芸人本書く列伝classic vol.48 嘉門タツオ『熱中ラジオ 丘の上の綺羅星』

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熱中ラジオ 丘の上の綺羅星 (ハルキ文庫)

今、死ぬほどむかつきながら一冊の本を読み終えた。

死ぬほどむかついている。しかし非常におもしろい。敢えて言うならむかおもしろい。

嘉門達夫『丘の上の綺羅星』(幻冬舎)がその本である(ハルキ文庫収録にあたり現行題名に。また著者名も現在は嘉門タツオだが原文はママとする)。

今回に限り先にご注意申し上げておく。嘉門達夫ファンが読んだら逆に不快な思いをするかもしれません。本について要らない貶め方はしないつもりだが、一応念のため。

嘉門達夫といえば「替え唄メドレー」や「ゆけ! ゆけ! 川口浩」などのヒットで有名であり、昭和から平成にかけてコミックソングの一人者として時代を築いた人である。一時期、嘉門の成功に触発されてコミックソングの歌い手が多数現われたが、今でも同じ形の芸を演じながらタレントとしての命脈をつないでいる人はごくわずかのはずだ。田中義剛だって、牧場を経営する前はギター片手に歌っていたのである。

もともと、日本のコメディアンには歌手としても名を残している人が数多い。三木鶏郎と組んでヒットを飛ばした榎本健一は言うまでもなく、ジャズ喫茶の時代に頭角を現したフランキー堺とシティースリッカーズ、ハナ肇とクレイジーキャッツにザ・ドリフターズ、1960年代から70年代にかけては、ミュージシャン上がりのコメディアンが人気を博した時代だったのだ。1980年代に入るとその系譜は一旦途絶えたが、「オレたちひょうきん族」の人気コーナー「ひょうきんベストテン」を見ればわかるように、コミックソングの人気までが落ちたわけではなく、当時のコメディアンは必ず1曲ぐらいはレコードを出していたものである。そういう流れが変わったのは1990年代になってリアリティ・ショーを主戦場とするコメディアンが登場し、「おもしろまじめ」よりも「感動」のほうが受け入れられるようになって以降だと思うが、ここでは詳しくは触れない。

大事なのは、その流れの中に嘉門達夫という人がいたということだ。今にして思えば、嘉門達夫は「歌うだけ」のタレントであり、当時のバラエティ番組では異質の存在だった。コントに手を出すことはなく、コメディアンにはならず、歌手としてひたすらコミックソングだけで勝負していたわけである。『丘の上の綺羅星』を読むと、その理由、そしてそうなった経緯がよくわかる。

嘉門達夫、本名・鳥飼達夫は、16歳のときに志願して落語家になった。しかし志半ばにして破門され、失意の放浪を続ける中で歌に活路を見出したのである。「落語と音楽を合体させて、歌で爆笑を獲る」ことを自身の活動の中心に据えることを決意したのだ。なるほど、そう考えると嘉門が一貫して「歌手」であり続けた理由がわかる。ギターを持って歌うあのスタイルは、寄席で言うところの音曲師のありようなのではないか。落語家が扇子と手拭いで客席との間に結界を張るように、音曲師は膝に抱えた三味線から手前を自身の世界とする。同じことをギターでやったのが、嘉門達夫という芸人なのではないか。『丘の上の綺羅星』は、そうしたスタイルの「芸人」が誕生するまでと、一人のプロデューサー(後述)によって育てられていく過程とを描いた小説なのだ。

芸人の成長小説だからすこぶるおもしろい。しかし同時に腹も立つ。私のように落語の世界が好きな読者の中には、同じような思いをする人が多いはずである。それは、嘉門がこの世界に後ろ足で砂をかけるような辞め方をしているからだ。

16歳でこの世界に飛び込んだ鳥飼達夫を迎え入れてくれた師匠は、その名を笑福亭鶴光という。達夫少年は別に落語ファンだったわけではなく、鶴光が毎週金曜日にレギュラーを持っていた毎日放送ラジオの人気番組「ヤングタウン(以下ヤンタン)」のファンだったのである。深夜ラジオのはがき職人であり、特にヤンタンが好きだった少年は、なんとかしてその世界に入れないかと考え、昇り龍の如き勢いがあった鶴光に入門することを思いついた。後に水道橋博士や玉袋筋太郎ら浅草キッドが辿ったのと同じ道筋である。

鶴光は快く達夫少年を迎え入れ、入門を許可する。最初についた名前は、達夫の自己申告により光茶である。笑福亭光茶は、しかし鶴光の師匠である六代目笑福亭松鶴によって没にされる。

「コ、コウチャ? 喫茶店やあらへんねんさかい、そんな名前あけへん。ア、アホか! 笑う光るでショーコウにしとけ!」

こうして笑福亭笑光が誕生する。畏れ多いことに大師匠直々の命名だ。上方落語の四天王と称された六代目松鶴は伝説の人であり、仁鶴や鶴光、鶴瓶といった弟子を輩出したことでも有名である。本書の中でも鶴光によって語られる松鶴エピソードは、短いながらもさすがのおもしろさだ。

ここで頭に入れておかなければならないのは、落語家修業の制度が違うことである。東京の落語家は最初に前座という身分になり、そこから二つ目、真打と昇格してようやく一本立ちすることが許される。上方落語の場合はその制度はないが、年季といって最初の3年間を師匠の下で修業するという規則がある。これはほぼ東京の前座と同じで、師匠が白と言えば黒いカラスでも白と言わなければならない決まりである。達夫の笑光も、千里丘の鶴光宅に住み込み、内弟子としての修業を開始する。

しかしそこに転機が訪れた。ラジオの世界でも莫大な人気を誇っていた鶴光は、余興の営業もよく声がかかる。そこでお供をするうちに、師匠と一緒にステージに上がる機会ももらい、それが思いがけない仕事につながるのだ。ラジオのレギュラーである。しかも、師匠・鶴光と同じ毎日放送のヤンタンだ。水曜日に、毎週5分間の出演が叶う。コーナーの名前は「笑光の涙の内弟子日記」、「ギター片手に弟子修業の辛さを嘆くという内容だった」らしい。自虐ギャグの常として、内容が膨らんでいく。

ろくにご飯を食べさせてもらってないとか、師匠が使ってウケるギャグはすべて僕が考えているとか、師匠の身体は貧弱だが奥さんはビヤ樽みたいな肥満体だとか、飲み代のツケを払うためにゲイバーで働かされたとか、師匠の落語は下手とか、カニの殻を食わされた、腐ったカニも食わされたとか、師匠の嫁はん化け物とか、ある事ない事、怨み節を語る。

いや、それはある事ない事ではなくて、ない事ない事じゃないかと思うが、驚くべきことに師匠・鶴光からは何の咎めもなかったという。「オモロかったら何を言うてもかまへん」ということで放置されていたのだ(おそらくは放送も聴いていなかったのだろう)。

師弟の間に溝が入ったのはそれが原因ではなかった。芸能界の最先端に触れておもしろくなってしまった十九歳の若者は、ヤンタンを生活の中の最優先課題とし、師匠宅の用事をおろそかにし始めたのである。師匠の奥さんから用事を言いつかるたびに「こんなんやってる場合ですか?」という疑問符が浮かぶようになる。「アンタ、イヤイヤやってんねんやったら、いつ辞めてもろてもええねんで!」と奥さんから追い出され、頭を下げて戻してもらうということが度重なる。ついには完全に師匠宅を飛び出し、実家に戻ってしまうのである。

もちろんその間もヤンタンの仕事は続けている。不安定ではあるが、ラジオの人々に囲まれて生活はとりあえず楽しい。だが、そんな日々が永遠に続くはずがない。

ある日、奥さんではなく師匠から直接電話が入り、運命の宣告を受けることになるのだ。伏線はあった。奥さんから用事を言いつける伝言をもらっていたのだ。しかし「こんなんやってる場合ですか?」の脳はそれを拒否する。

「ウチ来るのイヤらしいな。せっかく家に入れるように考えたったのに、破門や。辞めてまえ!」ガシャン!

かくして笑福亭笑い光は破門。鶴光夫人から告げられたのは一年間の謹慎であった。

「もしも向こう一年の間に、アンタの姿をどっかで見たというような事を聞いたら、改めて破門状が回るわけ」

「恐らく世間はまた私がダンナをつっついてこうさせたと思てるやろけど、今回の事は私は何も知らんねんからね」

「師匠(鶴光)も、会社がアンタに番組続けさすんやったら、大阪離れて東京行こてなとこまで考えたわけ」

取り付くしまもない態度に達夫は鶴光門下での将来を諦め、笑光の名前を返上して傷心の旅に出る(こうした場合のセオリーどおり北へと向かう)。その際、ヤンタンで世話になっていたプロデューサー・渡邉一雄に挨拶をし、わずかな命綱を残しておくことを達夫は忘れなかった。そのことから、やがて運が拓けていくのである。

と、ここまでが破門云々の顛末である。後半部では渡邉に見出され、芸能事務所アミューズに拾われた達夫が嘉門達夫の芸名でのし上がって行くさまが描かれるのだが、そちらは実際に本を読んでもらいたい。

以上のくだりを読み、「まあ、それは破門になるだろう」と思った人はたぶん落語好きの方だろう。落語の世界では、東京で言う前座は人間以下の存在であり、落語会で出番をもらっても「木戸銭の外」と言われる。つまり前座は人前に出られるような芸人ではないということなのだ。その前座がラジオで芸能活動をすること自体が東京落語ではご法度のはずだが、上方では桂三枝を初めとする先人がそうやって活躍の場を広げてきた経緯があり、放任されていたわけである。それにしてもやはり年季の身の上なのだ。まず尽くすべきは師匠であり、それを放置して自分の仕事にかまけていたら、まあ破門にもなるだろう。

その点はもちろん著者である嘉門達夫は自覚しており、自らの行為が「後ろ足で砂をかけ」るものであったと書いてもいる。

ちょっと首を傾げたのは、東京に出てからのくだりだ。当時人気のあったあのねのねの清水国明から、達夫は「守破離」という言葉を教わる。初めは師匠の教えを守る。そしてそれを破り、離れることで一本立ちしていくという考え方だ。

達夫は考える。

清水さんが言ってた言葉「守破離」を実践せねば。守った。破った。でもまだ離れ切れてはいない。

いや、まず君は「守って」もいないだろう!

こうした具合に達夫は、わりとあっさりと落語の道を諦め、新たな「歌手」の世界へと進んでいく。そのこと自体はまあ個人の自由である。上方の落語家崩れを東京の芸能界が受け入れたことも、新天地で心機一転したのだと思えば腹も立たない(五代目柳家小さんも、談志が落語協会を脱退した際、昔は破門されてドサ回りで芸を成長させた者がいたものだ、と許容する発言をしている)。

びっくりしたのは、達夫が2年の別離期間を経て師匠・鶴光に再会する場面だ。恩人である渡邉から「鶴光ちゃんには僕からも言うとくけど、達夫も挨拶行っときや」と忠告され、ヤンタンの本番前に訪ねる。

「師匠、ご無沙汰してます。今度アミューズという事務所にお世話になる事になりました。『嘉門達夫』という芸名で、歌を歌っていこうと思います。これからもよろしくお願いたします」

「あー、なべさんから聞いてる。まぁ、好いたようにやんなはれ」

「ありがとうございます」

心配していた波風は渡邉さんが抑えてくれたのだろう。アッサリとした再会だった。

これで再スタートが切れる。

……違うだろう! そこは元師匠の寛大さに感謝すべきところだろう!

思わず本に向けて叫んでしまったのだが、これで浮世の義理は果たしたとばかりに達夫は辛かった落語家修業のことをすっぱり捨て去り、前へ前へと進んで行くのである。以降は渡邉に対する感謝の言葉は出てくるが、鶴光に対してのそれは一切なかった。

本書を読んで私が実感したのは、自分がすっかり落語サイドの考え方をするようになったのだな、ということだった。師匠と弟子の関係も落語を基準に考えている。だからこそ腹が立つのだ。落語家が師匠に服従することを封建的だと見なして嫌う読者も当然いるはずだ。そうした絶対的な上限関係が生まれるのは、師匠が弟子に対して無償で「芸」を伝達するからである。自分が芸を出来るのは師匠から受け継いだものがあるからで、それを下の者に渡すのは義務でもある。そういう考えがあるから、無償で弟子を取るのだ(立川談志のように有償だった一門もあるが)。その恩があるから、弟子は師匠を立てるわけである。

しかし落語の師弟は、手取り足取り芸の指導をするような関係ではない。師匠がしてくれることはあくまで芸人としての場を作ることだけで、弟子はその機会をもらって自分で自分を伸ばしていくのである。その関係を「何もしてくれないではないか」と考える者が出てきてもおかしくはないだろう。「そんなことをしている場合ではない」と考えるようになれば、旧い師弟関係から離れて自由に振る舞える世界を探しに行くわけである。嘉門達夫はそうした。そうしなかった人間が落語界に残っている。

私は芸人ではないから、どちらを取るのが正解か、というようなことを言える立場ではない。ただ、自分の中に明らかな傾きができたな、と思うだけだ。『丘の上の綺羅星』を読むことで、自分の中にある芸人観について考える機会をもらった。それだけでも読む価値はあったと思うのである。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

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