芸人本書く列伝classic vol.32 立川談志『談志が遺した落語論』

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記憶にないのだが、この前に三回休載しているらしい。そのお詫びから入っている。ただでさえ長い原稿なのに、冒頭には電撃座のことまで書いている。電撃座興行をお休みすると書いたばかりのときにこの原稿というのは皮肉な話だ。頭を削ることも考えたが、当時のまま再掲することにする。

電撃座の落語会をお休みします~杉江松恋からのご挨拶

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談志が遺した落語論

一月半のごぶさたでございました、と書きつつも、この原稿が間に合うかどうか戦々恐々としております。杉江松恋でございます。

三回もお休みをいただいてしまった。その間に一念発起したことがあった。今後はなるべく落語を聴くようにしようと考えたのである。別に演芸評論家を目指すわけではなく、商業出版に書く文章は今までどおり専門である小説や本の分野に限定する。ただし、別の形で演芸に関わろうという気持ちが出てきたのである。落語会の主催だ。

新宿五丁目にLive Wire Caféという店があって、カフェといっても元はちゃんこ料理屋の二階だったのをなんとかそれらしく改装したというちょっと風変わりな場所である。そこでは定期的にトークイベントを開催してもらっていたのだが、もともと引きこもりの私には喋る仕事の主役は荷が重い。そこで店主を説得し、落語会を定期的に開いてもらうことにしたのだ。私はそのイベントで名ばかりのプロデューサーということになっていて、要するにお茶子さんや前座さんのような仕事をしている。それ用にブログも開設してもらたのだが「新米落語プロデューサー日記」というタイトルだったのを、「下足番から始めます。」と変更してもらった。文字通り下足箱の前に陣取り、入口の番をしながら落語会を「見守る」というのが私の仕事である。http://go-livewire.com/blog/gesoku/ で活動報告をしているので、もしお暇があったら見てもらいたい。

そのブログでは自分が行った落語会の報告もしている。高座にかけられた演目についても知っている限りのことで解説を加えたり、感想を書いたりしているのだが、素人の意見で恥ずかしい限りである。しかし、ここまでネチネチと感想を書く落語ブログというのも珍しいような気はするので、存在意義はなきにしもあらずといったところだろうか。

前置きが長くなった。そのブログの6月8日の記事にも書いているが(http://go-livewire.com/blog/gesoku/?p=100)、北鎌倉の古刹・円覚寺で定期的に開催されている「北鎌倉お坊さんアカデミー」の落語会に行ってきた。落語立川流のベテランと若手による会で、トリは立川流直弟子のナンバーツーである左談次が相撲噺の「阿武松」を演じるというまことに結構なものであった。

それと並ぶもう一つのお目当てが、ゲストによるトークコーナーだったのである。故・立川談志の遺児松岡慎太郎氏が登壇し、父の思い出を語った。慎太郎氏はあまり表舞台に出てこられないので、これは実に得がたい体験であった。「猫背で知られていた談志だが、晩年はカイロプラクティックに凝って背筋はしゃんとしていた」といった小ネタから「一日の睡眠はだいたい12時間で、人間は起きている間に老化が進行する。50歳の人間がそれまでずっと寝ていれば0歳だ」というような独自の持論まで、いろいろ内容が濃くて楽しいトークだったのである。

その最後に慎太郎氏は2014年4月にdZEROから刊行された『談志が遺した落語論』について触れた。これは今のところ立川談志の「最後の著書」である。談志が遺していたメモの数々を慎太郎氏が整理してまとめたもので、それでも全体の何分の一にしか過ぎず「私の代では整理できない量」だという。慎太郎氏は本の内容について触れて「普通「論」がついた本であればなんらかの結論があり、それに向けて展開していくものだが、この本の内容は揺れている、まとまった原稿ではないということもあるが、談志自身が迷い続けていたことがわかる、おそらくは最後まで迷い、落語はこういうものだという結論が出ないままに死んだのではないか」と話したのである。私自身、本書からは似たような印象を受けていたので、事実上の編者の言葉に我が意を得た思いだった。

『談志が遺した落語論』は「哲学」「分解(談志らしい用語だが、落語の分析のことだ)」、「継承」「師とライバル」「己」の五章から成っている。その「師とライバル」の章に「だからこそ可愛がられた」という文章がある(元はメモ書きなので、以下の題名はおそらくは編者である慎太郎氏がつけたものだと思われる)。こういう始まり方をする文章だ。

円生師匠は、死ぬまで落語のことを考えていた。

先代の円歌師匠は、死ぬまでラジオの録音のことを言っていたという。放送の時間内にどう収めるかを考えていたそうだ。

志ん生師匠も、ロレってまで高座に出ていたくらいだから、考えていただろう。[……]

つまり亡くなった昭和の落語家たちが、どこまで落語について考え続けていたかに思いを馳せた文章だ。これが書かれたのは2002年、まだ談志の没年までは9年あるが、当然ながら背後から響いてくる死の足音を聞いていたことだろう。初読時には何気なく読んでしまっていた個所だが、慎太郎氏の「迷っていた」という言葉を聞いた後では、このくだりがやたらと重く感じられる。自分は果たしてどこまで落語を突き詰められるだろうか、と考えていたからこその文章である。ちなみにこの項はいつものように師匠である5代目小さんの悪口で終わる。

小さん師匠は、そういう意味では立派でもなんでもない。理屈もない、軍隊にいたから諦めることを学んだのか、上にもあまり逆らわなかった。[……]

この「師とライバル」の章にはこういう悪たれと小さんに甘えるかのような言葉が交互に並べられているのだが、その中に「架空対談」というものがある。書かれたものか、音源として遺されたものかは定かではないが(同様の録音が講談社から出ている『談志遺言大全集』に収録されている)、2001年10月とあるから小さんが亡くなる前年のものである。全体はぜひ実物でお読みいただきたいので、ほんの一部だけを抜粋して紹介する。どちらが小さんでどちらが談志かは書かないが、一目瞭然だろう。

「うるせえな、バカヤロウ。お前はそういうこと言うから駄目だってンだ。ちゃんと話ィしなきゃ駄目なんだ」

「それは師弟の礼儀ですかネ」

「うるせえな。お前はそういうこと言う、だから何だよ……」

「何だよったって。じゃあ、じゃんけんでもしましょうか」

「うるせ、バカヤロウ」

「何かくださいよ、師匠」

「何かァ?」

「その扇子くださいよ、それ」

「これ? いいよ、やるよ」[……]

むっとした顔の小さんが扇子を手渡しているところが目に浮かぶようではないか。そして、このやりとりを談志が「想像で」再現しているというのがいい。実際には決して叶わなかった師弟の再会だ。

小さんが亡くなったのは前述のとおり2002年5月16日のことだ。立川流ではその直後にたいへんなことが起きた。当時の前座6名全員が二つ目への昇進意欲が見られないとして全員破門になった事件である。このときのことは当事者である立川キウイ『万年前座』(新潮社)に詳しく書かれているが、談志の気持ちを考えると、なんとなくそういう挙に出たのも理解できる気がする。なにしろ小さんが死んだのだ。そのくらいの大鉈は振るってしまいそうである。そのときの理由を直接説明した文章も本書には含まれている。第三章の「大八車を持ってくれば”やんや”と受けてやる」というのがそれで、事の発端は談志が弟子に羽田空港までワゴン車で迎えに来るように言ったのに、それ無しで弟子二人が空手でやって来た、というのが怒りに火をつけたというのである。で、「大八車でも持ってくれば”やんや”と受けてやったのに」というわけだ。

『万年前座』を見ると、立川流の前座たち全員が破門になりかける、という危機は三度訪れているようである。一部の者に上納金の滞納があることが発覚したときが最初で、この全員クビ事件が三回目、そして間に「石原慎太郎小唄の会事件」というのがはさまっている。これは何かというと、石原慎太郎が小唄の会を催し、談志がそれに呼ばれたのだが、前座が一人しかやってこなかった、というのが逆鱗に触れた理由であるらしい。「俺と慎太郎が出る会であれば、何も言われなくても聞きに来るのが当たり前だ」というのがその根拠である。『万年前座』でこのくだりを読んだときは、そういうものか、と思っていたのだが、今回『談志の遺した落語論』を読んでいたら気になる記述を見つけてしまった。第五章「贅沢な芸人」の項である。こんなことが書いてあった。

――[……]石原慎太郎が”小唄を作ったから、小唄の会で一席演ってくれ””いいよ”で出かけて行ったが、これはもうだめ。久しぶりに、三平さん的な判りやすいギャグを張って演る羽目となった。石原の小唄なんぞにはロクな者が来ていない、と思ったっけ。

その「ロクな者が来ていな」かった怒りが前座に向けられたのでは、というのは邪推であろうか。

もっぱらゴシップ的な側面についてのみ書いてきたが、本書の真髄は落語論の部分にある。談志が自身の落語家修業を振り返り、それを改めて正当化したような文章が随所にある。たとえば第二章「枕は要らない」がそうで、談志は若い頃から型どおりの枕を振らず、世相漫談やジョークによって落語に入る前の時間を埋めて、それによって客を自分の世界に引き込むというやり方をとっていた。現在の落語家はみな長い枕を振るが、そのほとんどは談志の作った技法の真似である。「二階ぞめき」という噺を例にとり、「客に判らせるため」の枕は要らず「演者本人の枕(演者本人のキャラクターを語る枕ということか)」ならいい、という言い方をしている。次の「枕ではなく内容に入れる」はその続篇というべき文章で、若い頃は枕に「~論」のようなものを置いてから落語に入っていたが、それは噺の本体に組み込むべきではないか、という趣旨だ。

もちろん、そうやって前段の「説明」を省けば落語は演者のキャラクターが噺の帰趨を支配するような極めて個人的なものになり、かつ理解力の足りない客には受け入れがたいものになりかねない。そのことについての危惧も談志は感じていたようだ。同じ第二章「「判りにくいジョーク」の危険」にはこうある。

私はこの微妙なところで、生きている。これは大衆演芸としたら危険である。ちょいと遊びでやるくらいならいいが、それがだんだん(注:原文では繰り返し記号)主になってくると、まだそこまでは行ってないが、今までやってきたポピュラーなギャグを沢山探してくるという行為が嫌ンなるのではないか。

これは自身の晩年の高座を言い当てている。晩年の談志は「イリュージョン落語」を提唱し、一般的な文脈から逸脱した「ナンダカワカラナイ」ものこそが落語の本質にあるとした。それは一部の客や、弟子たちにさえ受け入れがたい極論ととられることがあったのである。談志自身そうした反応を承知はしていたのだ。しかし、そちらに進みたいと考える自分自身の気持ちを抑えきれない。そうやって常に揺れ続けていたのだろう。

第三章「何も思ってやしない」は落語家の師弟関係を結ぶことの意味について語った文章だが、この中には「師匠がなしで落語家ができれば、師匠は要らない」という一文が出てくる。師匠が弟子に伝達できるのはわずかなものであり、意味がるとしたら「落語の歴史の中にいたということを残してやれること」だけだ、というのである。伝統というよりは歴史である。他の伝統芸能のように技芸を下の世代に伝達することだけを目的とするので落語家はかまわないのか、という疑問は談志の中に早いうちからあったように思う。だからこそ「伝統を現代へ」というテーゼを初の落語論である『現代落語論』(1965年、三一新書)において唱え、以降落語協会を離れるまで改革の必要性を主張し続けた。

現代の落語界では、三遊亭円丈によって確立された新作落語が隆盛し、その方面から人気者の地位に昇り詰めた落語家も多い。そうした状況は『現代落語論』の先見性を証明するもののように思われるが、しかし談志本人は若き日の主張がそのままに実ったと無邪気に喜んではいないのである。

晩年の談志は「江戸の風」ということを熱心に唱えていた。どんな演じ方をしてもいい、その中に「江戸の風」が吹いているものが落語であり、そうではないものは認めない、というのである。これは非常に抽象的な言い方であり、談志自身が「理論がない」と言っていた小さんの「狸を演じるときは狸の了見でやれ」に近いものに感じられる。まさしくそれは「了見」というしかないものだ。落語についてある程度の修業を体験した者同士でしか受け止めることのできない共通感覚なのである。談志は師小さんの領域に回帰したのではなく、高みを目指して螺旋状に経巡った結果、そうした「境地」と呼ぶしかない理論に至ったのだろう。そこから先をさらに具体化し、現実のものとするには時間が足りなかった。そうしら苛立ちも第一章「談志は談志の時代で終わり」とする文章に表れている。

矢面に立たされているのは春風亭昇太だ。昇太の人気、勢い、そして技能は談志も認めているのだろう。しかし、それを自身の理想とする落語の中に取り込むことはできなかった。そのため幾許かの諦めをもって、こう書いたのである。

くどいが、昇太はバカじゃない。けど、昇太を肯定してしまうと、立川流の弟子を全部真打ちにしなければならなくなる。”昇太はセンスがいいから許されて、立川流の弟子はセンスが悪いから許されない”という言い方はできる。けど、何なんだろう、あの落語は。

けど何なんだろう、と言わざるをえないほど昇太の落語は談志の中にないものだったのだ。弟子の著作の中ではもっとも談志に対して理論的な批判を行っている『立川流騒動記』(ぶんがく社)の立川談之助なら「なら、全員真打ちにしたらいいじゃないですか」と言いそうだ。

ここに談志の時間切れの哀切を見ることができる。談志は間に合わなかった。立川流の継承者たちに落語ファンが望むのは、おそらくこの点ということになるだろう。

談志が取り込むことができなかった現代の「落語」を、談志が理想として追いかけた自身の落語の中に一体化させることができるのか。

それとも昇太を認められなかった事実を、師の限界として割り切り、自身はそれを忘れて先に進むのか。

立川流とは北朝鮮のようなもので、金一族が斃れればかの国は滅亡するといわれたように、談志が命尽きれば立川流も終わり、と言われた時期があった。しかし師の死から三年が経って、いまだ立川流は健在であり、むしろ弟子たちはその才能を開花させつつある。しかし忘れてはいけないのはこのことだ。談志が遺したものの中には「遣り残したもの」が含まれている。それを受け継ぐのか、それとも見限るのか、という「了見」を世間の落語ファンは注視している。談志の遺産として本書が読まれる必要があるのは、そのためなのである。立川談志という運動は、まだ終わっていない。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

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