「問題小説」なのだから、たまには文壇で問題になった小説を採り上げよう。そう、高見広春『バトル・ロワイヤル』である。
本書は、某社ホラー大賞の最終候補作となりながら選考委員に忌避されて落選した、という不運な来歴の作品である。これは伝聞でしかないが、中学生が互いに殺し合うという主題の残酷性が選考委員諸氏の真っ当な倫理観にはお気に召さなかったらしい。それなら、ホラーじゃなくて純愛文学でも選んだらいいのに……、というのは部外者の放言。お聞き捨てを。
『バトル・ロワイヤル』では、「この国」には「大東亜共和国」と呼ばれる全体主義国家が成立している。「共和国」と「日本国」の社会構造は、一見それほど異なっておらず、せいぜいアメリカ文化が「米帝」として禁止されているだけだ。だが、小説を読み進むうちに、この国家が戦慄すべき非人間的なシステムによって動いていることが判り、じわじわと恐怖がこみ上げてくる。その最たるものが、主人公七原秋也たち香川県立城岩町立城岩中学校三年B組の生徒四二人に課せられた「プログラム」と称する殺人ゲームである。
毎年、全国の中学から一学級が選ばれ、孤島のような閉鎖環境に隔離。選ばれた生徒たちは武器を渡され、最後の一人になるまで殺し合いをさせられるのだ!
闘いを拒否する平和主義は勝手だが、それは殺されるのを待つという緩やかな自殺でしかない。しかも生徒たちには爆弾を仕込んだ首輪がはめられており、禁止区域(だんだん増えて隠れ場所を奪っていく)に侵入したりすると遠隔操作で爆死させられる、という非情なルールまで存在する。こうして秋也たちは、否応なく殺し合いに駆り立てられていく……。
本書の設定から、私は英国作家ゴールディングの『蠅の王』(新潮文庫)を思い出した。この小説は南海の孤島に不時着した少年たちのサバイバル物語だが、最初は大人をまねた民主組織を作り団結していた少年たちが、次第にエゴイズムを剥き出しにし、救いのない殺戮闘争に走って行く過程を描いている。『十五少年漂流記』を思わせる設定が最後に人間の負性を暴く小説に化けるというのが衝撃的だが、当時の冷戦の影響からか作品の舞台を世界大戦中の近未来に設定しているのも斬新である。孤島の外側にもっと救いのない地獄を想定する厭世的世界観など、本書との共通点は多いと言える。
大きな違いもある。五四年に発表された『蠅の王』の登場人物たちが大人たちによって島から救出されることを夢想できたのに対し、九九年に発表された本書では大人による「救済」の途は最初から否定されている。秋也たちを殺戮に誘う教師の名が「坂持金発」だったりすることからそれは明らかだ(三年B組金発先生という厭なギャグ)。あのドラマのようなヒューマンな関係はここには存在せず、この世界では、大人は彼らを支配するシステムの一環でしかないのだ。だが、その絶望的なシステムに立ち向かい、次々に仲間たちが斃死していくのを見つめることで、秋也たちは生き抜く覚悟をくくり、どん底にしかない生の輝きを発見していくのである。
君と世界の闘いでは常に世界の側を支援せよ、と語ったのは評論家の加藤典洋である。この世界に直面するとき、いつも自分は不当に虐げられているように感じられる。特に自分が無力であるほどそうだ。そんなとき、自己憐憫に浸らず、積極的に世界の残酷さを受け入れて立ち向かう以外、実は救済の途はないのである。本書で語られるのは確かに残酷な物語だが、その中には世界との闘いに必要な教えが詰めこまれている。甘ったるい優しさの押しつけに飽きたとき、ぜひ手にとってほしい一冊だ。
(初出:「問題小説」1999年6月号)
※この書評の4年後、映画「バトル・ロワイアル2 鎮魂歌」が制作されることになり、ノヴェライゼーションを私が手掛けた。その経緯については別のところでも書いているので省略する。なおノヴェライゼーション版の後半部は映画版と大きく異なっている。同書には『外伝』という形の続篇がある。「戦争」参加を強いられて死んでいった生徒たちにもそれぞれの人生があったことを書いてほしい、という編集部の意向で執筆したもので、各人の過去を書いた断章小説の形式になっている。もしご関心があれば。