この本が届いたその日あたりに、韓国大巨人ことチェ・ホンマンに詐欺容疑で逮捕状が出された、というネットニュースを見た。これ、シンクロニシティ?(それにしても、あの件はどうなったのだろうか)。
今回ご紹介したいのは、篠原信一『規格外』(幻冬舎)である。芸人本書評のコーナーなのに元柔道銀メダリストでカテゴリーエラーもいいところかとは思うが、緑のジャージ上下にバラの造花を持たせて(哀しき天才セッド・ジニアスか)なぜかネクタイ着用、という表紙写真から見て、版元は篠原を芸人扱いしているみたいなので番外篇ということで少しだけ大目に見ていただきたい。ちなみに足は草履履きである。これが下駄なら東洋の巨人ジャイアント馬場の米国武者修行時代、ショーヘイ・ザ・ビッグ・ババだ。
篠原信一選手といえば誰もが思い出すのはあのシドニー・オリンピック柔道100キロ級、決勝のダヴィド・ドゥイエ戦だろう。ドゥイエの内股を内股すかしで切って返したはずが、なぜか相手にポイントを入れられ、屈辱の敗戦を喫したという一戦である。後に「世紀の誤審」と言われ、多くの柔道ファンの義憤を誘ったが、試合後の記者会見で篠原が「弱いから負けた」とだけ言って未練がましい態度を一切見せなかったことから、負けこそしたものの彼を批判する声は皆無で、逆に男を上げた。
やはり気になる一件と見えて、本書はそのダヴィド戦の話題から始まっている。その「弱いから負けた」発言についてもこんな風に。
負けてしまった自分に何も語ることはないし、どんな顔をしてカメラの前に立てばいいのかも分からない。そして何よりもまだ僕は人と話せるような精神状態ではありませんでした。(中略)カメラのフラッシュがバシバシたかれて、なんて邪魔くさいんだと思いました。お前らもうええやろ、こんな俺に何を聞きたいっていうねん。(中略)
「自分が弱いから負けたんです」
そう一言だけ言って、さっさと会見を切り上げてしまいました。(後略)
あれっ?
思ってたのと違うよ?
本書の後段にも書かれているが、篠原は「死ぬまでタバコを吸うんちゃうかな」というほどの愛煙家であるという。実はシドニーオリンピックのこの日も、一試合終わるごとにスモーキングタイムを楽しんでいた。しかも人目を気にしてわざわざ胴着からTシャツに着替え、わざわざ会場の外まで歩いていって一服。同病相哀れむ人たちならばこの一服への執念はよく理解できるだろうが、何しろオリンピックの決勝なのである。
「篠原、今日は吸いすぎるなよ。今まで何本吸ったんだ?」
日本代表のコーチだった斉藤仁先生から窘められました。
「今日はあんまり吸ってないんですよ、5本です」
「吸いすぎだろ!」
そんな気楽なやり取りもありました。(後略)
あれれっ?
お、思ってたのと違う?
もちろん決勝が始まるまでの間にもタバコを吸いに行きたかったのだが、英語がよくわからないために試合開始までどのくらい時間があるのかわからず、結局吸えずじまい。もやもやとしたままドゥイエとの一戦を迎えることになる。タバコというと眉をひそめる向きもあるかもしれないが、孤独な闘いをするスポーツ選手なのだから集中力の高め方は人それぞれでいいと思う。なるほど、現役を退いた今だから言える内幕である。
第1章ではこのドゥイエ戦の顛末を語ったあと、不本意ながら柔道生活に入らされたという十代のころを振り返っている。本人曰く「流され続けた柔道人生」である。中学入学時点で180センチ近い身長があった篠原は中学校の先生に無理矢理柔道部に入れられてしまう。体は大きいがスポーツにまったく興味のなかった篠原にとって柔道部生活は、投げられてばかりで「痛いわ、疲れるわ、おまけに柔道着はすぐにくさくなるわ」でまったく楽しくなかった。もちろん大会でも自分より小さい相手にコロコロ負けるだけであった。
にもかかわらず中学を卒業すると兵庫県の育英高校に進み、さらには柔道部の名門・天理大学に入ることになる。そこで先輩たちから無理矢理飯を食わされて体重が増え、ようやく試合で勝てるようになるのである。
実は柔道の申し子でもなんでもないのに、先生が怖いのでなんとなく柔道を続けていたら強くなってしまった、というプロフィールは小林まこと『柔道部物語』(講談社)に出てくる江南高校の大脇を連想させる。身長190センチと巨体なところも似ているが、もちろん1973年生まれの篠原よりも大脇のほうが年上だ。当時はそんな風に、体がでかいからという理由で無理矢理柔道部に入れられる子がたくさんいたんだろうね。
『柔道部物語』は高校の話だが、先輩が1年生をしごく話が序盤のエピソードとして出てくる。もちろん篠原もその洗礼を受けている。特に大学柔道部では、絶対的なヒエラルキーの前に服従するしかなかった。前述の体重増加についてもこんな具合に飯を食わされたという。
「篠原、お前今日はダブルな。早く食って太れ」
(前略)ちなみにダブルというのは丼2つ分をガチャンと合わせて作った漫画みたいな山盛りご飯を意味します。(中略)そんな時、先輩は自分が食べ終えた夜食のカップラーメンの汁を僕のダブルの上にまわしかけて、「これで食え」と言うのです。
食いたくねえよ! と内心で毒づきながらも、反抗はできないので再び食べ始めます。すると悲しいかな、スープの塩味と汁気のお陰で、さっきよりご飯が食べやすくなっているんです。かなりの無理をしてではありますが、なんとか完食することができました。
こうしたしごきの果てにシドニーオリンピックの銀メダリストが出来上がったというわけである。
もともと好きで始めたわけではない柔道であったが、篠原はその後、天理大学柔道部監督を経て全日本代表の監督まで務めることになる。現役引退後に指導者生活を10年弱続けるが、2012年のロンドンオリンピック終了後に2期8年が慣例となっていた代表監督の座を退き、2013年3月末には天理大学も辞職して完全に柔道界から離れた。自分を育ててくれた柔道界に対し不満があったわけではなく、齢40歳を人生の節目と考えて転職を決断したのである。第2の人生では、以前から関心のあった産業廃棄物処理の仕事を選んだ。ロンドンオリンピックが金メダル無しという結果に終わり、また柔道界で不祥事が相次いで世間の目が厳しかった時期でもある。
仕事を覚えるために業者の先輩に頼みこみ、収集車に乗って天理の街を回る篠原の後ろで、心無い噂を立てる者もいた。
「金メダル獲れんで、全日本も大学も辞めさせられた篠原が、トラックに乗っとるで」
そうした口さがない声も気にせずに篠原はわが道に励んだ。「流され続けた」柔道人生から転じて、初めて自分の意志で就いた仕事だからだ。
こうした形で第1章では篠原のちょっとかっこいい(そして世間の印象とはだいぶ違う)柔道人生が総括されている。第2章以降は柔道選手時代に感じたことや現在の心境、家族に対する思いなどが書かれているので、以上の半生記を読んで関心が出てきた人は書店などで本を手にとってみていただきたい。
おしまいに、第2章で大きく取り上げられている篠原の名言を紹介する。
たまには読書でもするか。フランス書院を。
あ、やっぱりなんか違う……。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。