マツコ・デラックスが、ナンシー関の後継者として名前を挙げられることを嫌がっているという噂を聞いたことがある。とても意外だった。没後、これでテレビ評論は終わったとまで言われ、その唯一無二の文章力を賞賛されたナンシー関、その跡を継ぐ者と目されることは光栄であれ、迷惑であるはずがないからだ。しばらく前に横田増生『評伝 ナンシー関』が朝日文庫に入ったとき、帯に「とてもじゃないけどこんな生き方はできない」という趣旨のマツコの発言が採られていて、その畏れを知ることができた(巻末にはナンシー関について語ったインタビューも収録されている)。
畏怖。
その一言に尽きるのだろう。マツコ・デラックスは自分の「身の丈」と「身の程」をよく知る人だ。身の丈とはつまり、自分がどのくらいの丈と幅を占有して世渡りをしているかということであり、身の程を知るとはすなわち、そういう自分がどこまで口を出していいか、足を踏み入れていいかを弁えているということだった。好ましいと思う芸人にいつも感じる含羞の匂いを、私はこの人からも嗅ぎ取った。
マツコ・デラックス『デラックスじゃない』(双葉社)は2006年から「EX大衆」で著者が続けている連載を抜粋し再構成した一冊である。そのうちの一部は『続・世迷いごと』(双葉文庫)にも収録されている。
本書にも紹介されているが、マツコが世に出たきっかけを作ったのは作家の中村うさぎである。マツコはゲイ雑誌「バディ」の編集部に約5年間籍を置いていた。そのころの同誌を中村が読んでいて、編集者を辞めた後は引きこもり状態になっていたマツコに「アンタは書くべき人間だ」とデビューを勧めたのである。2006年にMXテレビ「5時に夢中!」に出演、異形のタレントとして世間に認められるきっかけを作った。その後の活躍ぶりはご存じの通りである。
以前ナンシー関とマツコを比較する文章を書いたとき(エキサイトレビュー! http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20120328/E1332866199708.html)、こんな風に二人の違いを表現してみた。
これって、ナンシー関と同じ考え方じゃないか? 違うのは、ナンシーさんがテレビ桟敷から動かずに発言していたのに対し、マツコは自ら異形を装ってテレビの中に入る道を選んだことだけだ。
つまり両方とも身の丈、身の程を知る立場からの発言者だった、という意味なのだが、本書の第二章「懺悔」にはかつての文筆家時代の虚飾について、赤裸々な告白が書かれている。この部分が私にとっては最も興味深かった。
駆け出しのころのマツコは周囲にいるのが「税務署と闘って税金を踏み倒してギャフンと言わせ」るような(名前は出てないが西原理恵子のことか)「型破りなエピソードを売り物にしている女流文化人がけっこういて、武勇伝を語りまくっていた」ため、「何かハチャメチャな出来事の1つや2つ持っていないと、自分の存在価値なんか、なくなってしまうんじゃないかって恐怖心がすごかった」。そのため、自分の行動を「盛る」ことに汲々としていたのである。「高校デビュー」「大学デビュー」という言葉になぞらえて言うと、「業界デビュー」みたいなものか。しかしそういう足に地が着かない悪自慢が活字になるたびにマツコは「媚びを売っている」自分に対する嫌悪感を覚えていた。ひきこもってしまった原因のいちばん大きな理由はこれであるという。
自分を身の丈以上に見せようとして偽った過去への恥じらいがマツコの中にある。
とにかく、「自分じゃない自分」で勝負をしてしまったことについて、傷が消えないのよ。いまだに心の奥底にモヤモヤとした思いがあるの。それがずーっと足かせになっているんだよね。
だから、もう、絶対にウソはつくまいと決めたの。本音で話すことを大前提で生きようと決めたの。だからこそ、なおさら、ウソをついてしまった過去にこだわっているの。
若いとき、焦りがあるときって、そういうことをしてしまうのね。みんな、最初は盛るのよね。(「破天荒コンプレックス ~文筆家時代のウソ~」)
マツコ・デラックスという人を理解する上でもう一つ重要なのが、自分の容姿についての言及である。第一章「生来」の「マツコが思うマツコ ~差別されてるから笑われてんのよ!」では女装の同性愛者で、かつ巨漢(本人曰く、体重140kgでスリーサイズもすべて140cm)という異形であることについての自己言及がある。物心がついたときから「自虐」を旨として生きてきた。
ポーズとしての自虐ネタを振る者はいくらでもいる。たとえば芸人の大半は、機会があればそういうネタで笑いを取りに行くだろう。そうすることで自分についてのイメージを逆説的に保っているのだ。「ネタでああいうことを言うけれど、実はあんなにかっこいいあの人」といった具合に。マツコの自虐はそうではなく、自分の差別されるであろう部分を完全に曝け出すという、全面降伏としての自虐である。「デブだのオカマだのと、ハラワタを散々見せている人間に対して、石を投げてくるほど、みんな、冷血じゃない」から、何でも言える。差別され、通常社会のヒエラルキーから疎外されるというデメリットを背負った代償として、そういう特権を手に入れたのである。
しかしそれはいつまでも続くものではないだろうということも自覚している。かつて中村うさぎから、こういうことを言われたことがあるという。
「アンタは世の中の不平不満を集めた代表者として神輿に乗せられたのよ。みんなが神輿を担いでいるときはいいけど、その流れが少しでも変わったら、突き落とされたとき、大怪我をするよ。そのくらいの高さまで持ち上げられてんだよ。突き落とされてもヘコたれないだけの精神力を持ってなさい」
トリックスターは用済みになれば排除される危険と背中合わせに生きている。ヒエラルキーから外れて好き勝手言うことを許されるのは、石を投げて追いやらなければならないほどの存在ではないからだ。王が道化を目障りと感じれば当然「首を刎ねよ」と命じる。現代においてメディアの王権は大衆の手に委ねられており、その気持ちがいかにうつろいやすいかということは、この十年のうちにどれほどのメディアスターが登場しては消えていったかを数え上げればよくわかるはずだ。マツコ自身、人気が一過性のものであることは認識している。
私が以前の原稿でマツコ・デラックスをナンシー関の再来ではないかと書いたのは、その言動に筋の通ったものを感じ、こうした真っ当な神経の人がゲテモノとして片付けられてしまってはかなわないという思いがあったからだった。『世迷いごと』『続・世迷いごと』収録の文章でマツコは、ダルビッシュ優とタレントの紗栄子の離婚問題について書いている。紗栄子は巨額の慰謝料を受け取ることになり、火事場の焼け太りのような論調で批判されうことになった。紗栄子を嫌悪感だけで面白半分に叩くひとびとは、もっと大事なものが見えていないのだとマツコは指摘するのである。
だって泥棒にあげるわけじゃなくて、自分の子供に払うんだよ。子供は父親と同じレベルの生活を送る権利があるの。慰謝料や養育費の取り決めは夫の収入によって判断される。紗栄子だって、本来、慰謝料もらっていいの。これはどっちが悪いとかじゃなくて、財産分与なの。(中略)ダルビッシュって稀にみる成功者じゃん。そんな人が好き勝手やって、養育費月200万円で済むなんて前例を作ってしまったらダメ。「あのダルビッシュでさえ」ということになると、普通の人たちも払わなくて済むことになるの。今、日本でちゃんと調停して、養育費5万円なんて決まっても、それを払い続けている男なんて少数派よ。(後略)
こうした真っ当な意見を吐く人には表舞台にずっと留まっていてもらいたい。ナンシー関の時評にずっと感じていたのと同じことを、私は今思っている。だからこそ二人を重ね合わせたのである。しかしそれはあくまで外野にいる者の願望に過ぎない。
すでに書いたとおり、マツコはナンシー関という存在の巨大さに対して畏怖の念を抱いている。複数の人が証言している通り、ナンシー関は出現したときからあの通りのナンシー関であり、表現者としては一貫していてブレることがなかった。その点に対する畏怖であろう。変わらずにはいられないのである。自身が偽りを重ねながら身過ぎ世過ぎをしてきたことを恥じるとマツコは正直に告白している。ナンシー関にはその部分がなかった。偽ることなく、ナンシー関でい続けたからだ。
しかし私は思い出してしまう。あのナンシー関ですら、死後は凡庸な者たちの誹謗に晒されたのだった。ナンシー関が世の中に直言を送り続けたことをあえて矮小化しようとして、小倉智昭というテレビショーの司会者が訃報に際し「あの人は外見から来る劣等感があったから」という意味の発言をしたことを、私は決して許さない。ナンシー関はあえて自分の存在を文章から消し続けたが、それは身の丈、身の程を弁えた上のことだった。だからこそ、テレビを観ている人間なら誰でも共有可能な、カメラアイそのものといってもいい視座を確保して「テレビに映し出されたことだけを批評の対象にする」という行為を続けられたのだ。ナンシー関という人に唯一欠けていたのは、本名関直美というリアルな肉体だった。ナンシー関であるために肉体性を捨て去った人を、その肉体で評価しようとすることは筋の通らない誹謗でしかない。
マツコは自ら電波芸者であると宣言し、その肉体ゆえに負っている枷をも「自虐」の種として公開することを選択した。本書でも「ホテルの浴槽につかっていたら体が抜けなくなり、ボディソープを潤滑剤代わりにして脱出したこと」「私生活では替えの服を二着しか持たず自堕落な生活をしていること」などの恥をいくつも語っている。そうしたエピソードは決してマツコの立場を補強するものではなく、次々に消費されていく「ネタ」にしかならないだろう。しかしこれは、マツコ・デラックス(本名は知らない)という存在にいささかの聖域も作らず、すべてを曝け出してみせるという戦略なのである。そうすることによって「おまえなんて○○のくせに(○○にはデブ、オカマなどあらゆる差別語が含まれる)」という反撃を無意味なものにしている。
もし現在のマツコが躓くことがあるとすれば、それは自身が犯した誤り、愚行のゆえなのだ。それ以外の原因ではありえず、失墜はすべて自身の責任である。誰にも責任転嫁ができない孤独な状態を受け入れながら、マツコ・デラックスは最前線に立っている。これを応援せずにいられるだろうか。もしそれが本人には嫌われることだとしても、私はかつてのナンシー関に抱いたのと同じ気持ちをもってあの芸人を支持している。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。