「安楽椅子探偵」という言葉の意味は、ちょっとしたミステリーマニアならばすぐおわかりになるだろう。事件の模様を聞き、実際現場に赴かずに純粋に思索だけで事の真相をつきとめる探偵のことである。別にそういった探偵の全員が安楽椅子に座っているわけではないのだが、何となく椅子に深々と腰掛けて推理を巡らせている探偵のイメージが「安楽椅子探偵」という言葉に結語したもののようである。ミステリー独特の専門用語というやつだ。
北森鴻『花の下にて春死なむ』は、そんな安楽椅子探偵の系譜に連なるミステリーの連作短篇集である。謎解き役は、東京・三軒茶屋の住宅街にあるビアバーの主人・工藤哲也。彼の「香菜里屋」は四種類のビアサーバーを備え下は三度から上は十二度までのアルコール度数の違うビールが楽しめるという魅力的な店であり、ありふれた材料から芳わしい一皿を産み出す工藤の料理の腕前も、なかなかのものである。いわば、大人なら誰もが憧れる隠れ家のような店なのだ。当然この店に顔を出す客たちも、人生の浮沈を経験した苦労人ばかり。工藤はカウンターの中で彼らの話を聞き、さながら気の利いた小鉢をこしらえるような鮮やかさで、思いもかけない解答を授けるのである。
表題作は、自室で衰弱死した老俳人・片岡草魚の生涯の謎を解く一篇。句作と孤独な生活の点描だけが印された日記帳を残して死亡した草魚だが、本籍地その他の個人情報はすべて架空のものであり、片岡という名前もおそらくは偽名であった。句作の同人で草魚の人柄に魅せられていたジャーナリスト・飯島七緒は、工藤の助言を得ながら草魚の出身地をつきとめ、草魚の遺品を故郷に帰してやるために旅立つ……。
秘められた人生を遡りつつ、老俳人の心の内奥に迫っていく過程が短篇ながら迫力を感じさせる。七緒の探索行は単なるジャーナリスティックな関心にとどまらない。草魚の孤独を我がもののように感じ、探索をもってそれを救済しようという真摯な意志に貫かれているのだ。実際七緒はかつて父親ほどにも年齢の違う草魚と一度だけ契りを結んだこともあるのだが都会の片隅で無聊を共有しあった者同士だけが分かちあえる共感がこの短篇小説に深い裏付けを与えている。それだけに真相に七緒がたどり着いたときには、しみじみとした感動が胸を揺るがすのである。
この小説において工藤は七緒のアドバイザー的な役割を越える働きはしていないのだが、その工藤によって最後意外な結末が付け加えられる。ここは人によって評価を分かれるところだろう。元々ミステリーという非現実的な小説形式をとっているだけに、現実と非現実の匙加減はたいへんに難しい。例えば収録作の内でも、回転寿司屋での変事を語る「七皿は多すぎる」は、現実的な舞台を準備しながらも、結局はミステリー的な非現実の中に収束している。また別の作品「終の棲み家」は、ある写真展のポスターがすべて盗まれるというありふれた出だしから始まり、途中ミステリー的な意外性を経てきちんと納得しうる現実の中に着地してみせるのだ。どちらの手法が優れているということはなく、その両方を操れるところに北森の手腕の確からしさがあるのだが、題材によってどちらの腕をふるうべきなのか、という課題だけが残されているというべきだろう。私の印象では『花の下にて春死なむ』は最後ミステリー的オチを必要としない小説のように思えるし、同じ草魚が登場する巻末の短篇「魚の交わり」においては、そのオチのためにかえって草魚の人生が浮き彫りにされているのである。ミステリーの魅力の根源が奈辺にあるか、確かめる意味でもぜひ一読すべき一冊であるといえる。
(初出:「問題小説」1999年1月号)