今回は新刊で芸人本を読むのが間に合わなかったので番外編です。ご勘弁を。
ご存じの方もいらっしゃるかもしれないが、私は書評家の藤田香織さんとの共著で『東海道でしょう!』(幻冬舎文庫)という本を出している。東海道五十三次495kmを実際に歩いてみたルポルータジュだ。数年前の著書なのだが、最近になってこの本に絡んだ講演をしてほしいという依頼があり(2017年8月5日、神奈川県立歴史博物館)、復習も兼ね、今度は単独で東海道を歩いているのである。6月に入って三島~吉原宿のだいたい25kmを歩いた。
三島という地名を聞くと反射的に口をついて出てしまうのが「産で死んだが三島のおせん」というフレーズだ。「三島のおせん」というのが何者なのかは知らない。浪曲か講談にそれらしい登場人物があるのかと思ったがそうでもないようなので、たぶんこれは香具師の掛け声の一種なのだと思う。最初に聞いたのは映画〈男はつらいよ〉シリーズにおける渥美清の台詞だ。渥美は若いころ香具師の世界にいたことがあるので、おそらくはそこで覚えたものではないだろうか。
その三島行の際に読んだ本が二冊ともプロレス関係の本だったので、関係はないのだが書名を挙げておきたい。一冊はフリーアナウンサーの清野茂樹による『1000のプロレスレコードを持つ男』(立東舎)である。これはJR東海道本線の東田子ノ浦駅前にぽつんとあるgrow booksという書店で購入した。サブカルチャー系の分野に強い本屋だが、周りに何もない場所でその品揃えを貫いているのがすごい。
『1000のプロレスレコードを持つ男』は入場テーマやプロレスラーの吹き込んだレコードなどを主として扱っているもので、他の書店で見かけた際はよくあるコレクション自慢の本かと思って買わなかった。その手のもので関心したのは20年くらい前にシンコー・ミュージックから出た『悶絶! プロレス秘宝館』というムックくらいで(三冊出ている)、後はマニアが鼻高々になっている臭みが嫌で性に合わなかったのである。しかしこの本は違った。プロレス会場で掛け捨てにされた音源を探して歩いたり、編曲者と対談して当時の状況を確認したり、清野茂樹のやり方は研究者と呼ぶにふさわしいものであり、感心させられることが多かったのである。新日本・全日本で選手のテーマソングを作った鈴木修との対談で、こんなくだりがある。
鈴木 武道館の小橋(建太)さんの試合の後は必ず、帰る群衆に紛れて、みんながづいう風に曲を口ずさむかとか、どこのフレーズが気に入っているかとか、全部リサーチしてそれを反省材料として他の選手にも活かしていたんです。
お名前を失念してしまったのだが、漫画家が近所の小学生にいくつかのキャラクター案を真似させてみて、いちばん描きやすそうだったものを採用する、というエピソードがある。それに近い営業努力のありようで、ここが私はいちばん興味深かった。
もう一冊は秋山訓子『女子プロレスラー小畑千代 闘う女の戦後史』(岩波書店)で、これは余力があればどこかの媒体で別途書評をするかもしれない。女子プロレスというと全日本女子を中心としたもの、すなわち1970年代以降の歴史を扱った本がほとんどなのだが、これは力道山の日本プロレスとほぼ同時期から活動を始めていた女子レスラーを題材にしたもので、非常に読み応えのある一冊だった。草創期の女子プロレスはキャバレー興行が多く、芸能史と無縁ではない。有名なのはパンとショパンの猪狩兄弟が妹の猪狩定子を含めた女子レスラーを要請してガーター・マッチなどの試合で巡業をしていたことだが、それ以外にも接点はあるはずである。それこそ女相撲の歴史まで遡れば発見もあるはずだ。
本書の主役である小畑千代は1955年に東京女子プロレスに入門してデビューするのだが、その道場が浅草にあったことから、当時の浅草芸人たちとの交流が描かれている。日劇ミュージックホールの設立は1952年だから、1955年というのは芸人にとっての晴れの舞台が浅草から丸の内に移っていく時代である。小畑はこう回想する。
「八波むと志とか、昔は面白い人がいたものよ。八波さんの芸を見て、お客さんをいかにのせるかが大事だと、メリハリがなかったら何事もだめなんだと感じた。それで私は頭の中にいつもA、B、Sと入れてあるの。Aはまじめに一生懸命。Bはちょっとやわらかめに、時には軽くコミカルに、お客さんの笑いを誘ったり。Cはみんなでわーっと盛り上げる。その日のお客さんの層や、反応、盛り上がり具合を見て瞬時にABCのどれでいくか決める」
この当時、浅草のストリップ劇場の代名詞ともいえるフランス座に所属していたのが渥美清である。小畑はプロレスデビュー後の1956年に渥美と遭遇している。
フランス座の楽屋に渥美が寝転んでいるところに、小畑が通りかかると、「おー、兄弟。どこか行くか」と声をかけられ、連れ立って出かけたものだった。「大勝館」に映画を見にいき、「玉川」というレストランでごちそうしてくれた。
1956年という年には意味がある。結核治療のために長い療養生活に入っていた渥美が、退院して入院前に続していたフランス座に復帰した歳だからだ。このとき渥美清は33歳である。手術によって右肺を摘出し、残りの残った左肺のみで生きなければならないと運命づけられたことは、彼にとって大きな出来事であったはずだ。しかも、入院期間中に芸能の世界には大きな変化が訪れていた。1953年に各局が開設されたテレビ放送が波に乗り、大衆娯楽の中心になりつつあったのである。
著者の秋山はその後の渥美について「しかし、人気が出てテレビから声がかかった渥美は、退院して一〇ヵ月ほどの一九五七年、フランス座をやめて浅草を離れ、テレビへと進出する」と書く。ここは少し事実誤認があるところで、小林信彦『おかしな男 渥美清』(新潮文庫)によれば、渥美はそうそう容易にテレビに移行できたわけではないという。渥美をテレビに売り込んだ恩人は浅草時代からの仲間である関敬六で、フランキー堺主演の生放送ドラマ「わが輩ははなばな氏」に自分と一緒にちょい役で押し込んでくれた。その後1958年に関と谷幹一、渥美の3人でトリオを組む話が来るのだが、〈脱線トリオ〉(由利徹・南利明・八波むと志)の二番煎じになるのを嫌がった渥美が勝手に脱退すると言い出して挫折する。かといって浅草から丸の内への進出もうまくいかず、1958年当時の渥美は完全な混乱期にあった。ようやくチャンスを掴むのは、1961年にNHKのドラマ「若い季節」とバラエティー番組「夢であいましょう」に出演してからのことである。
その1961年に小林信彦は初めて渥美清と会う。『おかしな男』は、その場面から始まる回想記である。
リハーサル中のスタジオの片隅に、黄色いポロシャツにグレイの夏ズボンをはいた男が背筋をのばして立っていた。天然パーマのかかった豊かな髪にはポマードがべったりついている。
他人のリハーサルを見ているのか、考えごとをしているのかは判断できない。
男の出番がまだであるように、ぼくの出番もまだであった。テレビ局での長いリハーサルほど退屈なものはない。細い目の男は歩きだした。ぼくに向って歩いてくると、突然、挨拶代りででもあるかのように、小声で「金が欲しいねえ……」と言った。
渥美清こと田所康雄との出会いである。
冒頭の部分をそのまま書き写したのは、このスケッチこそが芸人についての回想記には不可欠なものだと思うからである。虚実の境にいて、実人生そのものを演じる傾向のある芸人のことを書くならば、その発言を鵜呑みにするのは危険であり、絶えずそれがいかなる立場で口にされたものかを考える必要がある。「落語家の書いた本はみんな嘘」というのは立川談之助の名言だが、その通りであると思う。嘘というよりは、装い、演技であることを承知の上で読む必要があるのだ。他の職業ではプロレスラーにも同じようなところがあり、証言を集めてきてもそれが真実にはならないのが難しい。だからこそ芸人の世界を外側から書くのは難しいのだ。
外部の人間に可能なのは、自身が接触した部分を見聞記として書くことだけであり、小林信彦ほどそれを熟知した記録者はいない。以前小林は某作家の書いたトニー谷伝を酷評したことがあるのだが、それは上に書いたような難しさを無視して、片言隻句を寄せ集めて伝記とする行為への批判を伴ったものだった。ご存じのとおり小林には『日本の喜劇人』(新潮社)という著書があるが、それもすべて戦前からの見聞の蓄積を元にしたもので、自身の限界をよく弁えた内容になっている。
小林が日本の喜劇人を書いた主要著書は、『日本の喜劇人』以降に三つある。1992年の『植木等と藤山寛美 喜劇人とその時代』、1998年の『天才伝説 横山やすし』、そして2000年の『おかしな男 渥美清』である。このうち『植木等と藤山寛美』は後に伊東四郎についての章を加えた『喜劇人に花束を』として改められたが、本文中で自身が断っているように『日本の喜劇人』追補としての性格を持っている。『日本の喜劇人』の成立は1972年だが、1982年に再構成されて新潮文庫に収められた。それから10年が経った時点での続編という意味があったはずだ。この本もそうなのだが、『天才伝説 横山やすし』と『おかしな男 渥美清』の両書も揃って2008年に刊行された『定本 日本の喜劇人』に収録された。2003年に古今亭志ん生・志ん朝父子のことを書いた『名人――志ん生、そして志ん朝』(現・文春文庫)が刊行されているが、これは古今亭志ん朝の急死によって東京落語の最良の部分が失われたとする小林の、個人的な追悼記である。他の著書と同様、小林の回想記の性格があるのだが、いささか性質が異なる。
以前から書いているようにこの連載は「芸人が自身について書いた本」について、その語り方を問題として続けている。芸人がいかに自己言及しているか、という点は外部の人間にも客観的な判断ができると考えているからだ。自己言及のありようというものは小説における文体に近い。文体研究ならばなんとか自分にもできるだろうという思いが私の中にある。それ以上のことを戒めているのは、言うまでもなく小林信彦という偉大な見巧者の仕事を知っているからである。このたびたまたま『おかしな男 渥美清』を再読する機会があり、その気持ちを新たにした。芸人について「書ける」という気持ちがある方は、ぜひ一度この本を読まれることをお薦めしたい。
本の初めのほうに、当時近所に住んでいた小林が渥美の渋谷区隠田にあるアパートを訪ねる場面がある。デイジー・ガレスピーの名曲A Night in TunisiaをもじってA Night in Omotesandoと私は呼んでいるのだが、その場面に発揮されている対象との距離の取り方、人物描写の的確さ、そして詩情をその自称芸能評論家氏が発揮できるものか。またもや少し長くなるが、「アパートでの一夜」の章の終わりをそのまま引用する。
夜中の二次になったが、そろそろ……とも言わない。
ぼくが腰を上げると、
「生きづらいかも知れないけどさ。お互い、孤独でいようよ。盆や正月に先輩の家に挨拶に行く必要もないしさ。こんな気楽なものはないよ。独りがいちばんだよ」
彼は念を押すように言った。
「遅くまで失礼して……」
ぼくは立ち上り、ベッドの脇をまわって、ドアの方へ歩く。
「本当に笑いが好きなんだねえ」
送りに出てきた渥美清は真顔で、不思議そうに訊いた。
「で、おたく、どうしてコメディアンにならなかったの?」
ぼくは絶句した。
これ、この呼吸なんである。