芸人本書く列伝classic vol.26 立川生志『ひとりブタ』

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ひとりブタ: 談志と生きた二十五年

立川談志没後二年が経過した。その間に多くの弟子たちが師と、立川流に入門した自分自身とを語る本を書き、世に問うてきた。最も精力的に活動してきたのは立川志らくである。師の教えを自身の人生の指針とすることにすべてを費やしてきた志らくは、一冊の本では足りないとばかりに驚くべき数の本を著した。直近の兄弟子である立川談春が「文藝春秋」に追悼文を発表した以外は沈黙を保っているのとは対照的である。故人を悼むやり方は人それぞれであるから、どちらも正しい。

現在の落語立川流には、独立以前、すなわち師匠が落語協会に属していた時代に入門した弟子と、それ以降、つまり一門が寄席に出なくなり、独自の活動を開始した後の弟子が混在する。乱暴な言い方だが「以前」と「以降」に二分できるのだ。

立川流以降の弟子の本には一つの共通点がある。それは、すべてを立川談志の視点で考え、立川談志の思考に沿って解釈しようとした時期を経ているということである。これは当然のことで、立川流では談志がすべての基準になる。ある人が真打に昇進するのも、破門処分を受けるのも、師匠の胸先三寸だ。そうなれば嫌でも師匠に寄り添って考えるようになる。そうしなければ立川流では生きていけなかっただろう。状況を北朝鮮のような独裁国家に喩える人もいるが、談志が人間としての内容をそれだけ備えていたということでもある。立川流以降の弟子たちの本を読むと、誰もが、矛盾に悩み、それを克服していくという過程を体験しているように見える。そして、暗黒のトンネルを抜けた先で、改めて師の教えの真意に気付くという契機がある。立川談慶は三年間の会社員生活を経験してから弟子入りした遅咲きの落語家だが、著書『大事なことはすべて立川談志に教わった』(ベストセラーズ)の中で自身の修業時代を振り返り、辛苦をバネとして生きる技術を伝授するという形でこの本を書いた。ここに「以降」の弟子の生き方が象徴的に現れているのである。

しかし、「以前」の弟子の視点は少し違う。『談志が死んだ』(新潮社)の著者である立川談四楼は、晩年に破門を申し渡されたことがある。それは些細なきっかけで起きた事件だった。本に書かれていることから判断すればどう見ても理不尽である。談四楼は、それが昔ながらの師匠ではなく、老いによって異変を来たした談志の仕業なのだと結論し、小説の形で発表した。談志像を第三者の視点から批判的に捉えなおしたわけで、その試みが入ったことで『談志が死んだ』は画期的な一冊になった。

談志はもともと「揺れる」価値基準の人だったという。しかし『談志が死んだ』で描かれている人物像を、そのような綺麗な言葉で片付けるわけにはいかない。談四楼がこの本で挑戦したのは師を美化しないという試みだった。弟子である以上、師匠を正視することは難しい。親にも等しい存在であり、雲上人であるのだから当然である。しかし作家として小説も書く談四楼は、その難行にあえて挑んだ(この本を「落語家の弟子」にあるまじき内容、と批判する人がいるが、「作家」の談四楼が書いた本なのである。醜い部分は醜いと言い切れなければ作家の看板を下ろすしかないではないか)。

談四楼本と同等の冷静な評言が含まれるのが立川談之助『立川流騒動記』(メディア・パル)で、これも邪道真打(上納金を払うのが嫌さに真打になるのを引き延ばし続け、師匠から最終通告を受けた)にふさわしく、客観的な内容だ。私は小説ならではの人間の感情が描かれているという点で『談志が死んだ』を推すが、こちらを好む人もいるだろう。立川流以降の師匠の芸は停滞した、と断言する一門弟子の著書は、今のところこれだけである。

談志の訃報が流れたとき、心無いマスメディアは「志の輔、談春、志らく、談笑らを育て」と、あたかも弟子はその四人しかいないかのような紋切型の報道を行った。それを逆手にとって「俺たちは『ら』か!」と笑いをとっている一門弟子もいるようだが、つまり外部による図式的な解釈は、それぐらい乱暴たということである。自分で書いておいて気が引けるのだが、上に書いた「以前」と「以降」の違い、あるいは談志が自身の方法論で養成した弟子とそうではない者の違いというのも、「ら」となんら変わることがない。多種多彩な才能の持ち主である落語家たちを、ひと括りの言葉でまとめて語ろうとするほうが無茶なのである。一人一人を見ていけば、あくまでも立川談四楼がいて、立川談春がいて、立川志らくがいるだけだ。そのことを絶対に忘れてはいけない。まして落語は、常識によってひと括りにされてしまうことを拒む非常識を語るものなのだから。

そして、立川生志という落語家もいる。

これまでの部分は実は長い前書きであり、今回の原稿は立川生志『ひとりブタ』(河出書房新社)という素晴らしい落語家の自伝についてのものなのだった。

立川生志、上記の四名には含まれないため、よく知らない人間には「ら」の一人、と受け止められてしまうかもしれない。しかし、輝かしい芸歴の持ち主である。

1963年、福岡県生まれ。1988年に2年間務めた会社を辞めて立川談志に入門する。言わずもがなであるが「以降」の弟子である。師匠から貰った名前は「笑志」。二つ目昇進こそ9年後の1997年である。だが、その間に前座の立場ながら日刊スポーツ新聞社主催の『にっかん飛切落語会』に出演し、1994年から1996年まで3年連続で努力賞と奨励賞を受賞するなど、二つ目顔負けの結果を残している。『にっかん飛切落語会』は先代の三遊亭圓楽他の働きかけによって設立され、現在に足るまで若手落語家の育成を目的とした会として機能し続けている。二つ目昇進後も笑志はこの会に出続け、2002年にはついに優秀賞を獲得、同年には「NHK新人演芸大賞」で審査員特別賞も得ている。この賞は前年度までは存在せず、笑志のために設けられた賞といっていい。

これだけの輝かしい賞歴がありながら、なぜか師匠談志は笑志を真打に昇進させなかった。ようやくそれが叶ったのは2008年、なんと入門から20年後である。ちなみに、笑志と同年に入門した直近の弟弟子である志雲(現・雲水)が昇進を果たしたのはさらに遅れて2009年、昭和最後の年の入門者はなぜか師匠からは冷遇された。笑志改め生志は著書の中でその理由についても冷静に分析している。

「立川談志イズム」を世に示すための、立川流ここにあり、ということを見せるための「スケープゴート」だった。著者はそう書いている。入門から3年が経ったとき、笑志と雲水は一旦二つ目昇進を認められたという。それだけの落語ができると判断されたのだ。しかし、それ以外ができていなかった。寄席に出ない立川流の弟子たちは、落語協会や芸術協会の前座なら日常的に与えられるであろう教えを受けずに過ごす。その一つが、寄席には不可欠の要素である鳴り物だった。そして古典芸能の基礎教養である歌舞音曲が身につかない。立川流の成り立ちを考えればそれは無理のないことなのだが、談志は前座にそれを求めたのである。そして当時の笑志たちは、師匠の期待に応えることができなかった。それがつまずきとなり、以降師弟の関係は長いトンネルに入ってしまうことになる。

落語はできている。

弟子が外の世界では売れているということを立川談志は重々承知だ。

だが歌舞音曲ができないではないか。

そう師匠は主張し、弟子の反論を受け付けない。いや、最初から反論できる場さえない。なぜならば、落語立川流においては談志の言葉こそがすべてだからだ。それに耐えられなければ弟子は去るしかない。

2004年の新年早々、笑志は談志から屈辱の一言を投げつけられる。お屠蘇気分で迎えたであろう新年会の席上で(奇しくもその日、1月2日は談志の誕生日でもある)、談志は「笑志と志雲は、今年、歌と踊りができなかったら辞めてもらう」と宣言したのだ。

落語の世界でいえばヒト未満の立場でしかない前座への言葉ではない。仮にも二つ目という立場の人間への言葉である。二人の弟子の屈辱感は察するに余りある。実は笑志と志雲は、二つ目昇進にあたってある人の力を借りていた。立川流顧問である山藤章二が、2人の苦境を見るに見かねて二つ目昇進の進言を談志に行っていたのである。さすがに顧問の言葉を無視することはできず、談志は容認した。しかし自分以外の人間の意志を弟子育成の動向に反映させたことをわだかまりとして残してしまったのだろう。二つ目昇進後も談志は、笑志と志雲の努力を認めないという姿勢を貫き続けるのである。やがて笑志は真打昇進へ向けて動き始めるのだが、そこで更なる屈辱を与えられることになる。

二つ目時代の苦悩を描いた第4章、第5章は重苦しく、読んでいて本当に辛い。著者はこう書いている。

書きづらいことを書かねばならないと思っている。ただ、談志を愛する人ならわかってくれると思う。談志をより深く理解するためには、この心のダークサイドも知っておくべきだ。

僕にも心のダークサイドはある。何度、師匠と差し違えようと思ったことか。想像の中での親殺し。弟子の分際で「立川談志が相手なら相手にとって不足はない。上等じゃねえか」とさえ思っていた。

利口じゃないが、当時の僕は、僕なりの覚悟で落語家でいるために必死だった。

上等じゃねえか。

追いつめられた落語の登場人物が、相手に、状況に、世間に向けて吐く啖呵である。『談志が死んだ』で理不尽な破門宣告を受けた立川談四楼の第一声が、やはりこの一言であったことを思い出す。

本書の煌きはこの啖呵の中にこそある。師匠と刺し違えてもいいとさえ覚悟した人間の呟き、立川談志という一個の人間にさしの勝負を挑んだ人間の視点がそこにこめられているのだ。ここからの辛く長い道のりについては、やはり現物を読んでもらわなければいけない。醜い出来事も描かれる。立川流を語るときに半ばつきものになっているのが上納金問題だが、そのことについての憤懣も噴出している。綺麗事では収まらない時間を過ごした後に、誕生したのが立川生志という堂々たる真打ちなのだ。

そんな修業を経て、僕たちは図太くなった。たくましいなんて言う健康的な表現ではない。行儀というストイックな規律と同時に、ルール無用の野戦向きのチカラが備わる。人間の表と裏と両面を同時に見極められる眼力が育つ。飼い犬のふりをした野良犬になる。

僕の場合は、家畜で群れる豚ではなく、たった一匹のブタ。とびきり図太いひとりブタ。

この無頼の獣が着物姿で、風(扇)と曼荼羅(手拭)を持って高座に上がると、綺麗な花はより美しく、悪の華はより艶やかに、深い淵から人間の業が覗き、与太郎は思い切り世の中を舐め切り、八五郎は無鉄砲を極め、因業大家はより吝嗇になり、人情噺はより情緒的に、滑稽噺はより痛快に演じられるように修業している。師匠立川談志のように。

立川談志ファンの方は本書を読んで辛く感じられるかもしれない。その醜い一面が隠さずに描かれているからだ。それでもあえてお薦めしたい。師匠のそういう面を直視してきた弟子だからこそ描ける立川談志像に、本書の後半で出会うことができる。引用した箇所に、ほぼ本書の美点は言い尽くされているはずだ。物事の真実を見極める眼力と、それを武器として生きるふてぶてしさとは、立川談志の魅力に他ならない。本書の著者は、ことさらに立川談志を再発見しようとはしない。弟子に対してつっぱった挙句、振り上げた手の下ろしどころを見失ってしまった滑稽さ、自身のネームバリューを逆手にとって弟子を圧迫する卑怯さ、そしてそういう醜い部分を隠そうとする小心さ、そんな負の側面を縷々描いたのちに、素の立川談志と邂逅したかのように出来事を綴っているのである。

あっさりと、実にあっさりと師弟の糸は一つにつながる。相互の回心の場面などは描かれない。しかし読者は、本書から強い感銘を受けるはずだ。立川生志という落語家が、師匠立川談志の存在を呑みこみ、我が物として生きているということを誰もが実感するからである。「ひとりブタ」とはすなわち、師匠という大きな存在を食らい、はちきれんばかりに膨れ上がった若手落語家の姿に他ならない。消化には長い年月がかかることだろう。その過程の一つを、読者は著書という形で見せられたことになる。

本書を読んで、立川談春『赤めだか』(新潮社)に描かれた立川談志像を思い出した。その中で談志は、師匠柳家小さんについて「常に心の中にいる」と言い切った。師匠と弟子というのはそういうものなのである。文章としては一言も書かれていないが、本書もやはりそうした落語家の心を描いた一冊なのである。

立川談志は常に立川生志の心の中にいる。

生志の真打昇進にあたって立川談志が与えた言葉を読み、心が張り裂けんばかりの感慨を覚えた。それをここに書くことは控える。読んでもらうしかない。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

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