弁護士の栖本には、かつて仕事上の挫折から自暴自棄となり、職も家族も投げ棄ててしまった苦い過去があり、今は漫然と仕事をこなすだけの無気力な日々を送っていた。その栖本がまだ家庭を持っていた頃、妻以外に愛した女がいた。不思議と自分のことを語ることが少なかった女、瞭子。だが彼女はある日突然栖本の前から姿を消した。まるでそれまでの日々を否定するかのようにあっけなく、何も理由を語らずに。
それから五年後、栖本は偶然瞭子に出会うが、彼女はその夜何者かに刺殺されてしまう。警察は単なる痴情沙汰として事件を片付けようとするが、事件の背景にはもっと深い根が存在していた。殺人の晩、瞭子は栖本の留守電に何事かを依頼するメッセージを残していたのだ。依頼の内容は不明ながら、栖本は瞭子の死の謎を解くため、事件の調査を開始する。
プロットは典型的な私立探偵小説のものである。主人公・栖本の調査方法が人々への聞き込みである点、奇をてらっておらず、好ましい。また栖本が事件に絡む動機も、恋人への未練がなせる業であり、人間くさく、読者を十分納得させるものである。謎解きの展開も、錯綜した謎が一つずつ明かされるたびに、瞭子の素顔を覆うベールも一枚ずつはがされていく仕組みになっている。すべての解明が終わったとき、栖本の前に現れるのはどんな女性なのか?読者はその一点の関心にひきつけられるだろう。原稿用紙にして一三〇〇枚、一気に読み通すだけの迫力がみなぎっている。
注目されるのは、瞭子の幻影を追う調査の進行が、栖本が自分の過去に直面していく過程と重ね合わされている点である。栖本が自分の人生から逃げ、無気力に生きているのは、彼が過去を思い出したくないものとして封印していることに原因がある。だが調査によって瞭子の凄惨な過去が判っていくにしたがい、栖本は、彼女がどんな気持ちで自分の過去に向き合っていたのか、考えなければならなくなる。それは同時に、瞭子に接していた時の自分はどうであったか、という自身への問いの始まりでもあった。
二人が過ごした短い時間に、瞭子と栖本はお互いに自分の素顔をさらけ出していたのか?過去を封印するような偽りの顔で相手に接するのは、心から相手を愛していなかったためではないのか?自分の過去から逃げ続けてきた栖本にとって、それは答えの出しにくい問いだったが、次第に彼は自己憐憫の殻を脱ぎ捨て、自分自身に向き直るようになっていく。
死んだ恋人へ向けられていたはずの問いかけが、いつの間にか自分への問いとして返ってくる。自分を取り囲む謎を解こうとすると、いつも自分自身の内奥をのぞかなければいけなくなる。こんな、どうしようもなく自分に縛りつけられた人間を描くのが、現在の香納の関心事であるようだ。それは香納の主人公に、他人との交流が無批判に信じられない孤独な人物が多いことからも明白である。
そのような人物像は、決して特殊なものではない。孤独こそが現代社会において顕著な生き方だからだ。孤独な人間同士が理解しあうことが、いかに困難であることか、香納は繰り返し読者に訴えている。その重さは、ぜひ一読の上確かめてみてほしい。
一つだけ苦言を呈するとすれば、本書の結末のつけ方だ。それまでの展開が緊密なだけに、最後に付された後日談は不必要である。エンターテインメントとしては当然必要な結末と考える人もあるだろうが、かえって主題をぼやけさせる結果になっているのが残念。逆に余韻を拒むような幕切れの方がふさわしかったと思うのだが。
(初出:「問題小説」1998年7月号)