まだ北海道テレビ制作の番組「水曜どうでしょう」についてあれこれ考え続けている。
前回のこの欄であの番組について「非日常を圧倒する日常」が魅力の源泉なのではないか、と書いた。それは私にとって重要なキーワードでもある。何が起きても日常に回帰していくという安心感、特別なことのない、普通の生活がダメージを受け止められてくれることの心地よさを知らしめることが、大衆芸能の普遍的な目的ではないかと思っているからだ。ふてぶてしい顔をした日常、と言い換えてもいい。それを現出させることのできる技能者、芸人を私は尊敬する。板の上で演じられる大衆芸能は生み出され、消滅していく。何事かを残せるとしたら、観客の心の中だけなのである。笑いは教条的であったり、高圧的であったりしてはいけないものだが、瞬時に消えつつも何かの引っかかりを残していくことができる。わざわざ口にするような野暮はしないだろうが、そのことをこっそり認識している芸人は多いのではないだろうか。
「水曜どうでしょう」は、商品としては特殊なありようを持っている。レギュラー番組時代からそれは始まっており、新作と並行して「水曜どうでしょうリターンズ」という再放送を行っていた。もともと奇数月のみの番組だったものが年間を通じての放送に変わったため、品質を落とさないようにするため、藤村忠寿・嬉野雅道のディレクター陣が局に求めて認めさせたものだ。その時点で両ディレクターに自覚があったか否かはわからないが、それが視聴者に受け入れられた事実は、「水曜どうでしょう」に求められていたものがストーリーの展開や、やったことのない企画といった新奇性ではなく、鈴井貴之(ミスター)と大泉洋が2人のディレクターと共にどこかを放浪している、という旅の中の日常性だったことの証明にもなっているように思われる。
本放送終了後も番組は各メディアに配信が開始され、「水曜どうでしょうClassic」の名称で現在に至るも全国で放送が行われている。この原稿を書いている2017年9月現在、私がMXテレビで毎週観ているのはヨーロッパ編の第2弾「ヨーロッパ・リベンジ」だ。なんと1999年の企画である。「Classic」の特徴は単なる再放送ではなく、元の形に可能な限り近づけるための再編集が行われている点で、本放送当時の雰囲気を残すためにあえて手を加えるという逆説的な思想が面白い。その姿勢はDVD全集の刊行時にも貫かれており、かつての「水曜どうでしょう」という日常がいつの時間においても再現できるようにするために、制作陣は努力し続けている。
藤村・嬉野の対談本『腹を割って話した』(イースト・プレス)の中に、番組の成り立ちについて話しているくだりがある。その中で、東京の番組が潤沢な予算を元に作り込んだ笑いを見せることができるのに対し、ローカル局制作という条件から割り出した最善手が「水曜どうでしょう」だったという意味のことを藤村が口にしている。それに対する嬉野の発言がおもしろい。
嬉野 東京の番組としては、毎日毎日、店先にいっぱいおいしそうなものを並べなきゃいけないっていう状況がある。だけど田舎のこの人材と労力で、おんなじ店が開けるかっていると、それはもうできないのは決まってて。ただ頭数と商品だけそろえてご都合で店先に並べたって、それがうまくなかったら、誰も喜んでくれないに決まってんだよね。(中略)だったら、うまいものができたら、そのときに出す。「あそこの店はいつもものがあるわけじゃないんだけど、ものが出てるときはうまいんだ」って思われればさあ、負けはしない気はするんだよね。
大型店には何でも品が揃っている。小売店が同じことをやろうとしても敵うわけがない。「北海道で冬にとれるはずのない、しなびた野菜」を売ったところで、見向きもされないだろう、という指摘には頷かされる。これは、あらゆるマイナーなジャンルを維持するためのヒントになるはずだ。たとえば、落語である。
落語ブームと言われ、マスメディアでも取り上げられる機会が増えている。しかし実際の寄席や落語会に足を運んだ経験がある方ならおわかりのように、恩恵を受けている芸人は驚くほど少ないのである。他のすべてのジャンルと同様、一部の人気者のところに客は集中し、それ以外はわずかな客の取り合いになっている。ただ違うのは、十年前であればその「人気者」が「笑点」出演者や、立川志の輔、笑福亭鶴瓶といったテレビの露出がある芸人に限られていたものが、柳家花緑などの良い血統を持つ者や、桃月庵白酒、春風亭一之輔といった若手にまで広がってきているということだろう。さらに落語芸術協会の二ツ目が仕掛けた〈成金〉ユニットや、サンキュー・タツオ監修の〈渋谷らくご〉の成功によって、一部の二ツ目が真打を凌ぐ知名度を獲得するという逆転現象も起きている。
では、新しい〈人気者〉の仲間入りを果たすためには何が必要かということだ。マスメディアで毎週放送が行われている「笑点」は紛れもなくメジャーなコンテンツだが、そこに参加できる者はごくわずかだ。また、全国区の「笑点」がある限り、第二、第三の「笑点」を作ることには意味がないのである。つまり、マイナーならマイナー、大型店に対する小売店の戦略を持たない限り、すでに存在する〈人気者〉には対抗できるわけがない。藤村・嬉野の戦略にこそ、これからの芸人は見習うべきなのだ。そこに、私が「水曜どうでしょう」という番組を気になってならない理由がある。
藤村はエッセイ『けもの道』(角川文庫)の中でこう書いている。「番組のターゲットをまずはっきりさせる」というテレビのマーケティングは、実は間違いなのだと。
女性をターゲットにしてしまった段階で、最高視聴率は五十パーセントになり、若い女性と限定すれば、さらに獲得できる視聴率は下がる。(中略)確かに、平日の昼間にテレビを見ているひとは、うちにいる奥様方か老人がほとんどだから、そこにターゲットを絞るというのは的を射ている。でも、僕が作るのは深夜番組。子供も大人も老人も、とりあえずうちにいる。そこでターゲットを絞ってしまったら、獲得できる視聴率の上限を自ら下げることになる。
これは「尖った笑い」を求めるやり方とは正反対の考え方に見える。尖鋭的なものを見せればそこに新しもの好きが飛びつき、それに導かれる形でフォロワーが増えていく。1980年代から現在に至る「笑い」のコンテンツは、そうした形の成功モデルを追い求めてきた。自らが流行を作り出し、あわよくば「社会現象になった」と認められ、後世の人に「時代と寝た」と崇められることが目的だったのである。それに対し藤村は、「自分がおもしろいものと感じるものを作る」というセンス勝負にすべてを引き戻すことを主張する。客を絞らず、すべての層に向けて、おもしろいものをぶつけるというのが本来のやり方であり、実は有効な戦略だというのである。前回書いたカメラワークや、「状況」を重視する絵作りといった技術は、そうした中で選択された戦術だ。これについては嬉野が二冊目の著書である『ぬかよろこび』(角川書店)でメル・ブルックス監督作品を例に引いて解説しており、参考になる。落語家の中には大ホールでの独演会よりも寄席の定席での出演を重視する者がいる。私がインタビュー集を作った桃月庵白酒もその一人だ(『桃月庵白酒と落語十三夜』角川書店)。我田引水に聞こえる危険を承知で書くが、自分目当てのファンを対象とする独演会よりも、どんな層の人間がやってくるかわからない寄席で、客といかに対峙するか、受けさせることができるかを自身の芸の指標とする態度は、マーケティングを度外視して本質的なセンス勝負を仕掛ける藤村の姿勢と共通している。
対談集第2弾の『腹を割って話した(未知との遭遇)』の第1章では、打ち上げ花火としてのイベントを否定する発言がある。イベントによって通常番組の平均水準が上がるようなことはない。弾みがつくというのは錯覚で、むしろそうした一瞬の非日常から日常へと復帰すること、非日常の中にも日常の要素を持ち込むことが大事なのだ。
藤村 しょうがないなとは思いつつ。でもなんでそのとき限りの弾みばかりを求めてしまうんだろうと思って。……弾みがいらないっていうんじゃないんだよ? でもそれは看板でしかないから。本質はそこじゃない。看板は大きくしても、商品はちゃんと普段使いの器を置いとくとか、そういうことだと思うんだけどね。
嬉野 だからなんかさぁ……「時代の仕掛人」とか、いらねえもん。
私にはテレビを観る習慣がほとんどないのだが、番組改編期にはさらにその傾向が強くなる。せっかくつきかけた視聴習慣をお祭り騒ぎによって無くさせてしまう番組作りを見ていると、日常が繰り返されることのありがたみを改めて感じるのである。
芸人は売れなければ仕方ないと誰もが言う。立川談志のように「伝統を現代に」という考え方を持っていながらも、まずは売れることを第一の目標に置いて実践した者もいる。たしかに売れることは大事だが、いつもとは違う自分、マス向けの非日常でそれをすることに意味があるのか。「水曜どうでしょう」というコンテンツの、息の長い成功例が教えてくれるものはまだまだあるような気がしてならないのである。大衆芸能の芸人のことを書いているふりをしながら、私は実は、自分自身のライターという仕事についても同じことを考えている。日常を。もっと図太くて、揺るがない日常を。それだけのセンスが我が身に備わっているか否か、常に自問し続けらればいけない。