小説家の本歌取りというのは、決して珍しいことではない。志水辰夫がギャビン・ライアル『深夜プラス1』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を換骨奪胎して傑作『深夜ふたたび』(徳間文庫)を書いた例のように、優れた先達の作品世界の上にどれほどのオリジナルが構築できるか、という試みは創作上一つの重要な実験テーマである。
宮部みゆきがスティーブン・キングのファンであることは有名だが、そのキングに『ファイアスターター』(新潮文庫)という作品がある。パイロキネシス=念火能力を持った少女を巡り、その能力を利用しようとする組織と、組織から必至の逃避行を図る少女の両親とのスリリングな攻防が描かれる作品であるが、宮部の新作『クロスファイア』は明らかにこの作品を本歌取りとして意識した小説である。ただし、そこには宮部ならではの人間主義ともいうべき独自の視点が活かされている。
本作の主人公青木淳子は念火能力を持つ超能力者だが、これが初登場作品ではない。九五年に刊行された中編集『鳩笛草』(カッパ・ノベルス)に収録された「燔祭」は、未成年犯罪者グループに妹を殺された男の苦悩を描く物語だが、この中で主人公・一樹に自らの能力を明かし、自分を悪を討つために利用してほしいと申し出るのが、当時彼の同僚だった淳子なのだ。彼女が事件の主犯格の男を焼き殺した顛末は本作の中でも言及されている。
それから二年後、淳子は東京都東部の街に移り住み、ひっそりと暮らしていた。だがある日、溜まった「力」を放出するため訪れた廃工場で、淳子は三人の不審者が若い男を殺そうとしている現場に遭遇し、瞬時にその内の二人を焼き殺してしまう。瀕死の被害者の口から、ナツコという女性が犯人たちに拉致されていることを聞き出した淳子は、彼女を救出するため、淳子を密造銃で撃って逃亡した男の追跡を開始する……。
宮部の筆は、淳子によるマンハントと淳子の残した痕跡を追う放火捜査班の刑事石津ちか子の捜査行を交互に描きながら、次第に物語を核心へと導いていく。そこにあるのは人間の正義とは何かという問題である。初め淳子の視点から彼女が残忍な殺人者たちを掃討していく様を見た読者は、彼女の容赦ない攻撃に快哉すら上げるはずである。ところが視点を変え、石津ちか子の目から見た淳子の行為は、それ自体残虐な暴力殺人である。いったい、淳子の行為は正義であると言い切れるのか? 宮部は単純な善と悪の二項対立で物事を解決しようとはしない。悪は確かに存在するが、その悪に対比すべき「正義」の所在はどこにあるのか?前作『理由』(朝日新聞社)とは正反対の位置から投げかけられるこの問いにこそ、独自の視点の鋭さがある。
目的のためとはいえ多くの人を殺してしまった時、淳子は自分を「装填された銃」と考え「悪を討つ」ためことに徹するためには、その過程に生ずる犠牲はやむをえない、と自らに言い聞かせようとする。この判断保留の背景には「銃」として生まれついてしまった人間の哀しみが隠れている。「スーパーマン」のモデルとなったSF『闘士』(フィリップ・ワイリー/ハヤカワ文庫SF)が一般社会との違和に悩む超人の自滅を描くものであったように、超能力者の小説には突出した自我、他人とは融和できない自己を抱えた人間の悲哀を描く側面がある。淳子の心の殻は、言うまでもなくそうとしか生きられない自分の孤独を隠しとおすための詭弁だ。彼女が心の平和を見出すことは果たしてできるのか。宮部みゆきの篤実な視線が描く結末は、決して読者の期待を裏切らないはずである。
(初出:「問題小説」1998年12月号)