新宿五丁目にあるcafe livewireで私が企画立案した落語会を初めて開催したのは、2014年2月のことであった。最初の会は立川談四楼さん独演会「オールナイトで談四楼」である。終電でお客さんに来てもらい始発で帰るという「本当の深夜寄席」を謳ったこの会は、参加者と演者が体力勝負のチキンレースとなった。だいたい演者が勝つのである。もともとそんなつもりはなく、ごく普通の会を開いてもらうつもりで談四楼さんにお話をしたのだが、会場をご覧になった瞬間にかねてより腹案のあった深夜寄席のことが頭に浮かんだのだという。気に入っていただいて何よりであり、二十回を超すロングランになったが、いつまでも談四楼さんのご厚意に甘えているのもどうかと思い、2017年をもって幕引きとした。
同じくらい長く続けていただいたのが、立川談慶さんの「談慶の意見だ」である。こちらは、何か実験的なことをやってみたいというお考えから、落語三席の他に絵手紙漫談やゲストトークなども交えたバラエティ豊かなものになった。元国際プロレスレフェリーであった遠藤光男さんがゲストに来られた回では、インタビューの載った『実録・国際プロレス』にサインを頂戴し、すっかりファンの顔で楽しんでしまった。こちらも2018年12月21日をもって終了している。
そのほか、いろいろな演者にお声がけをし、出演していただいた。
いいことがたくさんあった。
上がってくださった演者のみなさんやお客さんには感謝の言葉しかない。
この2018年末をもって私は、電撃座の落語担当プロデュースの役目を辞任することにした。今後も同所で行われる落語会はあるかと思うが、企画立案や顔付けを今のところはするつもりがない。しばらくはそうしたことから離れて、落語・講談・浪曲という大好きな演芸の世界をもう一度勉強し直すつもりである。
■トークイベントを始めて、自分の人気の無さに気づいた
といっても、cafe livewireの経営者である井田英登氏と喧嘩別れしたわけではない。今後もお声がかかれば一緒に何かやることはあるだろう。ただ、2014年から2017年にかけてのように、何かの会をやりに毎週livewireに出かけていくような日々はもう訪れないだろうと思う。あのころは本当に新宿五丁目ばかり行っていた。あまりに通う機会が多いので、これは通勤定期でも買ったほうがいいのではないか、と思ったほどである。
井田氏と初めてお会いしたのは2014年よりも前のことで、最初はイベントにレギュラー出演してくれまいか、という話だったのである。トークライブを定期開催するので人文・小説畑を代表するという立場で出てもらいたいという。お声がけいただいたのは光栄であったので応諾したが、すぐにある問題に気が付いた。
私、人気がないのである。
こう書いてしまうと身も蓋もないが、つまりそういうことだ。
いや、支持してくださる方はいらっしゃるのだが、それがトークライブの集客には結びつかないのである。この問題については当時いろいろ考えて、北尾トロさんが主宰しておられた「レポ」のウエブ版に「会場人気とチケット人気」に関する文章も書いた。これはプロレス興行などで言われていることで、会場では人気を博すが、いざメインエベントに据えてみるとがくんと売り上げが落ちるレスラーがいる。会場人気はあるが、チケット購入には結びつかないわけで、チケット人気のあるレスラーこそが本物のメインエベンターなのである。「実券でヨロシク」という題名で「レポ」に書いた文章では、どうすればチケット人気を獲得できるかということを考えてみた。
井田氏とのイベントは当初会場を借りて行っていた。やがて井田氏が、毎回会場費がかかるのは問題なので常打ちの小屋を持つと言い出したのである。それには固定費がかかるはずだが、イベントを行わない日は飲食店として営業して日銭を稼ぐという。そうして開業したのが最初の「ビリビリ酒場」であった。ここでは主にミステリーなどに関するイベントを担当した。中でも力を入れたのは、作家であり脚本家である辻真先さんにお話を伺う連続もののイベントで、「辻真先全仕事」とでもいうべき内容にすべく定期的に新宿に来ていただき、初めは脚本家のお仕事について、次いで作家業について根掘り葉掘り伺った。もう少しで完結するというところで事情があって中断せざるをえなくなったのだが、機会があればもう一回だけ最終興行をやりたいと思っている。できれば何かの形で文章にまとめたいのだが。
それ以外に単発のものもあり、たとえばオーストリアからアンドレアス・グルーバーが、アメリカからデイヴィッド・ゴードンが来日した際は、作家を招いてのファンミーティングを行った。ビリビリ酒場というのは元はちゃんこ屋の二階だったところで、掘りごたつ形式の会場であった。その穴の部分を渡した木材でふさぎ、井田氏が器用にイベント会場に作り替えていたのである。そこに初来日の外国人作家を呼んで話させたのだから大胆もいいところであった。打ち上げで出された鍋も初体験だったはずで、作家にとっては変な体験になったと思う。
そんなわけで機嫌よくイベントそのものはこなしていたのだが、根本的な問題はちっとも解決していなかった。つまり、会場人気はあっても、チケット人気はないのである。だから集客もでこぼこする。あるときはたくさん入っても、次のときはお客さんがゼロに等しいということがたびたびあった。これは、私や会場を提供する井田氏はともかく、ゲストに対して気の毒である。「自分のせいで人が集まらなくて」とすまながるゲストに、いえ、こちらのせいなんです、と申し訳ない思いで頭を下げた。
どうすればチケット人気が出るか、を井田氏とたびたび話し合った。そこで氏に言われたのが「杉江松恋という人が何をやっているかという看板が必要でしょう」ということだった。正論である。わかりやすい看板があると人もチケットを買いやすくなるはずだ。その看板をもってまず何かのイベントに集客し、そこから「ビリビリ酒場における杉江松恋のイベント」全体の知名度を上げていこうという結論に達した。看板というのは私の場合、もちろん著書ということになる。ライターだし。
と、そこまではよかったのだが、ビリビリ酒場でのイベントを通じてやったことを著書にまとめるという作業がうまくいかなかった。これはさまざまな理由があるが、一つにはトークイベントの著書化という考え自体が筋が悪いということだと思う。もちろんそういう形で本になった企画もたくさんあるが、それは「もともとチケット人気があって集客できるイベンター」だから本にしやすかったのである。「チケット人気を上げるために看板となる著書を作る」という考えがあべこべなのだ。身も蓋もない言い方をすれば、この時期に無駄なことをやってないで執筆に打ち込み、出版社に持ち込みでもしていたほうが、看板となる著書は出せたはずだ。現に2016年から2017年にかけて出した3冊の本は、livewireにおける活動とはまったく無関係のところから企画が実現している。
会場人気を増やしたかったら余計なことをやってないでこつこつ本業に励め。
それが唯一にして絶対の正解なのである。
ただ、私の方にも捕らぬ狸の皮算用をしていた部分があった。イベントにかかわるようになったごく初期のころから、井田氏よりlivewireでやっていることを他メディアで拡散するような話がいくつかあったのである。詳細は省く。それが実現すれば労少なくして多くの功を成し遂げられそうな気がして、私は乗った。乗ったからには自分が悪いのである。しかし、ビリビリ酒場という固定会場を背負ってしまった井田氏にそうした余技に割く時間はなく、それらの話はいずれも実現しないか、半ばで潰える形になった。今にして思えばそれを期待した私が甘かったのであり、過大な期待をして井田氏には悪いことをしたと思う。ちなみにこの文章が載っているbookaholicは、そうした試みのうち長期間継続している唯一のものである。サイトのサーバーは私が契約していて、以前に預かったbookjapanで契約したものをそのまま継続して使っている。
さて、そんなわけで何年かもがいてみて、私は一つの結論に到達したのである。
私には会場人気はあってもチケット人気はない。イベント開催でそれをつけるのは無理。
だから「杉江松恋」を看板にしたイベントは、やるだけ無駄。
自分で書いて心が傷ついたが、でも本当のことだ。
こうして私は、イベント企画と出演を辞めたいと考えるようになったのである。
その代案として提案したのが、落語会の開催だった。
杉江松恋にはチケット人気はない。
livewire及びその常設会場であるビリビリ酒場はチケットを売らないと存続できない。
だったら、チケットを売れないポンコツ書評家のイベントよりも、チケットが売れそうな楽しい会を開いたほうがいいのではないか。
■慣れないトークよりも裏方にまわって落語会をやりたい
ちょうどそのころ、私は本来の趣味である寄席通いを再開していた。2011年3月に多くの時間をとられていたPTA会長の任期が終わり、ライターとしてももはや若手ではなくて中堅の域に入ったと感じるようになって(それまでは自分は若手だと思っていたのだ)、封印していたことをいくつか解いたのである。その一つが、生で落語を聴くことだった。
自分が凝り性であるのは重々承知をしていて、一度何かをやり出すと極めたと思うところまでとことんやりたくなる。だから時間をとられる寄席通いも我慢していて、音源を入手して聴くに留めていたのである。PTAの活動が終わって時間ができたことで、それが可能になった。
寄席に通い、落語会に行って生の演者に触れていると、自分の理想とする顔付けの公演を見てみたくなる。また、この人は力があるのに機会に恵まれていないと思う演者には、場所を提供したくなる。そうした気持ちが高まってきて、ビリビリ酒場に杉江松恋なんかを上げるよりも、楽しい落語会を開いてはどうか、という提案に結びついたのであった。
井田氏はこれを呑んでくれた。ありがたい話である。ただし、自分は関西出身で東京の落語界のことはよくわからないので、杉江さんがプロデューサー的に関わってくれるのであればやりましょう、という。もっともである。私程度の知識でプロデューサーというのはたいへんおこがましいので、では下足番のような落語会の下働き全般をやるような立場でお手伝いしましょう、と返事をした。
そのときにできたのが最初の落語ブログ「下足番から始めます」である。これも井田氏が「新米プロデューサーが経験を積んで成長していくさまを見せたらおもしろいんじゃないですか」ということで準備してくださったのだが、いくつかの試みと同様、このブログもあまり活用できずに終わった。一つの理由はこのブログの乗っかっているサーバーが重く、インターフェイスも実用的ではなかったことで、現在のwordpressを使ったサイトには使い勝手の面でだいぶ劣った。途中でサーバーが使用不能になる事態も起き、離れてしまったのである。
最初に書いたように、こけら落としの興行は立川談四楼さんにお願いし、次いで立川談慶さんにも上がっていただいた。このお二人を選んだのは私と共通点があり、勝手に親近感を抱いていたからである。談四楼さんは「落語もできる小説家」であり、書評も多く手がけられている。談慶さんの場合は、落語界では唯一の、私と同じ慶應義塾大学のご出身である。まずこのお二人に話を持って行かなければ嘘というものだろう。
そのご縁で初期は落語立川流の出演が主になったが、次第に広げていった。ちょうど落語芸術協会の成金が話題になった時期でもあり、二ツ目の会を開きやすかったということもある。特にお世話になったのが談四楼一門の二ツ目・立川寸志さんである。寸志さんとの雑談から「若いおじさんの会」という企画も生まれた。これは、四十歳以上で年は食っているが、位としてはまだ若手の域に入る二ツ目の落語家を集めて芸を競ってもらうというもので、ちょっとだけ話題になった。優勝者である春風亭柳若さんは駄目元で落語芸術協会の納会で申請したところ、タイトルに認定されて表彰されたらしい。少しでもお役に立てたのなら幸いである
そんな風に楽しくやっていたのだが、途中で思いがけないことが起きた。livewireの店舗が二つになったのである。旧店舗をそのまま使い続けるのには問題がある、とは井田氏より以前から聞いていた。元がちゃんこ屋だけにトークイベントや落語会には使いづらい構造になっており、なんらかの改修を行うことは必然だったのである。そのための休業期間をとって改修後に再開したい、という話は聞いて、承知していた。
ところがあるとき突然、井田氏は新店を契約したのでそちらを主にする、と言い出したのである。場所は徒歩30秒ぐらいの至近であり(現在の店舗)、そちらと往復しながらしばらくは2拠点でやる、と。トークイベントなどはすべて新店舗に移すので、旧店舗は落語などの演芸に特化していきたいというのだ。つまりトークイベントのcafe livewireと演芸の電撃座ということである。
これを聞かされて私は内心慌てた。だってそうだ。自分が出演しなくなった分の穴埋めで演芸会を開いていたつもりが、小屋一軒の顔付けを全部任されたのである。月々の家賃は発生するわけだから、少しでも多く予定を埋めて売り上げを出さないといけない。別に私がその分の費用負担をするわけではない。しかし、自分から言い出した落語会路線で大赤字を出させるわけにはいかないではないか。
こうして2016年には、それまでにも増して落語会の予定を入れるようになった。だいたい月10日、多い月は15日ぐらい落語会の予定が入っていた。詳しく書くことは避けるが、金銭的にはほぼ持ち出しである。落語家を使って自分が金儲けをしている、とそしられるのも嫌なのでもともとこれで稼ぐつもりはなかったが、それにしても個人的な収支は大赤字だった。何よりも時間がとられる。午後7時から落語会であればどんなに遅くとも開場時間には到着していなければならないので、その日の仕事は午後5時には切り上げることになる。会が終わり、その後に打ち上げがあればそっけなく帰るのも気が引けるし、結局終電近くまで家には戻れなくなる。時間のやりくりがうまいとは言えない私が、ますます下手になっていった。
落語会当日だけではない。落語家に依頼をしたらそれで終わりではなく、もろもろ手配することはあるし、連絡をとって相手の様子を伺わなければならない。生きた人間を相手にしているのだから当然のことだ。時には会場側の意向と落語家のそれが合わずに揉めることもあり、間に入って調整しなければならない場面が多々あった。
いや、それは苦痛ではない。落語家のお世話をする、というのは一ファンからすれば光栄な話であり、単なる観客でいたら絶対にできないことだ。苦労とは思わず喜んでやっていたが、それでも堪えることは何度かあった。ある落語家からは突然絶縁を申し渡されたことがある。会場での何かが許せなかったらしいのだが、考えても何が悪かったのかは、はっきりわからない。これだろうか、それともあれだろうか、といくつか見当をつけてすぐに詫びの連絡を入れたが、返事はなかった。以降音信不通のままである。これなども落語家のプライドを傷つけた側に責任がある。一切恨む気持ちはないが、その落語家の出演する小さな会などには気まずくて行きづらくなってしまった。
会をお願いしていて気づいたこともある。一度は上がってくれた演者も、二度目となるとはかばかしい返事をもらえなかったりするのだ。客入りがご本人の思った水準に達しなかっただろう、こちらの力不足で仕方のないことだ、と納得していたが、それだけではなく、会場自体に不満があるのだ、という方の声もうかがった。
旧ビリビリ酒場こと電撃座は本来がトークイベント会場だから、落語を聴く場所としては作られていない。気が付いたことはいくつか改善したが、それでもちょっとやりづらい、というのである。ものすごくおおざっぱに言えば「綺麗事ではない」ということなのだろう。これはよくわかるのである。
東京落語というのは座敷芸が発展したものであり、その世界を醸成するためには必要なことがいくつかある。その一つが「江戸っ子の生理感覚に近づける」ということだ。こぎれいでこざっぱりしていて気持ちいい空間というのが必要なのである。トークイベントの場では許容されても、落語のお客さんや演者には我慢できないことというのが小さく数えていけばいくつもある。他に場所がなければ目をつぶるだろうが、今はそういう時代ではないのである。これは場を準備できなかった当方の責任だ。現在のcage live wireは改善されたと思うが、旧ビリビリ酒場は老朽化が激しく、改修なしに使うのはやはり難しかったと思う。
他にも旧電撃座に寄せられた不満の声はいくつかあったが、詳らかにするまでもないだろう。一つ言えるのは、落語家の本音を引き出すのは難しいということである。気に入らないことがあったら面と向かって話せばいい、というのは物を知らないこちらの了見で、芸人はしろうと相手にそんなかったるいことはしないのである。気に入らなければ口実を作って止めてしまうだけのことである。そこまで気を遣えない相手と無理に仕事をすることはないのだ。それこそ、よほどギャラがよくない限りは。
さらに言えば落語家はお世辞を遣う。お世辞で相手を気分良くするのは落語家の仕事だから、建て前を言うのは当然のことなのである。その建て前を真に受けていると、裏にある真意に気づかず、関係の改善もできないままになる。そうしたことが大小合わせて幾度もあった。経営者である井田氏にそのへんまで呑み込んで対応をするように求めるのは酷な話で、間に入ってはらはらしたものである。
限界が来たのは2017年の下半期だった。8月頃からさらに落語会の回数を増やしてがんばってきたが、増やすべきだったのは回数ではなくて、一つの会あたりの売り上げであった。つまり客入り。客入りが悪い会場であり、そうした評判が立つのを怖れていろいろ策は練ったが、結局いい手は打てなかった。道楽でやっているならともかく、固定費が出て行くのだから洒落にならない。このへんで井田氏と私が相次いでギブアップし、旧会場を維持するのは無理だという結論に達した。新会場に合流する形で電撃座の名前は残したが、実際には旧会場を畳んだ時点で夢は終わっていたのである。
2018年に入り、私が五月の段階で体を壊して入院したため、実質的に落語会のお世話ができなくなってしまった。井田氏ともお話し、2019年度は落語会の立案企画は控えることにした。もちろん会場として完全に打ち切るということではなく、持ち込み企画などは常時受け付けているのである。ちょっと変わった空間での実験的な落語会を、と考えておられる演者の方がいたら、今からでも井田氏に連絡をとってみてもらいたい。とにかく私の企画する電撃座の落語会はしばらくお休みだ。最後を12月21日の立川談慶さんの会でしめくくれたのは、会場の歴史を考えると誇らしいことであった。
振り返ってみると、落語会を手掛けさせてもらえたこの四年間の体験は本当にありがたいものであった。落語ファン冥利に尽きる。お世話になった方にはもう一度お礼を申し上げたい。
■落語家と一般人の生理の違いに気づかなかったのが電撃座の失敗だった
その上で一つ教訓として得たことを書いておきたい。
今は地域寄席や個人会場での落語会が大流行りである。連絡先を公にしている落語家も多く、やろうと思えば明日から誰でも席亭になることができる。
しかし、やるのであれば責任が発生する。ちゃんと会を開くというのは当たり前だが、重要なのは落語家への尊敬を忘れないことだと思う。より具体的に言えば、落語家の本分を超えた要求を押し付けない。たとえ世間では通るような事柄でも、落語家の生理には合わないかもしれない。そうした押し付けを回避するような気遣いをどれだけできるか、がしろうと席亭にまず求められることだと思う。
気遣いのうちにはギャラの話も入る。「恥ずかしくないギャラを払う」というのは当然のことで、それが難しい場合は遠慮して依頼を控えるべきだろう。電撃座でも大きな看板の方にお願いしたことが何度かあったが、恥ずかしくない、といえるぎりぎりの額しかお渡しできなかった。至らなさを恥じるばかりである。
また、集客についても落語家の常識とそれ以外とで違っている部分があった。落語家はよく、「どこどこに上がったらお客が一人で」と自虐的なネタを喋ったり、「どんな人数でも上がらせてもらって落語が喋れれば幸せだ」というような建て前を言ったりする。これは芸人としての了見が言わせているのであって、それに甘えるべきではないのはもちろんである。四年間の経験で感じるのだが、落語家は自分が客を集めるものではないと思っているのではないか。落語家にとって客は集まるもの、あるいは小屋が集めるものなのだ。集客の努力をしない、とそれを詰ってもあまり意味はないように思う。客が集まらなければ、来なかった奴は馬鹿だし、集められなかった小屋は輪をかけた馬鹿、と腹で笑っているのが落語家なのではないか。ここのところが電撃座がうまくいかなかった一番の要因という気がする。
もし自分で落語会を企画するのなら、少なくとも会を成立させるのに必要な最低数だけは自分でお客を確保する必要があると思う。落語界はまだまだ前時代的な部分が多くて、それが魅力でもある。今の時代に合ったやり方をしている落語家ももちろんいるが、大多数はそうではないだろう。それでいつまでもやっていけるかはわからないが、少なくとも現時点ではちょっと時代から遅れたやり方が主流なのである。集客なんて枝葉のところで落語家に意識改革を迫るのは気の毒であり、個人で仕事を頼んだからには、依頼主がその面倒を見てあげたほうがいいだろう。だから数をこなすのは無理なのである。一つひとつの会に専心しなければ。今にして思えば、電撃座では会を増やし過ぎた。至らない点がもしあったとしたら、私のこの心得違いに拠る部分が大きい。当時の関係者には伏してお詫び申し上げる次第である。
現在、私が手掛けている落語会は、落語立川流の立川寸志さんと二人三脚で進む「寸志滑稽噺百席」だけだ。別の何かに関与する可能性はあるが、当面は寸志さんの会を大きくすることに専念したい。楽しい会なので、どうぞみなさんお越しください。
また、自分が会をやっているために時間が作れずに落語会に行けないという矛盾にもずいぶん直面した。2018年は体調が思わしくなかったためにあまり行けなかったが、2019年には心機一転で多くの場所に足を運びたいと思う。一から勉強し直すつもりで、演芸ファンとして修業し直してまいります。
2018年12月23日
平成最後の天皇誕生日に
杉江松恋拝