人の生き方は個々に独自の在り様があり、それぞれに特別なものである。
そうした前提を踏まえた上で言うが、これは特化した人生を描いた本だ。
吉田照美『ラジオマン 1974~2013 僕のラジオデイズ』(ぴあ)は、2014年の文化放送入社以来一貫してアナウンサー、もしくは番組パーソナリティーとしてラジオの世界で生きてきた著者の半生記である。もちろん長いキャリアを持つ吉田はラジオ以外の仕事もこなしているわけだが、主戦場と呼べる場所はラジオのブースの中であったと言って差し支えないだろう。高校生のとき、たまたまつけたテレビが「夕やけニャンニャン」で、司会者席に吉田がいたときの「何をしているんだろう」感を今でも記憶している。ローカル局で売れているタレントや(兵頭ゆきがそうだった)、ラジオの人気者をテレビで観ると、「あなたもここに来たのか」という感慨を覚えるものだが、吉田の場合はそうではなかった。「出張に来た」という感覚である。今にでもすぐ向こう側に帰って行きそうな雰囲気が全身に漂っていた。
ラジオマン、言いえて妙である。
『ラジオマン』によれば吉田は一人っ子で気が弱く「いつも友達に泣かされてるような子供」だったという。中学1年生ではクラスの人気者となり、本人曰く生涯最初で最後のモテ期を謳歌したが、身長の伸びが止まると同時に成績も停滞し、人前でしゃべるのが苦手という暗い性格になった。それを克服しようとして早稲田大学ではアナウンス研究会に入り、合宿のフリートークで絶句してしまうという屈辱を味わう。しかしそれがバネとなり、一念発起して東京アナウンスアカデミーに通うようになり、さらにTBSラジオ「パックインミュージック」でパーソナリティーをつとめていた小島一慶のしゃべりを聞いてラジオの魅力を知る。小島の話し方は当時のアナウンサーとしては珍しく、基本からは逸脱した自由なものだったのである。そしてアナ研の先輩・湯浅明がニッポン放送入社1年目で即自身のレギュラー番組を持ったことに衝撃を受け、自身もアナウンサーを目指すようになる。1970年代前半といえば、各局に花形番組が存在したラジオの黄金期である。
吉田と同時期に放送局の入社試験を受けていた仲間に、1年先輩のくり万太郎(高橋良一。1年先輩だが就職浪人していた)、NHKに入社した中村克洋などがいる。吉田が文化放送を受けた際には音声試験の試験官としてみのもんたが立ち会っていた。みのは当時の文化放送のエースで、吉田によれば「明るくて押しの強いキャラクターが売り」だったが「普段からそのキャラクターのまま」、「常に素の状態でいられる」という濃さだったという。入社後にアナウンサーとしてキャリアを開始した吉田は到底みののようには慣れないと感じ「不適格な職業を選んでしまったのではないか」と悩むようになる。
新人アナウンサーとしてはたいして期待もされずにくすぶっていた吉田が最初に持たせてもらった生放送レギュラーが「大相撲熱戦十番」の支度部屋レポーターの仕事である。子供のころからの大相撲ファンを公言していた吉田にとって、これは願ってもない役目だったが、後にちょっとしたトラブルを経験することになる。「セイ!ヤング」の番組企画で神田明神のガマン大会に参加しているところがテレビ中継で流れ、それを観た時の横綱・北の湖が激怒してしまったのである。それこそレポーターとして近づいても一言のコメントもくれなくなったほどに。
その時点では僕は事情はわかっていないんですが、本気で怒ってることだけは見てとれたから、「いやぁ、横綱、かなり気合いが入っているようです」と適当に締めて、そそくさと退散したんです。それで大会が終わった後に、仲のいい若い力士と話してたら、「照美さん、あのとき横綱にあとひとこと何か言ってたら、たぶん張り倒されてたよ。これから気をつけたほうがいいよ」と言われて。そこでやっと「吉田を近づかせるな」というお触れが回っていることを知ったんです。いやいや、あのときは縮み上がりました。それ以来、北の湖関には完全に嫌われてしまいました。昔から僕の大好きな力士だったから、なかなかつらい出来事でしたね。
しかし北の湖のような堅物を激怒させるようなくだらないこと、ふざけた体当たり企画が結果的に吉田照美の運命を拓くことになる。最初は夕方の帯番組「桂竜也の夕焼けワイド」の一コーナーで新人アナウンサーがバカをやるというだけのことだったが(「夕焼けトピッカー」)、それが吉田に冠番組「吉田照美のセイ!ヤング」を任せるという話に発展したからである。「セイ!ヤング」といえば「天才・秀才・バカ」の投稿コーナーが社会現象になるほどの人気を博した谷村新司をはじめ、錚々たる面子が並ぶ文化放送の看板番組だったからだ。
吉田が「セイ!ヤング」パーソナリティーを受け持ったのは1978年4月から1980年9月までの二年半である。当時深夜ラジオのパーソナリティーはフォークシンガー全盛の時代であり、無名のアナウンサーが太刀打ちできる状況ではなかった。しかし、吉田はその苦境を「夕焼けトピッカー」で得た経験値を使うことで乗り切るのである。番組の中でバカをやることで独自色を出すということだ。「不良少年探偵団」と名づけられたコーナーは人気を博し、番組名物として育っていく。
本書の中で紹介されている「夕焼けトピッカー」「不良少年探偵団」で実行された企画をいくつか書き留めておきたい。
・目隠しをして銭湯の女湯に入り、入浴中の女性にインタビューする(「トピッカー」)。
・バスに乗り込んで「演歌チャンチャカチャン」よろしくいろいろな歌を唄い継ぎ、途切れさせずにどこまで行けるか試す(「トピッカー」)。
・公園で事に及んでいるカップルにジュースを差し入れる(「探偵団」)。
・ハッテン場で有名な公園の植え込みに、隠しマイクを持って潜入する(「探偵団」)。
ラジオだから、ということもあるが、いずれも現在のデオドラントされたメディアでは実現できなそうな企画だ。中でも話題を呼んだのが東京大学の合格発表会場に行って派手に胴上げをされるというものだという「東大ニセ胴上げ事件」だろう。これは読売新聞夕刊のテレビ・ラジオ欄コラムで好意的に取り上げられた。
「とかくマスコミは、学歴偏重主義の世の中はよくないともっともらしいことを言っておきながら、大学の合格発表の時期になると、なぜか東大ばかりを取り上げる。『吉田照美のセイ!ヤング』がやったことは、そんなマスコミの二枚舌を皮肉っていて面白かった。風刺が利いていた」
いかにも1980年代風の「自分を安全圏に置いて高みから見下ろす」論調なのだが(今だったら「おまえもマスコミだろう、読売新聞」とたちまちツッコミが入るはずである)、「ふざけたことをやってけしからん」と頭ごなしに否定するばかりの雰囲気ではなかったということがよくわかる。
吉田照美が深夜放送のパーソナリティーを務めた時期は前述したように1980年9月までだが、そのわずか3ヶ月後にはビートたけしが「オールナイトニッポン」を始めて、深夜放送のあり方自体を変えてしまう。フォークシンガーたちが「きみたちのもの」と入っていたラジオの時間を「俺のもの」と宣言し、前任者たちの偽善性そのものを否定することから放送が始まった、というのはよく知られていることである。吉田自身も本書でビートたけし登場の衝撃とその影響について述懐しているが、その前夜に独自の努力と解釈でフォーク時代の文脈に則らない自治区を作り上げていたという事実は改めて評価されるべきだ。
東大ニセ胴上げ事件と並んで印象に残っている企画として吉田が挙げているのが「乾杯おじさん」である。
きっかけは「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」で「なんちゃっておじさん」という怪人物について語るコーナーが話題になっていたことである。人ごみの中に突然怪人物が現れるというもので、まだそういう言葉は日本に紹介されていなかったが、都市伝説の一種といえる(が、後に放送作家が、すべては自作自演で作ったものであったことを公表して、ブームは急速に終焉した)。これを模倣し、「乾杯おじさん」というのを捏造しようとしたのである。夕方の電車にビールジョッキを持った吉田が乗り込み「みなさん、今日も一日お勤めご苦労様でした! カンパーイ!!」と叫ぶという他愛もないものだ。
問題はこれをリスナーに参加を呼びかけて実行したことである。日時と路線、どの便の何両目に乗るかまでを伝えた上で結構したのだから、今だったら絶対たいへんなことになる。事実そのときも、100人近くの挙動不審な男子が帰宅途中の会社員に混じってその車両に乗り込んできたのである。後ろから3両目だけが満員。明らかな異常事態だ。
「川船さん(修。放送作家)、これヤバいよ」
「だけど、リスナーのみんなとの約束でしょ。やらなきゃ!」
「事故になったらどうするの?」
「でも、照美さんがやらないと収まりがつかないよ」
「いや、さすがにこの人数でやるとマズいんじゃない?」
川船さんと二人で逡巡しているうちに、車内に「乾杯はまだか?」みたいなテンションが、どんどんどんどん高まってくるのがわかるんです。もうどうしていいかわからなくて。やるのは危険、やらないのはリスナーを裏切ることになる……そこで思い切ってやっちゃったんです。
「……えーい、カンパーイ!」
そうしたら、男の子たちも一斉に空ジョッキを掲げて「カンパイ!」「カンパイ!」「カンパ~イ!」。車内中に歓声が響き渡って。他のお客さんはみんなびっくりしてましたけど、すぐに「何だ、こいつらは」という変な空気が漂いはじめました。(後略)
あたりまえだ。というか決行前の心理は、まるでテロリストのそれである。
テリー伊藤が「天才たけしの元気が出るテレビ」を始めるのが1985年、以降その系譜に連なる番組が「浅草橋ヤング洋品店」「進め!電波少年」など1990年代末まで作り続けられることになるのだが、そうした「不真面目なことを真面目にやる」番組の先駆けになっていたということがわかる。吉田自身はビートたけしやテリー伊藤ほど自覚的ではなく、また自信も持てずにやっていたということが先の引用個所でわかるのだが。
「セイ!ヤング」の後、吉田は午後9時からの帯番組「てるてるワイド」(1980~87)、午後1時からの「やる気MANMAN!」(1987~2007)と、それぞれの枠で聴取率1位の連続記録を作るなど一時代を築くことになる。にもかかわらず局内では不遇であり、常に邪道扱いされて正当な評価を受けることはなかった。そのために1985年3月には文化放送を辞めてフリーになっている。私が観て違和感を覚えた「夕やけにゃんにゃん」は、その直後の仕事である。
一口で言えば吉田は、1974年から2007年までの30年以上にわたり「不真面目なことを真面目にやる」という態度と、「正統派になろうとすることを放棄して自然体でやる」ことに徹することで、ラジオマンとしての自分を確立し続けたわけである。本書にはその過程が詳しく書かれている。2007年からは早朝枠に移り「ソコダイジナトコ」を担当するのだが、その最中に2011年3月11日の東日本大震災に遭遇している。以降の吉田は、自分の信念の赴くまま、降板覚悟で「真実を報道する」ことに徹していくのである。「やる気MANMAN」以前と「ソコダイジナトコ」以後ではパーソナリティーとしての姿勢に変化が生じるのだが、それはやむをえないことだろう。基底にあるのはバカをやっていたころと同じ精神、ただしリスナーに伝えるものが違うということである。単にバカ話を放送するだけならばどこにも問題は生じないだろうが、報道番組として流す談話、記事にはそれなりの事実の裏づけが必要になる。
吉田の中ではブレはなく、統一は図れているのだろうが、やはりエンターテインメントと報道では番組の性質が違い、客観性を担保していくことの難しさが番組にも出ているように感じる。しかし、本書をその是非だけで評価するべきではない。現在の吉田を批判する人も、これまでの彼のラジオマンとしての歩みを知れば発見も多いはずだ。
吉田はこんなことを書いている。
本来、僕みたいな人間が真面目なことを言ってる日本じゃダメだと思うんですよ。ジャーナリストたちがみんな本当のことを言っていたら、僕がこんなことを考える必要はないわけです。そういう意味では悲しいですよね。
故・立川談志は、世間の中では圧倒的な少数派になるということを承知の上で極論、あえて言えば愚論を口にした。それはなぜかと問われて、こう答えたという。
「みんなが同じことを言ったら、全員が間違うからだ」
バカの世界からやってきたラジオマンが「正論」を口にせざるをえない事態は、不自由なものなのである。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。