが一番弟子である圓楽だったのだという。それによってわりを食ったのが協会にいたかったのにいられなくなった円丈であり、師を裏切って協会に残り、師弟の縁を切られた川柳川柳だった。当然だが師弟間、兄弟弟子間でしかわからない過去の経緯があるだろう。師・圓生、兄弟子・圓楽の「芸」については、第三者から見ても非常に公平に円丈は書いている。特に圓生についてはべた褒めだ。だが、芸以外の部分に話題が及ぶと、どうにも抑えが効かなくなるようなのである。人間だからね、仕方ないよね!
こうやって書いているとキリがない。とにかく行間から人間・円丈が滲んでくるので、おもしろい本だから読んでくださいとしか言いようがないのである。もちろん見識の高い個所は多く、「笑点」レギュラーである桂歌丸、林家木久翁に関する項では彼らの知られざる一面を教えられて嬉しくなる。新作落語家の若手六人の項なども、その演者を聞きたくなる愛情に満ちた文章である。
その反面、ああ、これは評論書ではないのだな、と痛感させられるところも多い。まず事実の裏づけがないのが悔やまれる。著書として世に問うからにはそれなりに裏を取るべきなのに、ウィキペディアで調べただけと堂々と公言している個所がいくつもあるのだ。たとえば月亭可朝のストーカー事件(交際のあった女性が、可朝が迷惑行為を働いたとして警察に訴えた)について、「話題作りのためではないか。女性とグルだったのではないか」と疑義を呈しているが、そこには著者の思いつき以外のなんの根拠もない。たとえば吉田豪のインタビュー(コアマガジン『新・人間コク宝』所収)などにも可朝の口から、女性がはずみで警察に訴えてしまい云々の経緯が語られている。他人の事情に触れるからには、最低限その程度は目を通してもらいたいではないか。
それよりももっと評論書として失格なのは、円丈がけなしている落語家の中にはほとんど落語を聴いたことがなく、聴いたとしても手に入るCDやDVDを通してだけ、中にはネットで観ただけ、というものがかなりあることだ(二代目・林家三平はそれすらなくて、結局聴いてないそうである)。そういう対象については評価不能として取り上げなければいいのに。わざわざ聞いたことがないのにとりあげて一言しているのは、落語の「芸」以外のイメージや言動に何か気に食わないものがあるのだろう。たとえば立川志らくの項がそうであり、大して聞いたことがないと言っておきながら「シロウト」呼ばわりで、これはさすがに演者に対して失礼だと感じた。
立川志の輔の項もすごい。なにしろ出だしが、
志の輔君と言えば、なぜか「商売上手」という言葉が浮かぶ。
なのである。うわあ、センセイ、ぶっ放しますなあ。その後に続くのがCDを貰って聴いてみたが「声質がダミ声で、耳障り」なので途中でやめてしまったというエピソードである。最近のCDではそれほど気にならず「どうも、本人もそのダミ声に気づき、注意して演っているようだ」と書いてあるのだが、うーんそれはあまりフォローになってないです!
何度も書くが、本書を読んで見えてくるものは、「円丈はこの落語家が好きなんだ」「この落語家のことはちょっと妬んでるな」「あ、この人のこと嫌いなのね」という好き嫌いである。本書を通信簿として使用できるのは、円丈と価値観を共有できる人だけで、それ以外の場合には少し割り引いて読まなければならないだろう。円丈視点の絶対評価であるわけです。その「俺が俺が」したところがおもしろい。落語の基準は俺が決める、俺が認めないものは落語ではない、と言わんばかりの態度からはプライドを感じる。文句があったらかかってこい、といわんばかりである。そういう芸人らしい本です。すごいよ。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。