前回に続いて山本晋也『カントク記』(双葉社)のことを書いておきたい。
この本で興味深いのは、1970年代の面白グループについて触れられた箇所だ。面白グループ最大の功績はタモリを世に出すのに貢献したことだが、フジオプロ主義者からすれば少年誌の連載が先細りになっていった70年代後半に、サロン的な憩いの場を赤塚不二夫に提供してくれたという意義のほうが大きい。もちろん創作面での良い影響もあったはずで、この時期の代表作である『赤塚不二夫のギャグ・ゲリラ』を丹念に読み返せば、そこに面白グループの影を発見することもできるのではないだろうか。古谷三敏が独立し、武居俊樹が担当編集者を外れたこの頃、フジオプロにはブレーンと呼ぶべき人材が長谷邦夫と北見けんいちのみで、アイデア量が目減りしていたのだ。
ただし弊害もあった。赤塚は面白グループの発展解消後もサロン的な交流への餓えが止まらず、フジオプロに近い中井駅前で地元有名人として振る舞うことに溺れた。長谷の『漫画に愛を叫んだ男たち』(清流出版)には、妙な人間を遠ざけろと高平哲郎らに諫言され、赤塚がふてくされるさまが描写されている。もちろん中井に集まった人々に悪意はなかったのだろうが、赤塚に与えられる影響という意味においては、タモリ、所ジョージ、山下洋輔といったスターたちと比べるべくもなかった。ここから赤塚の退潮期は始まっていく。
それはさておき。書くべきなのに時間切れになってしまったというのは、たこ八郎のことだった。
たこ八郎、と書いて反応するのは現在40代以上の読者だけだろう。テレビに出ているスギちゃんという芸人がいるが、あんな風に前髪の真ん中だけを長く伸ばし、後は坊主にした独特な髪形、右の耳朶が千切れており、視線もどこか定まらず、過去に何かあったはず、という事情が明らかな、はっきり言えばまったくテレビ向きではない風貌をしていた。その顔で「たこでーす」と言うだけが持ち芸で、後はカメラの前でも自然体に振る舞い、共演者とスタジオの観客を笑わせるのが主な仕事である。今で言うリアクション芸人と一発屋の間のような位置に、バラエティ番組におけるたこの居場所はあった。タモリが「笑っていいとも」に招いたくれたことが、そうした道を開いたのである。
映画、ドラマにおけるたこは少し違う。
彼の知名度が上がるきっかけになったのは山田洋次監督の『幸せの黄色いハンカチ』(1977年)だが、これは主演の高倉健が「網走番外地」シリーズでたこと知り合い、気に入って山田監督に起用を進言したものだった。それ以外の作品でも、子分Bというような悪役の脇で出演するときに存在感を示した。たこのいるそこだけ、画面に特異点が出来る。演技をしている役者ではなく、素のゴロツキがふらっと入り込んできて、間違って出演してしまっているような空気になるのだ。その効果を狙って起用された例も多かったはずである。
たこに映画出演の機会を与えたのが山本晋也だった。売れないコメディアンだったたこは、どこかで山本のピンク・コメディを観たらしい。そこで山本宅に電話をかけてきたのだ。電話をとった山本の妻は「たこの八ちゃんという人からかかってきた」と言ってゲラゲラ笑った。たこの存在が持つ効果に気づいた山本は、自作に彼を出し始める。
『たこでーす』(アス出版)から、たこの出演場面がどういうものだったかを引用しよう。
おかしかったよ。あれは何の映画だったか、たこちゃんが意味なく鉄棒にぶら下がってるんだよね。そういう、非常に奇妙な映画ですよ。そうじゃないとしようがないんだよ。セリフは言えないし。(中略)「しようがねえなあ。ここ公園だろう。じゃ、たこちゃん、そこにぶら下がってるか」って言うと、「へーい」なんて、ぶら下がってるんだよね。すると、そこへ多少セリフ言えるやつがやってくる。そこで下手にからかうと、自分の芝居が殺されちゃうから、それを無視してやっている。これで実に面白い画面が構成できたわけですね。
画面の中に特異点として存在して周囲の空気を歪ませ、緊張と緩和を自然に作り出す。山本がたこに与えた役割はそういうことだったのだと思う。テレビドラマ「さくらの唄」(山田太一脚本)でたこをレギュラーとして使った久世光彦は、もう少し別の使い方をしている。桃井かおりに惚れているバカという役で、彼女の前を自転車で通り過ぎながら、見とれてしまって電柱にぶつかったり、川に落ちてしまったりする。それだけの役回りだ。
日本ではそういうのあんまりないんだけど、僕は好きなのね。無機的な役っていうか。(中略)「さぞ痛いだろうな」というところで、おかしさと憐びんというか、同情を買うと。アメリカ映画ではよくあるギャグなんだけどね。ドーンとブチ当たっといてパッとシーンが変わるという…。とにかく凄いんだよ、あいつは。何に当たっても平気なんだよ。(中略)僕は、ホントにやるに勝るものはないと思うのね。とくにギャグの場合はね。高いところから飛び降りるスタントにしてもそうなだけれども、おかしいってことはね、「可哀いそう」とか「痛いだろうな」っていうのはシンパシィになるのね。
『幸せの黄色いハンカチ』に出演した際も、高倉健に頭を掴まれ、車のボンネットに打ち据えられるシーンでたこは本領を発揮した。遠慮する高倉を促し、自ら頭をぶつけ始めたのだ。もちろん一発でOKが出る。そうして体を張った演技こそが唯一、カメラの前でたこがする「マジ」の演技だった。自分にできることはそれだけしかないと割り切っていたのだろうか。いや、そうではないような気がする。自分の体を道具として割り切り、それを活用するということだけを考える。棒のように倒れるべきときは倒れ、背景に徹するべきときは貼りついて何もしない。そのことによって何か(多くの場合は笑い)が生み出される。たこはそれに徹しようとしたのではないかと思うのである。たこの師匠は由利徹であり、アチャラカの最後の継承者とも言うべき喜劇人だった。由利は性格派俳優になることを潔しとせず、徹底して喜劇の芝居をし続けた。心理表現を排除し、喜劇的な外形のみを演じる芝居である。由利に憧れて芸人の道に入ったたこは、演技のできない自分にどこかで見切りをつけ、体を張ることに活路を見出していたのではないかと私は考えるのである。
前後したが『たこでーす』は1983年に刊行された、当時としては前例のあまりない、売れない芸人1人だけをフィーチャーしたファンブックであり、伝記である。師匠の由利や、山本、赤塚、高平、タモリ、柄本明といった面白グループ人脈、プライベートでも仲の良かったあき竹城や白川和子といった人々が楽しげに人間・たこ八郎を語り、それと本人の談話とを交互に綴っていくという形で本書は構成されている。刊行当時から奇書であるとの評癌が立っていたが、読み返してみると密度が半端ではなく、芸人本としては異例なほどにみっしりしている。これだけの好著はなかなか無いと思うが、現在絶版になっているのが本当に残念だ。
たこ八郎は本名・斎藤清作、ファイティング原田と同じ笹崎ジムに所属したフライ級のプロボクサーだった。東日本新人王戦で原田と共にトーナメントを上りつめたが、同門対決が禁じられていたこともあり、仲のいい原田に譲って自分は棄権した(原田が新人王に)。そのため出世は遅れたが、1962年に22歳で日本フライ級のチャンピオンの座を奪取している。頭のてっぺんを剃り上げた奇抜な髪形から河童の清作と呼ばれ、ノーガードで前に突き進む特異なボクシングスタイルでも人気があった(これが矢吹丈のノーガード戦法の元だという説があるが、未詳)。ボクサー時代のたこについては笹倉明『昭和のチャンプ たこ八郎物語』(集英社文庫)が詳しい。
『たこでーす』のよいところは、これを読むとたこの人懐っこい、そして寂しがり屋な顔が見えてくる点である。1940年11月23日に宮城県仙台市のはずれで産まれた斎藤清作は、洋画(ジェリー・ルイス&ディーン・マーチンの〈底抜け〉シリーズがお気に入りだった)などに影響を受け、早くから都会に出ることを夢見る少年であったという。当時、サーカスには人さらいがいて、それに捕まると酢を飲まされて体を柔らかくされ、曲芸師にされるという都市伝説があった。清作少年はその話を聞き「サーカスにつかまって行けば、都会へ行ける」と夢想した。とにかく賑やかなところに行きたかったのだ。
上京したのもボクサーになるためではなく、なんとなくの憧れがあったからだろう。そのため現役に執着せず、むしろ日本王座の防衛線で敗れて引退届を出したときは負けて嬉しいという心境だった。コメディアンに憧れて現役ボクサーのまま由利徹に入門志願をしたものの、「俺がチャンピオンを弟子にできるかよ。ボクシングができなくなったらこい」と言われていたからだ。言質を立てに清作は見事弟子入りを果たす。たこ八郎の芸名の由来はよく行く飲み屋の名前が「たこ九」だったことに因んでいる。ただし、由利徹がつけた名前は本来「太古八郎」だった。だが、ある事情により改名ということになる。
由利 (前略)そしたら、あいつが、「先生、タコって漢字、ボク書けねえ」って言うんだよ、な。多いって言うの、この、字の画数が。「古っていう字が、ど、どうしたらいいのか…」って。もう全然おかしな字、書くんだ、あれ。片仮名か平仮名だったら書けるって、困ったよ。
しかしたこにはボクサー時代の激しい打ち合いのために障害が残っていた。どこでもすぐ眠くなる。そして眠れば所構わず寝小便をしてしまう。師匠と一緒にタクイーに載っている際に後部座席で漏らしてしまい、溜まった小便が溢れて由利の靴の中まで一杯になった、などということもあった。あまりに寝小便の布団を干してばかりなので、由利の息子が自分がやったと思われるから止めてくれ、と文句を言ったくらいである。そのため、1年余りで内弟子を辞した。
その後に頼ったのが稀代のボードビリアンとして知られる泉和助、そしてその弟子の泉太郎(ワ輔)、由利徹門下のはな太郎らであり、はなの家には2年近く居候している。いや、由利の家を出てから10年近く、1970年に新宿百人町のアパートを借りるまで、たこには決まった住所がなかったのだ。誰のところに厄介になっても邪険にされず、惜しまれつつ去っていくような居候の哲学をたこは持っていた。持病の寝小便があり、酒も飲むのだが、それでも嫌われないのである。山本晋也や久世光彦といった人々が手を差しのべたくなったのも、わかるような気がする。
ともすればそうした放浪人としての側面ばかりが注目されがちだが、たこには喜劇人としての矜持があった。あくまでアチャラカに徹する由利徹について言葉を引用する。
由利徹ってのは、やっぱ日本一だね。喜劇役者ったら由利徹しかいないね。あんなにできる人、いない。古典を知ってるから。新しいもんだけじゃなく、古いもんも知ってて、それが全部できていて、それを崩したりできるの。(中略)動けるんだもん。忠臣蔵の山崎街道でも、”赤城の山”の所作でもちゃんとやれるの。”赤城”なんて、島田正吾、辰巳柳太郎をちゃんと使い分けるからね。両方できんの。
アチャラカにおける型の重要性をたこはきちんと理解していた。考えてみれば日本の頂点へ上りつめたアスリートなのだから当然のことである。喜劇人の本質は身体性にある。自身ではそれが叶わなかったが、できる範囲で実現しようとしてあのような「たこ八郎」の芝居を選んでいたのではないだろうか。おもしろおかしい一面だけではなく、そうした素顔も『たこでーす』という本は覗かせてくれる。戦前に活躍した高瀬実乗という怪優がいる。「あのネ、おっさん。わしゃかなわんヨ」のフレーズを言うだけで観客を持っていくという芸の持ち主で「アノネのオッサン」の異名をとった。たこが目指していたのも、実はそうした道だったのではないだろうか。
1985年7月24日、たこ八郎は海水浴に出掛けた先で心臓麻痺を起こし、死亡する。享年44である。溺死という報もあり「たこ、海に還る」などと見出しを立てたスポーツ紙もあったが、これは芸人ゆえの悪洒落というべきだろう。山本晋也『カントク記』は、鬼籍に入ったかつての仲間達を偲ぶ最後にたこについて書き、あとがきを終えている。それを読んで幻のようにたこ八郎の記憶が甦ったので、あえて一回を立てて書いた。
本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く派列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。