かつて、ファミコン以前の時代においては、家庭で簡単にできる冒険とは読書に他ならなかった。今やTV画面の中で、簡単に勇者たちの冒険を追体験できるとはいえ、所詮は十四インチ分程度の冒険だ。今でも小説の扉を開けば、無限のイメージ世界が待っている。物語の再生産により無数の複製を産み出した結果、もはや読書から新鮮な感動は失われた、そんな風にニヒリズムを決めこむのは、感性の老化に気付いていない証拠だ。
そんな老けこんだ読者にこそ、お薦めしたい本物の物語、それが『海賊モア船長の遍歴』である。これは、故稲見一良の『男は旗』(新潮文庫)を最後に、もはや書かれることはないかと思っていたタイプの海洋冒険小説、すなわち海賊小説の大傑作なのだ。舞台は十八世紀初頭、主人公モア船長はイギリスの港町プリマスの出身、ということは、かのスティーブンソン『宝島』とほぼ同じ時代を背景としているということだ!巻頭言によれば、七つの海にあのドクロマークの海賊旗が翻っていた期間は非常に短く、せいぜい十八世紀前半の三十年くらいのものだった。海賊たちが航海史に刻みつけた、その僅かな時間のきらめきを物語は追いかけていく。
そもそも本来の「アドヴェンチャー・ギャレー」号は海賊船ではなかった。海賊に悩んだ船主たちの出資を受け、海賊掃討船として出航していたのだ。だがその使命を果たせず、船長のキッドは不履行の責を問われることを怖れて自ら海賊への転身を決める。となれば、彼の部下であるモアもまた運命を共にする他なかった。やがてキッドは船を下り、選挙によりモアが「アドヴェンチャー・ギャレー」号の二代目船長に就任する……。
もともとまっとうな船乗りであったモアだが、海賊としても思いがけない才能の持ち主だった。決して最新設備とはいえない「アドヴェンチャー・ギャレー」号を駆使して海戦を勝利に導く戦術に長けていたのだ。小よく大を制するモア船長の闘いぶりが痛快。そこで活躍する男たちも、〈男爵〉〈大樽〉といった曲者揃いだが、なによりも男たちの母船に対する愛情がきっちり描かれているのがいい。自らが身をゆだねる船を愛する気持ちの中に、船を単なる道具とは見なさなかった時代の心性が現れている。時代小説は、こうでなくてはいけないのだ。
物語はモアの紆余曲折の半生をさらいながら進んで行く。彼の人物は活劇小説の奔放不軌な人間描写の下にうまく近代的な苦悩を潜ませているので、物語の旋律を妨げることなく、話が進むにつれて徐々にモアの人間的な苦悩が暴かれて行く仕掛けになっている。ここらへんの書き方は、ミーイズムの小説から離れられない現代っ子の小説家にはなかなかできない芸当である。そこらへんに今の冒険小説の不振の原因がある。
多島の長編デビュー作は八五年の『移情閣ゲーム』だが、彼は日本には珍しいトリッキーな国際謀略小説の書き手として注目された。その後世界情勢の変化とともに、この手の小説はめっきり数も減ったのだが、多島は作品数を減らしながらも、実作により小説の深度を増してきた。中でも『白楼夢』などの諸作において、帝国主義下の第三世界を描く視点を養ってきたことは大きい。その視点からは、常に近代社会の背景が見透かされているのである。その多島が時代を遡り、あえて帝国主義萌芽の時代に題材をとった小説。これが通りいっぺんの物語ですむだろうか。作者は高らかに自説を吹聴することなく、ただ物語るだけである。だが、一読すればその骨子のしたたかさは明らかだ。海賊であることの誇りとは、決して単なるロマンチシズムではない。
(初出:「問題小説」1999年9月号)