すべての人間が夢を叶えられるわけではない。
天に輝く星があれば、その高さから墜ちた流れ星の数はもっとある。
さらに言えば、星の高さまで届くこともなく燃え尽きた者の数はその数十倍にも達するだろう。
芸人本の中にはそうした「星に届かなかった者たち」が自らの人生について綴ったものも多く存在する。実名を出して恐縮だが、秋山見学者『たけしードライバー』(角川文庫)はその好例だろう。本欄で以前に紹介した本坊元児『プロレタリア芸人』(扶桑社)も、そうした匂いがプンプンしたのが危険なスパイスとなっていた。もちろん、本に漂う不穏な気配を打ち消して芸人として大成されることを心からお祈りする(すでに芸人を廃業し正業に就いていると噂を聞く秋山にも、今の道で成功してもらいたい)。
もちろんそうした伝記、自伝がハッピーエンドで終わるという保証はない。落語家の半生記としてはもっとも衝撃的なものの一つである春風亭一柳『噺の咄の話のはなし』(晩聲社)は、三遊亭圓生に破門され、三遊亭好生の高座名を返上させられた著者が、自身の心の区切りとして、師匠・圓生への捨てきれぬ思慕と、その反動から生まれた怨念との二つの感情を綴った一冊である。改めて説明する必要もないと思うが、好生が破門されたのは圓生が落語協会を退会して落語三遊協会を設立した折に、師とたもとを分かったためである。そこには圓生を愛するばかりにその影法師となるほどに芸が似てしまい、壁に行き当たって苦悩していたという無視できない事情がある。天才である圓生、そして強烈な自我の持ち主である兄弟子の圓楽は、好生の抱える屈託を理解することができない。その憤懣が、不幸な師弟の別れにつながったのである。
『噺の咄の話のはなし』本文中には「圓生が死んで嬉しかった」との赤裸々な告白まであり、剥き出しの心情が痛々しい。そこで吐き出すべきものを出し切って心機一転やり直せるのならば最初から鬱屈の溜まるはずもない。結局一柳は、1979年に亡くなった師の後を追うようにして本を上梓した1980年の翌年、投身自殺を遂げてしまう。
好生の著書は芸と芸人としての生き方に対してあまりに真摯でありすぎた男の悲劇としてまだ好意的に受け止めることができるが、笑止千万で読むのが辛い一冊もある。金田一だん平『落語家見習い残酷物語』がそれだ。版元は一柳の本と同じ晩聲社で、刊行はそれより遅れること10年の1990年である。題名からわかるとおり、落語家の修業を上の人間による非人間的な虐待としてとらえて書いたもので、晩聲社は当時からプロレタリアート運動関係や最下層社会の貧困についての本を多く出していた。その流れから著者の売り込みに応えたか、スカウトしたかで本の企画が実現したのではないか。
金田一だん平が弟子入りしたのは三遊亭円窓、林家正蔵(先代)の二人である。本来落語家は師匠と運命を共にする覚悟で入門するものだから、このように二君に仕えるのはおかしいのだが、先例は少なくない。最近の例で有名なのは、柳家権太楼と諍いがあって破門になり(一説には師匠を殴ったとも)三遊亭小遊三門下に移籍した三遊亭遊雀だ。もっとも遊雀の場合は、移籍の段階ですでに真打に昇進しており、将来も嘱望されていて、ある程度は自分の意志が通せる状況にあった。これと同じことを、落語家としては半人前の前座ができるわけがない。おそらくは二つ目でも相当厳しいはずである。
金田一だん平の場合は落語家になるための覚悟ができずに弟子入りをしてしまったのが不幸の原因だったらしく、もともとは立川談志の大ファンで弟子入りを切望していたのに、紹介する人があったために円窓門下になってしまうというおかしな経緯を辿っている。惚れて弟子になったわけではないから当然円窓とはそりが合わない。読んでいて失笑してしまったのは、厭なのに円窓が一緒に飯を食おうと強制してくるとぼやいているくだりで、どこの世界に師匠から飯を勧められて嫌がる前座がいるというのか。立川談春『赤めだか』(扶桑社)には談志が食事の面倒を見てくれないので前座たちがひもじい思いをする場面が描かれているが、食わせてくれる円窓と食わせてくれない談志と、比べてみれば「親切」はどちらなのか、答えは明らかである。もちろん、食わせずにひもじさを体験させるのも修業だと考えれば、談志の行いにも筋が通っている。
結局だん平は円窓のところを逃げるようにして辞め、正蔵の弟子になる。しかし弟子入りにあたって円窓の弟子であったことを伏せていたため正蔵の逆鱗に触れ、結局そこもクビになってしまうのである。これも非はだん平の側にある。二君に仕えず、は落語界の常識中の常識だからだ。
本人と接したことはないが円窓はどちらかといえば内向的で気難しい人物のようだし、正蔵は「トンガリ」と異名をとったほど頑固で喧嘩早かったという楽屋の伝説がある。それでも好生を弟子にしたことからわかるように、基本は人情家で懐に入った窮鳥を見捨てるような酷なことはしない人だったのである。『落語家見習い残酷物語』は、著者と版元がどういう意図であったかはわからないが、落語家の横暴をなじる人間が、逆に自身の浅墓さを露呈してしまうという滑稽な構図の本になってしまったのだ。いちばん滑稽なのは、何か壁に行き当たるたびに「談志のところに行けばよかった、談志はもっと人情家だ」と泣いてみせることで、立川談志のところにこの人が行っていたらさらにひどいことになっていたであろう。何しろ談志は「嫌いだ」という生理を剥き出しにして恥じることがなかった人なのだから。
さて、そうした芸人挫折本の系譜にまた一冊が付け加えられた。藤原周壱『前座失格!?』(彩流社)である。余談ながら、この本が収められた〈フィギュール彩〉という叢書は、以前に事実誤認ばかりでまったく信用ができない菅沼定憲『談志 天才たる由縁』という本を出したので警戒しながら読んだのだが、今回はそんなにひどい間違いはなかった。これで菅沼本の誤記は編集者ではなく著者本人の責任であることが立証されたわけである(おそらく著者があまりにおじいさんで、編集者の言うことを聞かなかったのではないか)。菅沼本のどこがどうひどいかは、こちらを参照いただきたい(http://go-livewire.com/blog/gesoku/2015/02/18/%E7%8F%8D%E6%9B%B8%E3%80%8E%E8%AB%87%E5%BF%97%E3%80%80%E5%A4%A9%E6%89%8D%E3%81%9F%E3%82%8B%E7%94%B1%E7%B8%81%E3%80%8F%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%8C%E3%81%B2%E3%81%A9%E3%81%84%E3%82%88%E3%83%BB/)。
藤原周壱は1959年生まれ、小さいころから落語が好きで、門前の小僧よろしく放送で聞いたネタを暗記して諳んじるようなこともできた。特に惚れこんだのが、昨年落語界で三人目の人間国宝となった柳家小三治で、本人曰く〈小三治教の敬虔な信者〉であったという。高校卒業後、会社勤めを経て1982年ごろから小三治へのアプローチを始め、何度も断られたが、ついに1984年に入門を許される。1985年につけてもらった前座名は「柳家小多け」である。
「小多け」と聞いて頭に疑問符が浮かんだ人は結構な落語ファンだと思う。柳家小三治が柳家小さん(先代。故人)に入門して最初につけてもらった名前が「小たけ」、本名の郡山武蔵から取ったものだ。つまり著者は、師匠の前座名を貰っていたわけであり、それなりに期待されていたことがわかる。実際、藤原が廃業した後に入門し、同じ小多けを名乗ったのは、現在人気落語家として活躍している柳家三三である。決して、だたらにつけていいような名前ではないのだ。
しかし藤原は修業半ばにして挫折を味わい、1987年に二度目の破門となって廃業してしまう。最初の破門は1986年で、これは物置に取りに行かされたスコップを「ありませんでした」と応えて師匠の逆鱗に触れたという「スコップ事件」の結果である。すぐそこに見えているスコップを「ない」と言い張ったのだから間抜けな話だが、前座修業という常軌を逸した緊張の中では、見えるものが見えなくなってしまうこともあるだろう。それは不注意のなせる業であったが、1987年の二度目の破門はもっと深刻だった。発端となったのが藤原の言葉遣いの問題だったからである。電話で話す藤原を観察していた小三治は、突然怒りを爆発させた。普段から早口すぎることを注意していたにも関わらず、それがまったく改められていないことに、ついに堪忍袋の緒が切れてしまったのである。
「すみません、直します!」と言う私に、「駄目だ! あれだけ言ってもできないというのは、お前には無理なんだ。噺家としてこれから先どれほどの苦労が待っているのか計り知れないんだぞ。それなのに、この程度のことが直せないようなら噺家として見込みがないんだ。今すぐ辞めろ、クビだ!」
本書を読んでいて感じるのは、柳家小三治という人の芸事に対する厳しさだ。著書『落語家論』(ちくま文庫)にもそれがよく現われているが、小三治は自分に高いハードルを越えることを課すだけではなく、周囲の人間にもそれを行う。その教えも、懇切丁寧に説明するように優しくはなく、見て覚えろという突き放すやり方であるため、真意がとれないときには実践することが難しい。
しかし、それが柳家小三治という落語家なのだ。その人の弟子になるからには、それを理解し、覚悟を決めた上で門を叩く必要があるだろう。
そもそも藤原が最初に小三治に弟子入りを願ったときも、突然「何でもいいから落語を一席しゃべってみなさい」と申し渡されたという。当然ながら藤原は喋れない。当たり前である。目の前にいるのはプロ、しかもすでにスターの地位に昇りかけている第一線の落語家なのだ。しかし、小三治はこう言ったという。
「だけど、例えばキャッチボールを満足にできない奴が、いきなり『プロ野球選手になりたいんです!』と言っても無理な話だろう。オレはコーチじゃなくプレーヤーなんだ。もし君が噺家になったとしても、手取り足取り教えるつもりは更々ない。プロを目指したいというなら最低限キャッチボールくらいは見せなさい」
正論である。そしてやはり無茶でもある。しろうととプロの演じる落語はまったく別物。たとえばイチローはどんなしろうとから投げられた球でも受け止められるだろうが、それをキャッチボールとも認識しないはずだ。しかし、その無茶を言って食い下がってくる者だけを弟子にとろうという考えなのだとしたら、厳しい条件を突きつけることもするだろう。
こうした姿勢は、藤原を破門した際にも示される。このままやっていても一流の芸人にはなれないので辞めろと言う小三治に藤原は食い下がる。「一流になれなくても良いですから、弟子に置いてください」と。しかしそれに対する小三治の答えは、藤原にとっては思いがけないものだった。
「だけどなぁ。それはあまりにも身勝手すぎやしねえか? 弟子を取るというのは、苦痛以外の何物でもないんだ。オレだけじゃない。内儀さんだって同じだ。こっちが駄目だというのに、無理矢理弟子入りして来て、居て欲しくもないけど毎日、同じ屋根の下で顔付き合わせて、やってほしくもないけど修業という名目があるから、用事を言いつける(略)。それでも何故、弟子に置いてやるかといったら『何れはこいつがひとかどの噺家になってくれるんじゃねえか』と思うからこそ我慢して置いてやってるんだ。それを自分から『三流でも良いから置いてください』というのは、オレにとっては暴力そのものだぜ」
弟子は暴力! この発言はあまりにも赤裸々すぎるが、落語家にとっては本音そのものだろう(金田一だん平の所業を見ればよくわかる)。本書には師であった小三治へのいまだ断ち切れない尊崇の念と恨み節とが未分明の形で詰め込まれており、著者がやや自嘲気味に認めるように、破門から30年近くなっても心の整理ができていないのだということがよくわかる。それでも『落語家見習い残酷物語』ほどに目障りではなく、一人の人間の青春物語として読み通すことができるのは、著者に自身の未熟さを認める気持ちがあり、客観的に至らなかった部分を綴っているからである。それが本書の救いになっている。
序破急の急の章では柳家小三治のその後について触れ、師・小さんには人間性の面で到底及ばないなどと批判的なことも書いているが、私は少なくとも読む前よりは読んだ後のほうが小三治を好きになった。それは小三治が、さまざまな矛盾を自身の中に押し込め、芸人として高みを目指しながら思うようにはそれが達成できていないという不満を隠すことなく剥き出しにする人物だということが現われているからである。弟子に厳しくするのは、一種の八つ当たりだろう。当人には気の毒だが、そうした不完全さを曝け出すのも芸人という生き方だからである。
著者は、落語家廃業後は職を転々としながら現在に至っているという。本人曰く「一番やりたかったものを諦めたんだから、これからは(職業は)何でも良い」。しかし何でも良いということは何にも嫌だということである。心のどこかが壊れてしまったのだ。願わくば本書が著者にとっての自浄の一冊となり、人生の新しいページをめくることができますように。この本を最後に柳家小三治という名前は忘れてもらいたい。「夢を諦める」という人生で最も重い事柄について書けたのだから、きっとできると思うのだ。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。