小林信彦『日本の喜劇人』は、1972年に晶文社から刊行された。当時の名義は小林が評論を執筆する際に使っていた筆名の中原弓彦で、1977年に定本版として同社から再版、1982年に新潮文庫に入った。現在は再び『定本・日本の喜劇人』として新潮社から刊行されているが、これは夕刊フジ連載の『笑学百科』や渥美清、植木等、藤山寛美を扱った評伝三作を合本とし、単行本未収録作を併せた完全版である。
文庫版の内容にさらに加筆が行われているのでファンならば最新の『定本』を買わなければならないのだが、これから小林の喜劇人論を読もうと考えている人は、古本屋や図書館で比較的手にしやすい新潮文庫版からでもいいだろう。この本の価値の一つは、現在では絶対に目にすることができない高度成長期前夜の舞台や、ソフト化されていない映画、初期のテレビ番組についての詳細な記述があることだからである。新潮文庫版でもっとも新しい「喜劇人」として紹介されているのは映画『戦場のメリークリスマス』出演以前のビートたけしなので、若い読者が喜劇史を俯瞰する、という本来の用途には十分足りる。その上でさらに詳しいことが知りたくなれば、上記の『定本』を手にすればいい。
もう一つの価値は、それらのソフトを「喜劇人のもの」としてとらえ「芸」を紹介する、という態度で書かれていることだろう。その「芸」とは今でいうところの「ネタ」や「ギャグ」に留まるものではない。芸人が全身を駆使して行う体技、出演者同士でぶつけ合うアドリブ、そして観客の空気を読んで行う舞台上の人心操作など、すべてが対象とされている。
それらは、小林の見巧者としての蓄積によって裏付けられている。小林は戦前の日本橋区(現在の中央区の一部)の出身だが、幼いころから映画を観続け、戦後は舞台にも足を運んだ。簡略化していえば、東京の舞台喜劇は、まず大正年間までに浅草オペラが発達した。これは海外作品の翻案で、非常にモダンなものだったという。それが関東大震災で壊滅した後も浅草には軽演劇が人気をとり、少なくとも1960年代ぐらいまでは繁栄が続いた。並行して山手の丸の内には日劇などの、もう少し高級とされたバーレスク、レビューが発達し、これは1970年代で息絶える。1950年代初頭で無くなったが、独立系のような形で新宿にムーランルージュがあり、由利徹や森繁久弥が出た。
こうした舞台に満遍なく足を運び、かつ映画の封切もチェックし続けるというのは並大抵のことではない。それを苦労と思わずに続け、芸人に付き合ったというのが見巧者の証しなのである。加えて言えば小林は初期のテレビでは放送作家の仕事もしており、大橋巨泉や前田武彦、青島幸男らとほぼ同時に出演者にもなっている。したがって小林の喜劇番組に関する発言は、ブラウン管の観客ではなく、関係者からのものでもある。こうした豊富な体験を持っている書き手は、もはや小林以外にはいない(半隠居状態の大橋がまれにテレビなどについて発言することがあるが、海外在住の彼は、あくまで「外野」だろう。小林は今でも『あまちゃん』を連続視聴したりする、「現役」なのだ)。こうした小林の喜劇論はおもしろく、頼りになる。現在活躍中の芸人の中にも、本書に影響を受けた者が少なからずいるはずである。
私は1968年生まれなのでテレビでいえば「シャボン玉ホリデー」には間に合わず、ハナ肇とクレイジーキャッツの活躍は後から名画座で見た映画の記憶しかない。バラエティ番組でいえばドリフターズと萩本欽一(コント55号ではなく)の全盛期であり、1980年代に入って土曜夜の勢力図が「オレたちひょうきん族」によって塗り替えられていくのを目の当たりにした世代でもあり、その記憶に強い影響を受けている。
少し恥ずかしいのだが、私は角川文庫の黒い背表紙を毎月のように買う子供だった。毎月のように出る横溝正史を買っていたからだ。そのときに一緒に買ったのが同じ黒い背表紙の小林信彦の本だった。小林の初期傑作『虚栄の市』『監禁』『冬の神話』であり、ユーモア小説の〈オヨヨ大統領〉シリーズを小学生のときにはもう読んでいる。後者には小林自身を思わせる中年の放送作家や、テレビ・ラジオの業界人が頻繁に出てくるので、そこから喜劇の世界にも関心を持った。『怪人オヨヨ大統領』にはサム・グルニョンという変人の探偵が出てくるのだが、これは『マルクス捕物帖』でグルーチョ・マルクスが演じた役柄のそのままである。それでマルクス兄弟にも関心を持ち、当時はビデオなど普及していなかったので、数年に一度ある名画座での上映機会を「ぴあ」で探すようになった。
要するに、自分の中に今ある喜劇の要素は、すべて小林からもらったものである。
前出の『笑学百科』は表紙が映画「ブルース・ブラザース」のジョン・ベルーシ&ダン・エイクロイドであったり、「ビートたけしのオールナイトニッポン」の神がかった可笑しさと鈴木清順の芸術映画「ツィゴイネルワイゼン」の隠しギャグを並列で語ったりと、「笑いの今」を切り取った尖鋭的な内容であり、1980年代以降に書かれた同時代批評の最良のものである。この本が出た1982年にはすでに私は小林信彦のフリークといってもいい読者になっていたので、刊行と同時に即買った記憶がある。そういえば私が最初に聴いた「ビートたけしのオールナイトニッポン」はたしか、たけしが小林信彦に会った話をしていたはずだ。いわゆる芸人のネタ話で「家に上げてもらって寿司をとってもらったんだけど、それにあたって腹下しちゃった」という内容であった。私は途中からその話を聞いたのだが、放送の中で「小林さん、小林さん」と言うのだが、芸人にそうやって呼ばれる評論家など1人しかいないはずなのでドキドキしながら下の名前が出るのを待ち受けていた。
その『笑学百科』に「〈ギャグ〉という語の誤用」という回がある。これはもう全文を引用したい内容なのだが、ごく要約して言うと「ギャグとは観客を笑わせるための所作や言葉の総体のことを指す」のだが「現役(もちろん当時の)の漫才師の中にはキャッチ・フレーズ(流行語)をギャグと取り違えている人が多い」ということである。いちいち説明しないが、芸人が受けるために繰り返し用いる言葉は今も昔も量産されているのでどれでも好きなものを思い浮かべればいい。『笑学百科』の時代にあったかどうかはわからないが、「流行語大賞」の候補になるようなフレーズをギャグと思い込んでくれるな、という苦言だろう。小林にとっては「観客を笑わせるための」という部分が最重要だったはずであり、その目的から切り離されたところにあるものには関心が向かなかったはずだ。それが舞台の時代から「笑いの芸」を見続けてきた小林の評価基準である。たぶんその感覚は、平成の今は共有されにくくなっている。
ならば。
では、小林の言うギャグとはどういうものなのか。
そして。
どういう人がギャグの担い手、小林の言うところの「喜劇人」として認定されるのか。
それを知るためには前出の『定本 日本の喜劇人』を通読するのが最良の道なのだが、初心者には少し荷が重い。もし以上の文章で関心を持ってもらえたのなら、12月に出た新刊『ふたりの笑タイム 名喜劇人たちの横顔・素顔・舞台裏』(集英社)をお読みになることを推奨したい。
これは萩本欽一と小林信彦による対談集である。というよりも、9歳下(小林1932年、萩本1941年の生まれ)の萩本が、小林の自分の知らない昭和の喜劇人話を聞くという構成になっている。喜劇人による評論家のインタビューというのは成立しにくく、小林ほどの見巧者で初めて許されることである。萩本が終始おねだりの姿勢になっているのがおもしろく、小林の話を聞いては大袈裟にびっくりしてみせる。小林信彦のファンにとっては旧聞に属する話も多く出てくるのだが、萩本という良い聞き手を得たことでまた新しい印象で読むことができる。
もちろん聞き手が喜劇人だから、萩本自身のエピソードも多く紹介される。第2章にあたる「コント55号の時代」は、まるまる萩本についての内容だ。
『日本の喜劇人』の新潮文庫版では、コント55号についてこういう記述がある。
コント55号のコントは、たとえば、てんぷくトリオ(三波伸介、戸塚睦夫、伊東四朗)のコントとは、根本的にちがう。
てんぷくトリオの場合は、ルールを決めた上での一種のゲームのようなもので、大人が幼児の遊びを真似ているような莫迦莫迦しさが取柄であった。
コント55号のコントにあるのは、二人の決定的であり、断絶である。正気の世界にいる坂上二郎のところに、狂気の世界からきた萩本欽一が現れて、徹底的に小突きまわす。それは、とうてい、マスコミが名づけたような〈アクション漫才〉というようなものでなく、イヨネスコ的世界であり、その狂気は主として萩本の内部から発していた。
その後小林は「彼らのコントのおかしさは、筆で表現しようもないが」と断りながら、「よく眠っている坂上二郎を萩本欽一がたたき起こし、『大鵬と力道山』はどちらが強いか」を聞く」というコントのやりとりを(おそらくは記憶で)再現してみせている。
『ふたりの笑タイム』を読むと、このコントがいかにして成立したかが判る。そうした実演者からの解析があるのが本書の一つの楽しみである。萩本によればこのコントは、「東映の大部屋(役者)の長はすごい」というエピソードから生まれたのだそうだ。
萩本 東映の大部屋長がなんですごいかって言うと、大スターの嵐寛寿郎さんが寝てるところを起こして、「寛寿郎さん、大鵬と力道山が闘ったらどっちが強いですか?」って聞いたんですって。寛寿郎さんが「はっ? わしゃ寝てるんだけど」って言っても「だから、どっちが強いんですかね?」って聞く。それでも寛寿郎さんは怒らないで自分の意見を述べたら、「じゃあ、2度闘ったらどっちが強いですかね」って、さらに聞いたって言うの。(後略)
萩本欽一は下戸で、かつ小心者で用心深い。それに対して坂上二郎は酒呑みで天然気味のところがあったのだという。その坂上をいじっているうちにできたのが、「飛びます、飛びます」というフレーズだ。それは日劇で二人がかけた「結婚コンサルタント」というコントで、コンサルタントの萩本のところに結婚を控えた坂上がやって来るところから始まる。「海上結婚式をやろう」「ジェット機を4機飛ばします」と大きなことを言う萩本に対して、坂上は「お弁当の中にはコブは入ってますか?」というような細かいことに執着する。その最後に問題のやりとりが出てくるのだ。
萩本 そうなんです。で、最後に「じゃあ飛行機を飛ばすところをやってみましょう」って、手で飛行機をつくるんだけど、二郎さんはそれをいきなり飛ばそうとする。「管制官に『飛びます』って伝えてから飛べ」って言ったら、二郎さん、演技じゃなくほんとに恥ずかしがってね。ち~さな声で「飛びます、飛びます……」って。あの恥ずかしそ~な感じが、二郎さんの素敵なところですね。(後略)
コント55号の初期の作品はほとんど映像として残っていないという。そこで残念なのは、萩本欽一の体技を実際に見て確認できないことだ。
小林の著書では喜劇人の体技が重要な要素として採り上げられている。たとえばエノケンこと榎本健一を「本質的には走る人であり、突然うたい出す人であった」として、おそらくは浅草オペラにおける下積み時代に培った体技を「芸にまでみが」いた天才であり、「あれだけ、ドタバタをやって、品があるというのは珍しい」と讃えている(その幾分かは「エノケンのちゃっきり金太」などの映像で確認できる)。
『ふたりの笑タイム』でもその評価軸が中心に据えられている。対談相手が、浅草出身という経歴を持つ萩本欽一だからだろう。小林が萩本を讃えて言う評価の中の一つが「跳ぶ」である。シミキンこと清水金一をたとえに出した以下のやりとりをご覧いただきたい。
小林 久保田(二郎。ジャズ評論家。故人)さんによると、「シミキンは舞台に置いてある座卓をもったまま、向こうのほうまで跳んでた」って。ぼくはあなたの舞台を全部は観てないけど、日テレの番組で椅子に腰かけたまま跳んじゃうのを観たことがある。あなたも相当すごいよね。
萩本 日劇では『西田佐知子ショー』のあと、『北島三郎ショー』にも出演させてもらって、『机』をやったんです。55号の最初のコントで、ぼくは講演する学者の役なんだけど、演台の脚の長さが違ってどうにもバランスが悪い。長さを同じにしようとして、学生役の二郎さんが講演中に机の脚を切っていくんだけど、ますますバランスが悪くなって、ぼくが演台に寄っかかると机ごと真横に倒れちゃう。受け身をとらず、直立したのを1ヵ月つづけてたら、いろんな人に「痛くないんですか?」って聞かれましたね。(後略)
これから本書を読む人は、ぜひこの「跳ぶ」というキーワードに注目してもらいたい。「笑い」の総合技術の中で「体技」の占める割合の大きさを実感できるはずである。最終章で芝居「雲の上団五郎一座」の三木のり平について触れている個所があるが、このくだりのただならぬ高揚感は特筆すべきものがある。実際に体技を見られないのが残念な限りである。
『日本の喜劇人』の中で小林がエノケンに続く存在になりえた、として名前を挙げているのがフランキー堺なのだが、ごく早い時期に違う方向に行ってしまったという。たしかに川島雄三監督の映画「幕末太陽伝」などを観ると、その片鱗がうかがえる(有名な、羽織を投げ上げて着る場面など)。その後に出てきたのが植木等で「これは純粋体技型ではないが、大別すると、こちらに属する」という。萩本欽一はそれに続く、というのが『日本の喜劇人』における小林の萩本評だ。
『ふたりの笑タイム』は萩本が小林に自分の知らなかった世界、すなわち萩本が足を踏み入れる前の浅草軽演劇や、売れる前のテレビの芸人たちについて聞くという構成になっているので、植木は第3章の「笑いをジャズのリズムに乗せて」というところで語られる。フランキー堺やタモリなど、ジャズからテレビ界へ流入した人脈について語られるのがこの章の読みどころだろう。
第4章から時代はさかのぼり、エノケンら浅草芸人の話題へと移る。重要なのは渥美清を中心にした第6章で、冒頭で萩本が「渥美清さんはね、ぼくら世代の浅草コメディアンにとって憧れの人なんです」と言っているのがすべてを表しているように思う。「フーテンの寅」の演技で知られる渥美の素顔はまったくそれとは異なる寡黙なインテリで、芸人仲間とも付き合おうとせず、孤独を貫いたという。小林は渥美の雌伏期間からのつきあいを『おかしな男 渥美清』(新潮文庫。『定本 日本の喜劇人』にも収録)という評伝に書いている。テレビとは距離を置き、映画俳優として世間との間に立ち入れない幕を作った渥美は、小林の言う「喜劇人」の必然的な姿であったのではないか。自身の私生活までも逐一切り売りせざるをえないテレビ芸能人とは対極のありようである。
続く第7章には渥美とは対照的に、自身の巨大な存在感によってテレビという場さえも飲み込んだ喜劇人が登場する。森繁久弥である。森繁の芸歴は古く戦前からあるが、新宿のムーランルージュを出て映画界に入ってから人気が爆発した。芝居「屋根の上のバイオリン弾き」でシリアスな演技力を見せ付けてからの活躍ぶりは改めて言うまでもない。
渥美と森繁という成功例と、同じく喜劇人の生き残りでありテレビの寵児として一世を風靡したことのある萩本とは、一般に与える印象としては正反対であるはずだ。しかし三者は同じ出自の存在であり、後半生のありようこそ違うものの、芸の根底には喜劇人としての技能が存在する。本書は、そのことを読者に強く再認識させるものなのである。本書では萩本は品よく聞き役に徹し、自身のテレビの寵児時代のことについては、ごく初期のエピソードに言及するに留まっている。若い読者の中にはそのことに不満を持つ向きもあるだろうが、小林という語り手がいる以上、それは必然の結果なのである。
ここには紹介しなかったが、トリヴィアルなゴシップも多数紹介されている(益田喜頓のあきれたぼぅいずを新興キネマの社員になっていた伴淳三郎が引き抜きにくる話など)。そうした話題目当てで読んでも楽しめる本である。『日本の喜劇人』ファンにも、そうではない人にもお薦めする。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。