死者の声なき声が生者を包みこみ、心を揺り動かす
南北戦争のさなかである一八六二年二月、エイブラハム・リンカーンは最愛の息子ウィリーを喪った。わずか十一年でこの世を去った長男の思い出に浸るため、大統領は納骨堂を訪れる。彼は気づかなかったが、その様子を見つめる者たちがいた。ウィリーの先住者、肉体は失ったものの地上から去ることのできない、幽霊たちである。ジョージ・ソーンダーズ『リンカーンとさまよえる霊魂たち』(河出書房新社)は、死者のつぶやきが充満した長篇小説であり、二〇一七年度のブッカー賞にも輝いた。
本書の主人公は大統領をコロスのように取り巻く死者たちだ。彼らが口にする言葉で本文は構成されている。死者たちは自分の生前の姿にいまだしがみついており、その妄執のために各自が異様な姿に変貌を遂げている。そうした人々の声が、大統領と愛児を見守っていくうちに変化していく。死の事実を受け入れることで、自身が在りし日々の出来事を受け入れるようになるのだ。冥界からの照射という形で、作者は生に光を当ててみせる。
『牧神の影』(ちくま文庫)も死者の声が聞こえてくる長篇小説である。作者はドッペルゲンガーを題材とした異色のスリラー『暗い鏡の中で』を書いたヘレン・マクロイである。庇護者だった伯父を亡くしたアリスン・トレイシーは、生活費節約のためコテージで一人暮らしを始める。その初日から異変は起きた。深夜、コテージの周囲を何物かが逍遥する足音が聞こえたのである。どの隣家からも遠く離れた山中なのに。やがて彼女は奇妙な足跡を発見する。それは伯父が遺した手記にあった、半人半獣の牧神パンを思わせた。
主人公を狂気の淵へと追い詰めていく得体の知れない影と、理知的な謎解きとの対照が見事な一作である。亡くなった伯父はしろうと暗号研究家でもあった。作中時間は戦時下に設定されており、機密保持を巡る息苦しい雰囲気が恐怖に拍車をかけるのだ。
もう一冊も獣のお話。ミック・ジャクソン『こうしてイギリスから熊がいなくなりました』(東京創元社)である。イギリスには多くの魔犬伝説が遺されているが、それは大型獣が絶滅して久しいことの裏返しでもある。本書は題名通り、なぜ熊がイギリスから姿を消したのかを八つの物語で綴った偽史小説とでもいうべき作品だ。中世に実在した「熊いじめ」の見世物を扱った話もあるが、ロンドン中の下水網が実は熊たちの強制労働によって修繕管理されていた、という明らかな法螺話の上に成り立ったものもある。人間が不可視領域に追いやって忘却したがる忌まわしいもの全てが、今はもういない熊に重ね合わされているのだろう。その熊たちが大挙して去っていく結末には、たまらない喪失感が漂う。