芸人本書く列伝classic vo.41 立川談幸『談志狂時代 落語家談幸七番勝負』『談志狂時代2 師匠のお言葉』『談志の忘れもの 落語立川流噺』

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

談志狂時代―落語家談幸七番勝負

談志狂時代〈2〉師匠のお言葉

談志の忘れもの―落語立川流噺

2014年12月6日、twitterに一つのツイートが投じられた。落語立川流の古参・立川左談次(2018年死去)が以下のような発言をしていたのだ。

「立川談幸一門(吉幸・幸之進)が本年末をもって立川流退会、芸協入り決定! 因みに私は静かに円満に理事辞任を了承されております(笑)。」https://twitter.com/sadanzi/status/541235628629708802

立川談幸が弟子2名と共に落語芸術協会に移籍!

落語関係の話題でこれほどびっくりさせられたのもひさしぶりだ。同じ週には半年間休業していた(一部では引退の噂さえ囁かれていた)立川こしらが9日の独演会で復帰という明るい話題もあった。しかしそれを吹き飛ばしてしまうほどの重大事件である。

この一件、後に立川談四楼のtwitterで背後関係が判明する。談幸の脱会は決定事項で、代表の土橋亭里う馬は理事以外には新年会で伝える意向だったという。しかしそれでは新年会が新年会の体をなさなくなってしまうので、事前に談幸から他の真打に書面通達をしてもらいたい、と談四楼が異を唱えたというのである。その書状が左談次の元に届いたゆえのツイートで、公式発表ではないにしろ、これは正式に決定したことであることがわかった。

立川流はこの秋から5人の二つ目が真打トライアルに臨んでいる。立川流一門会で半年間芸を競い、客席からの支持を集めた者が昇進を勝ち取れるというものだ。しかし談幸の弟子・吉幸は、なぜかこれに参加しなかった。他の二つ目と比しても入門歴は長く、芸の腕でも決して劣らないと見られていたにもかかわらず、だ。立川流のファンは、その背景について憶測を巡らせていたのだが、この脱退話で腑に落ちた観がある。

そういえば、この春に元立川志っ平の柳家小蝠(2018年死去)が真打に昇進したのだが、その披露目の口上に談幸が並んでいた日があった。それを見て、「あ、芸術協会の口上に立川流が出るんだ、それもいいな」と思ったのだが、当時から談幸と芸協の縁は浅からぬものがあったのだろう。

立川談幸はいい落語家である。1954年生まれだからちょうど還暦。立川談志に入門したのが1978年だから、芸歴は36年に及ぶ。談志の落語協会時代の弟子であり、芸風は軽やかで小粋である。口調がはっきりしていて明るく、重い噺も軽いネタも難なくこなす。本当に落語家らしい落語家なのだ。私は大好きで、談幸の独演会にはなるべく顔を出そうとしていた。それが芸協の定席で聴けるようになるかもしれないのなら、もちろん大歓迎だ。むろん立川流の落語会にも従前と変わらず足を運ぶし、むしろこの移籍をもって楽しみが増えたとさえいえる。

問題は2人の弟子で、吉幸・幸之進はすでに二つ目である。聞くところによれば、立川流の母体である落語協会は、もし談志の弟子が復帰するならば、志の輔以降、つまり協会で二つ目に昇進していない落語家は前座からやり直し、という意向を示したという。それがゆえに落語協会への復帰はないだろうと見られていたのだが、おそらく今回芸協は、吉幸・幸之進を二つ目として迎えるのだと思う(注:外れ。両者とも短縮された期間であったが、前座修業を行った)。幸之進はともかく、吉幸の真打昇進も近い将来ありうるのではないか。そうした待遇が保証されるのであれば、今回の移籍は師弟ともに喜ばしい事態だということになる。

と、こんなところが立川流ファンの一般的な見解ではないかと思う。かなり公平に見たつもりである。なんだ、じゃあ移籍もまったく問題ないじゃないか、と関心のない方は言われるかもしれないが、それでも立川流のファンは驚いたのだ。

なぜか。

それは、移籍するのが他ならぬ立川談幸だからだ。

立川談幸は立川流の良心といわれた人である。談志は自分の日常生活を他人が侵すことを嫌い、一切内弟子をとらなかったが、談幸だけは別だった。そこまで懐に入ることを許されていた弟子だったのだ。談幸は明治大学落語研究会の出身である。もちろん学生時代から熱烈な談志シンパであったという。「立川談志イコール落語」というほどののめりこみようで落語に傾倒し、自身の進路を決めてしまったのである。

談幸には3冊の単著がある。『談志狂時代 落語家談幸七番勝負』(2008年。以下『1』)、『談志狂時代2 師匠のお言葉』(2009年。以下『2』)、『談志の忘れもの 落語立川流噺』(2012年。以上、うなぎ書房)がそれである。最初の本は弟子入りから現在に至るまでを振り返った半生記のエッセイ、次の本は師匠から掛けられた言葉を元に人間・立川談志を素描する人物記、そして最後の一冊は没後の視点から談志の晩年と立川流の現状について語った本である。『1』に詳しく、内弟子時代のエピソードが紹介されている。

「おまえ、内弟子になんな」

と言われたのは、談幸が弟子入りして1年半ほど経った時のことだったという。談志はそれまで大久保のマンションに住んでいたのだが、歌舞伎町に至近であることもあって、まだ十代だった子供への影響を考えるとあまりよろしくない。そこで環境を変えるために練馬区にあった一戸建てを買い、引っ越したのである。ちなみにその住宅を買う資金は、議員時代の親分であった大平正芳から借りた。

しかしその家のある場所は練馬区といってもかなり鄙びたところである。都内にお住まいの方以外はぴんと来ないと思うが、かつて練馬大根で有名だった彼の地は、現在でも畑が多く存在する、空の広い街なのだ。都心からの距離が開いてしまうのを嫌い、談志の家族は元の大久保のマンションに戻ってしまった。残ったのは談志と、内弟子になった談幸の2人だけだ。そこで師弟2人、水入らずの生活が始まったのである。

内弟子になると、家事一切が私の仕事になった。もちろん朝食の支度も私のつとめである。しかし、師匠が起きてくる前に出掛けなければならない時がある。(中略)そんな時は、ご飯を炊いて、味噌汁さえ作っておけばOKであった。私の作る味噌汁は師匠のお気に入りであった。なかでもジャガイモの味噌汁は好きであった。それさえ作っておけば、あとは師匠がやる。いや、やらせる。これは師弟お互いの暗黙の了解であった。(後略)

しかし、師匠は私の部屋を無断では決して覗かなかった。弟子のプライバシーを大事にしてくれた。私に用があるときは、部屋の外から声を掛けた。たった一度だけ、夜中に師匠が私に用があって、声を掛けてから私の部屋を済まなそうに、そーっと開けた。そして、覗いた。私に用を言いつけ終わると、師匠は蚊の鳴くような声で、

「たまには掃除をした方がいいよ」

と言った。(後略)

2人きりの生活は2年半続き、当時の談幸は自己紹介をするときに、

「私は師匠と二人っきりで暮しています。だから内弟子と呼ばずに”同棲”と呼んでいます」

とギャグにしていたという。それを談志は咎めず、笑って見ていたのだ。

去る11月30日にEX系のテレビ番組「大改造 劇的ビフォーアフター」でこの練馬の家が改築され、後には店子として談幸の弟弟子である志らくが借家人として住み込むことが発表された。志らくによって前座時代の思い出が語られ、それはそれで趣き深いものがあったのだが、番組中で一度たりとも、唯一の内弟子である談幸の存在については触れられることがなかった。いくら番組作りのための演出とはいえ、このことには割り切れない思いがしたものである。「店子」について言及するならばその前の「同棲相手」のことも言うべきだろう。

談幸が昇進したとき、談志は以下のような挨拶をしている。

数多い弟子の中で談幸は師弟の生活において〈完璧〉でありました。

文字通り「完璧」なのであります。それが証拠に談幸のみが私の弟子の中で過去唯一の内弟子であった。と言うことは人間生活の感情行動が見事に解る特性があるのです。

先代の桂文楽が好んで揮毫した文句に「らしく、ぶらず」というのがある。談幸もこの言葉がお気に入りで、色紙を自宅に飾っているというが、彼こそはこの芸人らしいフレーズにぴったりの落語家だ。

『2』に談幸が初めての単著刊行に舞い上がり、談志に叱られたというエピソードが紹介されている。出版記念パーティーをするにあたり、自著をプレゼントしたい。1冊1冊に自分だけではなく師匠のサインも入れられないか、と考えた談幸は、談志にその旨を頼んだのたという。もちろん談志は快諾してくれた。本に直接するのではなく、サインした紙を挟みこむ形である。ところが枚数が300余りもあった。その紙を置いて師匠の家を後にして5分後、いきなり談幸の携帯電話が鳴った。

「こんなに書けるわけねえじゃんねえか! 多過ぎらあ。俺はもうパーティーに行かねえ!」

と、いきなりガチャリ。私はすっ飛んで行って師匠に詫びた。すると師匠は、

「おまえらしくないことをするな」

と、一言。そうだ、私は「ほどの良さが自分の生命線だったのだ」と、思い知らされた。

憎まれっ子世に憚ると言うが、談志ほどの個性であればそれもいいだろう。しかしたいていの芸人は、憎まれるほどに出しゃばらず、ほどほどに控えることを美徳とする。それを体現するのが談幸という落語家なのである。その弁えが、江戸っ子らしい廉恥、謙譲につながる。だからこそ談幸の落語は好ましいのだ。

その談幸が還暦にして初めて行った自己主張である。だからこそ、ファンは今回の脱会を好意的に見ようとするのだ。談志を愛することでは人後に落ちなかった落語家が、今自らの半生にけじめをつけ、新たな天地に羽ばたこうとしている。

立川流のために人一倍尽くした談幸は、落語協会後、なかなか談志の思うとおりに発展していけない一門のために以下のような弟子育成の問題点を書き出してみたという。立川流の落語家は、落語協会以前、以後という区別のされ方をする。「以前」の弟子である自分が「以後」の弟弟子とどう接し、立川流という一門にしていくべきか。それは落語協会という古巣で育った自分を、寄席に出ない立川流という新しい場所に適合させるための自己批判、自己分析であった。

一、師匠や先輩たちの落語協会で培った価値観を教え込まれること、「昔は良かった」的な感覚で教えられることへの違和感。

二、古い連中の自己満足にも聞こえ、それが無為な小言として受け止めるようになったのではないか。

三、協会育ちの、そこで身につけた躾を、無理やり、立川流に当てはめて教え込もうとしなかったか。

四、それなら、立川流に見合う行動規範を上の者は、作り上げるべきではないか。

この「立川流に見合う行動規範」を自ら実践しようとしてきたのが、この30年間の談幸の落語人生であったのだ。もう十分であろう。これからは自らのため、自らの芸のためだけに生きることになる。残された者と旅立つ者、双方にエールを贈りたい。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存