初めてその番組を聴いたのは床屋だったと記憶している。
時刻は夕方。床屋の待合席には普段買ってない週刊漫画誌が置いてあったので、込んでいるのをこれ幸いと座りこみ、順番になって呼ばれないように、と祈りながらそれを読んだ。当然ながら自分の番が来たときにはすでに外が陰り始めており、夕暮れ時の空を床屋の鏡の中で眺めながら髪を刈られた。
そのとき、不思議な声がラジオから流れているのに気づいたのである。
美声というのではない。語る内容は斜に構えたものだと子供心に思ったが、要所で声はピンと高音に張り、決して元気がないわけではない。どちらかといえば心を鼓舞されるような声だ。「宮坂さん」なる、しょぼくれたおじさんのことを話しているようなのだが、鼠色の背広を着たその後姿が活き活きと立ち上がってくるのを感じる。
この人は誰なんだろう、と不思議に思った。テレビではこんな声の人を観たことがない。
「また、あしたのこころだ」
という結びの言葉が、「小沢昭一的こころ」の毎度の決まり文句であることを知るのは、それからずっと後のことである。
wikipediaの項目を見ると「小沢昭一的こころ」は1973年4月3日に放送を開始し、最初は17時45分から18時の平日帯番組であったことが記されている。TBSラジオ「東京ダイヤル」の番組内番組として始まり、すぐにその親番組の名が「おつかれさま5時です」に変わり、1983年4月に「若山弦蔵の東京ダイヤル954」になる。放送時間はそれにつれて少しずつ前倒しされていったとあるので、私が聴いたのは「おつかれさま5時です」の後期だったのだろう。最後には「大沢悠里のゆうゆうワイド」の中、12時台に移っていたというが、私の中では「小沢昭一的こころ」といえば夕暮れ、外で烏が鳴いているというイメージが強い。
番組の主人公「宮坂さん」とは番組の筋書きを書く放送作家、宮腰太郎とプロデューサーの坂本正勝の姓を合成したキャラクターである、とは三田完『あしたのこころだ 小沢昭一的風景を巡る』(文藝春秋)で初めて知った事実である。
同書の記述を元に書くと、1973年4月の開始当時、番組の礎を作ったのは放送作家の津瀬宏であったという。山本直純作曲の主題歌「明日の心だ」の作詞を担当したのも津瀬である。津瀬は『シャボン玉ホリデー』や『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』のライターでもあった。彼を知る脚本家の下山啓は、三田にこう語っている。
「……もちろん胸のうちは熱かったんでしょうけど、津瀬さんは涼しげなポーズを崩さないひとなんです。ふだんの口調もね、『小沢昭一的こころ』の小沢さんみたいな感じでしたね。江戸の遊び人みたいな」
三田が『放送脚本作法4』という冊子で発見した津瀬の文章には、番組開始時、彼が小沢に「自分の言葉で自分の話をすると宣言」したことが書いてある。しかし小沢は「こちら(津瀬)がくたびれて力が足りないところ、手をぬいたところ、よく分からないのにゴマカシているところ」に「アドリブという武器を使って押し出して」くるし、「ひとたび私(津瀬)に同調出来るところを、あのひとは大声あげて百年も前から自分の説であったかのようにキメつける」。つまり津瀬の書く台本を完全に「小沢昭一的こころ」として我が物にしていた、述懐している。ちなみに二人は、「この番組では中年男だけを相手にしよう、いままでラジオが蝶よ花よで甘やかした主婦や若者とは遊んでやらないことにしよう」と志を一つにしていたともあり、なるほど床屋でふりに聴いた子供の客などは内容がよくわからなくて当然だったのである。「明日の心」の主題歌が「古くなったパンツはいて今日も行く」でしめられているように、あれは完全に中年男のための番組であった。
この完璧に見えたタッグチームは1978年に消滅する。酒に酔って酒場の階段から落ちた津瀬が急死してしまったためである。跡を継いだのは後にミステリー作家としてデビューする、当時は風俗記事などの取材で名を売っていたライターの木谷恭介である。木谷の跡を継いだのは「宮坂さん」の片割れであった宮腰太郎、その彼が2009年に81歳で他界したのとほぼ同時に、本書の著者である三田完が作家の1人として加わった。
三田は1956年生まれ、慶應義塾大学卒業後はNHKに就職し、数多くのテレビ・ラジオ番組を制作した。2000年に「櫻川イワンの恋」で第80回オール讀物新人賞を受賞してデビューも果たしている。著書のうち『当マイクロフォン』(角川文庫)は名物アナウンサー中西龍について書いた見事な評伝である。本書、『あしたのこころだ』はその系譜に連なるもので、著者のラジオについての追憶、思慕の念がこもった作品だ。
『あしたのこころだ』は全体は5章に分かれており、第1章「どこか遠くでハーモニカ」には2012年12月14日に東京・千日谷会堂で行われた本葬の模様が主に描かれる。「オール讀物」誌上での連載が元になので、そこから時は流れていき、三田が「ノー天気プロデューサー(小沢の命名)」こと坂本正勝と弥次喜多道中よろしく小沢昭一ゆかりの地を訪ね歩くというのが各章の内容になっている。ところが章の中で語られる小沢の伝記的事実は必ずしも順番ではなく、第2章「向島花日和」では前述の津瀬宏とのエピソード、第3章「路地にステテコ下諏訪温泉」では小沢の愛した下諏訪温泉の〈みなとや旅館〉探訪記の形をとって、番組のためのロケ中に見せた小沢の思いがけない別の一面、第4章「キネマの天地に焼鳥の煙」では小沢の故郷である東京都大田区蒲田を歩きながら、松竹の聖地であったころの蒲田で俳優が送った青春期に思いを馳せる、といった具合に、だんだんと時間を遡っていくのである。
この工夫が『あしたのこころだ』の第一の魅力だ。「去る者は日々に疎し」というが、喪の期間が過ぎ行き、死の事実を冷静に受け入れるようになっていくに従い、別の驚きが三田を襲うことになるのである。それは、生前に見ていたのとはまったく別の顔が故人には備わっていたという発見から来るものだった。最終章の「梅は咲いたか亀戸天神」では、個性派俳優として売り出された小沢が、40歳にして「日本の放浪芸」の発掘という芸能史研究に目覚めたのはなぜかという問いを通じて、若い頃から抱えていたであろう、芸人に憧れる気持ちの真核にあったものについて言及されることになるのである。
個人的なことを書く。
私が初めて小沢昭一を意識したのは多分に漏れず映画「「エロ事師たち」より 人類学入門」(今村昌平監督)の主演からであり、そこから翻って大好きな映画「幕末太陽傳」の「アバタの金造を演じたのもこの人であることに気づいた。つまりスクリーンの中の怪優であり、決して二枚目にはなれない三枚目の哀愁と開き直りが同居した屈折した魅力こそが小沢昭一という人の真髄である、という理解をしていた。
それは誤解なのである。
しかし誤解をしても仕方のない面もあった。
活字少年であった私は週刊漫画誌と同様に大人向けの週刊誌も愛読していたが、そこで時折名を見かける小沢は、トルコ(と当時は言った今のソープランド)や温泉ストリップなどについて薀蓄を開陳する怪しい人物であり、「エロ事師たち」のスブやんと面影が被っるのも当然だったからである。同じくトルコ研究家だった広岡敬一などと共に小沢は、私の尊敬の対象となった。
やがて成長するに従って小沢に「日本の放浪芸」収集家の一面があることを知り、また違った意味で私は彼を尊敬するようになる。在野の民俗学者としての顔である。私の高校時代には宮田登らの著書による民俗学ブームが到来していたが、本来はアカデミズムが扱わない分野を扱った赤松啓介(『夜這いの民俗学』)らの研究にも私は興味があった。小沢が永六輔と共著した、市井の性科学者・エロ事師たちへのインタビュー集『陰学探検』(創樹社)は今なお私のバイブルの1つである。
閑話休題。
本書にはそうした小沢の学究的一面(不惑を過ぎて一念発起し、始めたものだという)についても側面的に語られているのだが、三田はいたずらに怪人的な顔を強調しない。その代わりに描かれるのは、他人との距離感を大事にし、容易には自分のプライベートに踏み込ませなかった、第三、いやラジオ・パーソナリティーを第三のものとすれば第四の、そして真の小沢昭一の顔である。
印象的なエピソードが2つあった。
1982年4月、NHKの新潟支局に転勤になった三田は、「佐渡おけさ海を渡る」というラジオドキュメンタリーを制作する。そして、学生時代より憧れの人であった小沢に連絡をとり、ナレーションを依頼するのである。駄目元で頼んだ仕事であったが、意外にも小沢は快諾する。新米ディレクターの台本を小沢は吟味し、そして誠実に読んだ。
わざわざ新潟まで足を運び、台本を読んでくれた小沢に、三田はあるもてなしを考えていた。以前小沢の随筆で、自分は珈琲やケーキといった気取ったものよりも、あたりまえの塩煎餅に番茶のほうがホッとする、という一文を発見していた。それゆえ、あえて塩煎餅と番茶のセットを控室に準備していたのである。ところが――。
ところが、収録前の控室で小沢さんはお出ししたものに手をつけなかった。まあ、煎餅は喉に噎せるたりするから(原文ママ)、仕事の前にはバリバリ召し上がらないだろうが、お茶くらいは……と、不審に思った。
収録を了て、スタジオのソファーでくつろぐ小沢さんに、私はまたまた塩煎餅と番茶をお出しした。しかし、小沢さんは嬉しそうな顔をなさらない。
「番茶か紅茶でも召し上がりますか?」
横にいた上司が訊くと、小沢さんの顔がほころんだ。
「珈琲、お願いします」
あわてて近所の喫茶店から出前してもらった珈琲を、ご自分のナレーションのプレイバックを聴きながら、小沢さんはじつに美味しそうに召し上がった。
怖い方だと思った。後年にいたるまで、小沢さんの前で私が緊張して寡黙になってしまう習性は、この原体験にある。
もう1つは、小沢が「小沢昭一的こころ」の取材でスタッフや作曲家の山本直純らとともに鉄道旅行をしたときの話である。
たとえば、旅の途上にこんなことがあった。急行列車がとある駅に停車した際に、小沢さんが無言ですっと席を立った。停車時間は二分間。いよいよ発車のベルが鳴りはじめたころ、小沢さんが一行の人数分の駅弁とお茶を両手にかかえ、涼しい表情で車内に戻ってきたという。
あ、小沢さん、すみません。お代は?
ノー天気プロデューサーに訊かれた小沢さん、
駅弁屋の小父さんにニコッと笑ったら、相手が、「あ、連想ゲームの」と叫んでさ、「お代はけっこうです」だって。
たしかに「小沢昭一的こころ」がはじまるすこし前、小沢さんはNHK「連想ゲーム」の男性軍キャプテンを務めていた。
このあと山本直純が小沢の真似をして土産物屋でニコニコの一席を試みるが、「おめえ、なにニヤニヤしてんだ」と一喝されてお代をとられるというオチがつく。その後に三田はこう続けて書くのである。
まことに愉しい旅のエピソードだが……。たぶん、小沢さんはちゃんと弁当とお茶の代金を、駅弁屋さんに払っていると私は思う。座長として自腹を切った上で、面白おかしい話をこしらえて皆に語ったのではないだろうか。
ここで見えてくるのは、インテリで(小沢は旧制麻布中学で加藤武らと同期であり、苦学して早稲田大学文学部仏文科を卒業している)、物静かな趣味人であり、かつ他人への気遣いを欠かさない生粋の町っ子の素顔である。小沢はこうした顔を内面にしまいこみ、決して銀幕やテレビ桟敷の観客には見せなかった。ラジオ・リスナーを魅惑した「理想の中年男」の庶民的な肖像もまた、本人のものではなかったことになる。
これは実際に本で当たってもらいたいが、第5章では小沢の「一番なりたかった職業は噺家であった」との述懐についてまるまる1章分考察が行われている。インタビュー集『小沢昭一がめぐる寄席の世界』(ちくま文庫)では、あの立川談志を寄席体験の早さで上回り(談志は7歳下であり、埼玉県の深谷市に疎開したという事情などもあって寄席体験は小沢よりも遅かった)、羨ましがらせてもいる。小沢はまた、新宿末廣亭に10日間の客演も果たしており、柳家小三治に半ば本気で落語協会入りを進められた(『小沢昭一的新宿末廣亭十夜』講談社)。俳優を前にしておかしな表現だが、芸人としては「くろうとはだし」の腕前だったわけである。
そんな小沢でも「噺家にはなれなかった」。その理由は何か、上のエピソードを見ると薄々と伝わってくるものがある。本来は知性の人であった小沢には、板の上で己を晒す稼業である芸人の世界にどうしても足を踏み込めなかった部分があったのではないか。謙譲であり含羞であるそういう態度を、『あしたのこころだ』はよく伝えている。
また冒頭に戻る。小沢の出棺時に坂本ら有志は、無数のしゃぼん玉を飛ばして見送ることを提案するが、事務所から固く断られる。小沢は劇団「しゃぼん玉座」主宰であるにもかかわらずだ。
そのことについて、坂本は後日の〈小沢好み〉発見として以下のように語っている。
「……ご遺族やVIPのいらっしゃる場で、正式な式次第としてしゃぼん玉をやると、これはただ奇を衒ったことになる。でも、偉い方々がお帰りになったあとに悪戯っ子みたいな連中が残って、はからずもしゃぼん玉を吹いちゃうんなら、小沢さんもニコニコなさるんです。(後略)」
〈小沢好み〉とは「世の中の常道にそむかずに粛々とことを進めつつ、しかし、はからずも愉快なこと、意外なことが起きる展開」のことだという。そういう日々の思いがけない喜び、些細な出来事から得られる嬉しい発見を約40年間にわたり粛々と送り続けたのが「小沢昭一的こころ」という番組でもあった。
『あしたのこころだ』にはそうした小沢の魅力が濃縮された形で詰め込まれている。文筆活動をしながら芸人に憧れるしかない立場の私は、小沢の背中に自分を見、また小沢の中に到底自分には真似のできない孤高の姿勢を見て、溜息をつくばかりなのだ。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。